第34話 月夜に響く声・一
屋根から飛び降り着地し、
夜中にこっそり忍び込み、かぐやと二人で眺めたこともある庭は、悲惨な有様だった。災いの闇が憑依した桜の木、傷つき異形に恐怖する兵たち、倒されたかがり火。庭を彩っていた花は無残に散らされ、葉をいくらか落とした木もある。それに、砂浜で会った白兎――
「無事だったのね……?」
「はい。――――参上が遅くなりました」
かぐやの頬に手を伸ばし、少し泣きそうな顔をして葵は応える。かすかに表情を緩めたかぐやは横を向き、御行を見下ろした。
「御行……ごめんなさい…………
途切れ途切れの言葉であったが、御行は彰人の死を言っているのだと察した。彼女は、御行と彰人が親友であることを知っている。きっと謝ってくるだろうとは、道中から予想していたことだった。
御行は緩く首を振り、手を伸ばしかけてやめた。
「……かぐやが気にすることじゃねえよ。あんたは自分のこと考えてな。後は全部、俺が終わらせるから」
触れない代わりにそう、優しく言い聞かせてやる。それに安心したのか、泣く寸前だった目が閉じられた。身体が沈み、目の端に溜まっていた涙が数滴、頬を伝う。
「御行…………闇が、彰人様を…………」
「…………そうか。教えてくれてありがとな」
討つべき仇の名を告げられ、御行は感情があらぶるのを自覚した。それをかぐやに伝わらないよう抑え、できるだけ穏やかな声で礼を言った。
ただでさえ白いかぐやの肌は今や死人のように青白く、脂汗も浮かんでいて、彼女がすさまじい苦痛に耐えていることを物語っていた。父神から受け継いだ力を行使したからだろう。聖なる力が彼女の身体から放たれているのが、御行の全身に伝わってくる。
こんなふうになるまで、彼女は頑張っていたのだ。己を責め、全力で災いの闇と戦い、苦痛にさいなまれて。――――彰人の仇を討とうとしたのだ。
主の眦に残る涙をぬぐう葵に目をやると、彼女と目が合った。御行を見つめた葵は心得たとばかりに頷くと、持っていた宝玉を御行に投げた。御行は宝玉に巻きつけられた紐を掴む。
「姫のことは任せて。――――白陽! 後は二人に任せて、姫を守るわよ!」
「はあ? なんでこいつらだけに!」
「いいからこっちへ下がって!」
白陽の抗議を叩き落とし、葵は指示する。白陽は舌打ちすると、災いの闇の欠片が振り下ろした一撃を避けて下がった。その横から春日が飛び出し、影を斬り落とす。
それを見て、白陽が裏返った声を上げた。
「ちょっと待て! なんで斬り落とせるんだよ!」
「そういう太刀だからな。でもって、俺たちゃそういうことができるんだよ」
白陽の反応が嬉しくて、御行はにやりと笑んだ。しかしそれも束の間、桜の木を睨みつける。
「御行様! 足止めしますから、本体はやっちゃってくださいね!」
影と本物の枝葉を切り落とし、春日は太刀を払う。生まれた風刃は災いの闇の欠片が放った力を打ち消し、防ぐ。
言われるまでもない。御行は災いの闇の欠片を殺すことしか考えていない。
生き物のように身を震わせのたうつ木がさらに攻撃を加えるが、放たれた衝撃波は春日が振るうや生まれた波動とぶつかりあい、せめぎあいとなる。その振動が御行の肌を震わせた。が、身体が少し押されるだけで、他の者のようになぎ倒されそうになったりしない。
御行は宝玉の紐を自分の手に巻きつけると、鞘から太刀を抜いた。
すると、金龍の宝玉に熱と光が灯った。御行の両目に熱が宿り、桜の木に宿った災いの闇の欠片を御行に見せる。
桜の木の中では、闇色の炎が光の矢に貫かれ、のたうち回っていた。光と闇は互いに相容れない存在であり、相手にとって最強の武器なのだ。桜の木の魂魄という小さな世界を乗っ取っていた災いの闇の欠片はそれゆえに今、葵が宝玉の力を借りて放った力によって桜の木の中に縫い止められ、もはや逃げられない。春日が拮抗できているのも、葵と宝玉の聖なる力が災いの闇の欠片から力を削いでいるおかげだった。
御行が災いの闇の欠片に太刀を向けると、声なき声が御行の意識に語りかけてきた。
――――我に刃向かうか。お前も闇に属する者であるだろうに
――――光を捨てよ。闇に連なる者として、我に従え
――――共に月の姫を得ようぞ
それは、災いの闇の欠片からの誘い。もっとも深くおぞましい闇の一部だから、御行の正体を見抜くのは容易かったに違いない。
御行は口の端を上げた。
「同じ? ふざけんな、てめえと同じもんになり下がった覚えなんざねえよ。そんなせこい真似して手に入れる気もねえ。大体てめえは、俺の親友を殺しただろうが。――――もうちょっとましなこと、しゃべれよ」
獰猛に笑ってさらに願うと、太刀に聖なる力が絡みついた。御行の全身に痛みが走り、力の波動が御行の肌を強く打ち、髪をなびかせる。御行の意志に従いながら、拒んでいるのだ。その反発に全力で抗う御行は、良いことしてんだからちっとは従いやがれ、と腕を這い太刀に絡みつく力を叱咤し、構えた。
災いの闇の欠片は御行を敵と認識し、触手を伸ばしてくる。しかし御行が太刀を払うと、それだけですべて両断される。弱った闇の触手になど、龍神の力の結晶は負けはしない。
残りの枝は春日が止めてくれている。御行はそれを視界の隅に捉え、地を蹴った。
御行は血の味を知り、闇に属する者だ。その心は奥深くで闇に通じ、本能は光を恐れる。里にいた頃はさして実感したことはなかったが、神の娘たるかぐやとの逢瀬やこの旅で、嫌になるほど思い知らされた。自分にとって、かぐやはいとしくも畏怖すべき存在だ。否定などできはしない。
だが、自分は災いの闇ではないし、そんなものになるつもりはない。親友であり恋敵でもあった男の仇を討たないつもりも、かぐやを苦しめるものを許すつもりもない。
――――やめよやめよ! 何故闇に連なりながらっ…………!
「黙れっつてんだよ!」
ゆがんだ声が意識のうちに響いても、御行の心はわずかも揺るがない。全身の血管が膨張し今にも切れそうになっているのを体感しながら、御行は桜の木に太刀を突きたてた。
瞬間、桜の木を乗っ取っていた災いの闇の欠片にも、一度目をしのぐ聖なる力が突き刺さった。力は炎となり、光となって闇を飲み込む。桜の木の魂魄という極小の世界が炎と光に満たされ、消える。
かすかな悲鳴さえ上げることなく、災いの闇の欠片は消滅した。
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