第35話 月夜に響く声・二
現実世界の桜の木は、災いの闇の欠片から解放されたものの、枝という枝についていた葉は一枚も残さず落ち、紅葉を通り越して真冬に在るかのようになってしまっていた。災いの闇の欠片を宿して穢れたばかりか、魂魄そのものを失ったのだから当然である。この木はもう死に、穢れてしまった。葉ごと早急に浄化の炎で燃やし、清められたばかりの庭に穢れが広まらないようにしなければならない。
とんだとばっちりで可哀想にと
ともかく疲れた。きびきびと動く兵たちを横目に、御行は太刀を転がして自分もその場にごろりと寝転んだ。こんなに兵が動いている中だが、そんなことはどうでもいいと思えるくらい疲れていた。
首を横に向けてみれば、聖なる力に耐え抜いた腕は膨れ上がって真っ赤になっていて、ところどころ血がにじんでいる。掌をかざしてみれば、腕以上に赤い。血の滴が顔に落ちてきて、くすぐったくて御行は手首でそれを拭った。
「御行様、大丈夫ですかー?」
鞘に太刀を納めた
御行のありさまを見て、春日はうわあと目を丸くした。
「ちょっと御行様、腕と手、ひどいじゃないですか。それに、顔も傷ができてますよ」
「あーやっぱ顔もかよ……春日、わりぃけど腰帯から巾着とってくれ」
頼むと、春日は素直に腰帯から巾着を外して御行に手渡してくれる。御行はだるくて重い腕を持ち上げ、懐に入れていた金龍の宝玉を巾着にしまった。こんなささいな作業さえ、今は億劫だ。
巾着に金龍の宝玉をしまうと、宝玉を受け取ったときから絶えず御行をさいなんでいた苦痛が失せる。こちらへ向かう前に用意し、葵が術を施した巾着には、神鏡を入れていた桐箱と同等の効果があるのだ。宝玉に拒まれる御行が宝玉を持っているためには、これが不可欠だった。
ようやく聖なる力の拒絶から解放され、否応なく体力と気力を削られていた身体は即刻の休息を欲した。瞼が勝手に下がり、頭痛がするのに、意識はずるずると深いところへ引きずり込まれていこうとする。
「ああまじねみい……このまま寝ちまいてえ……」
「そりゃそうだろ。あれだけ強烈な聖なる力を短時間とはいえまといつかせて、平気でいるほうがおかしい」
三つ数える間に沈みそうな意識を無理やり引き上げようとぼやいていると、小さな影が差し、呆れはてた少年の声が落ちてきた。
御行は、半分落ちた目でへらりと笑った。
「よお白兎。無事か?」
「白陽でいい。……俺は無事だよ。葵が血止めをしてくれたおかげでな。……ったく、なんでお前、神の力を使って無事なんだよ。鬼ってのは、そんなに頑丈なのかよ」
「おいこら、俺はれっきとした
近くを歩いていた兵たちが一斉にどよめくのも気にせず、御行は誰憚ることなく白陽に訂正を要求した。
鬼は天狗と同様、人間が堕ちた姿だ。その姿は醜悪、性は極悪。闇に属して山野に棲み、闘争と人をむさぼり食らうことを好む。知恵に乏しく妬み深いため、群れて暮らすことが不得手ともいわれている。
しかし、長い時と多くの経験を経て、人間であった頃のような感情を得るものがごくまれにいる。それは、山野にひそんで天地の気を長く浴び、幾多の死線をくぐり抜け、仲間との出会いと別れを繰り返すからか。はるか古、豊かな心を得た一部の鬼たちはやがて禍々しい同胞の群れから離れるようになり、
そしていつの頃からか、彼らは自分たちを神鬼族――神を祀り、大自然と共に生きる鬼族と称するようになった。闇のしもべのままの鬼族とは違うのだと。陽の世に生きる命の一つなのだと。それが神鬼の主張であり、矜持だった。
御行と春日が数多の兵を手加減してあしらえるのも、地面から屋根まで一気に跳躍できるのも、すべて神鬼族の優れた身体能力によるものだ。特に御行は、数代前に鬼ヶ城を築いて神鬼族を束ね導いた、偉大なる
負傷者の手当てをし、桜の木の葉を集めて清めの作業をしようとしていた兵たちも、駆けつけた大星の老夫婦も一斉にざわめき色めいた。やはり見間違いではなかった、という恐れ混じりの声が兵たちから聞こえ、他の者へと伝播していく。予想と違わない反応だったから、御行はだろうなあと息を吐いた。
神鬼族がどれほど誇り高く在ろうとも、多くの――特に都の人間は、自分たちの末路であり闇に属する神鬼族を認めない。人間は光と闇の狭間にあって光を愛し、清らかなものばかりを讃える生き物だから。神鬼族が神を祀り、大自然を愛し、人間と変わらない営みをしていることを知ろうともしない。兵たちや老夫婦の恐れがその証だ。
白陽は呆れた顔をした。
「お前、よくこんなところで堂々とばらしたな。人外だってばらした俺が言うのもあれだが」
「別に隠すことじゃねえし、卑屈になるのも馬鹿らしいしな。というわけで、俺たちのことを二度と鬼なんて言うなよ」
「そもそも、今のでばればれですしねー」
御行が改めて訂正を要求する傍らで、呑気に春日は笑った。
確かに、御行は親友の仇でありかぐやをあんなに苦しめた元凶を前にして冷静ではいられなかったし、春日も本気になっていた。そのせいでか、容姿のわずかな違いをごまかすための術は解けている。兵士たちは、異形と戦っている子供と男の尖った耳や緋色の目を見て、二人も人外なのだと理解したはずだ。
背後では、何故鬼が屋敷に来ているのかと驚愕し戸惑っている声がいくつか聞こえてくる。屋敷の住人たちや兵士の長らしき男だ。特に中年の女房の剣幕が激しく、苛立った葵が威圧しようとする前に老夫婦に諌められている。かぐやの様子と屋敷に神鬼がいることを見れば、女房の反応は当然だろう。
気力を振り絞って起き上がれば、それだけで兵たちがびくつき後ずさった。その様子は呆れを通り越していっそ笑える。御行はこんなにもぼろぼろなのだから、どうにかできると思いそうなものなのに。都の兵は、精神までもが弱いのだろうか。
そのとき、違います、というか細い声が御行の視界の外から聞こえた。
「違います……御行は、私の大事な友人です……彼は誠実な、善い神鬼です…………」
それは、本来であれば彼女のそばにいなければ聞こえないものだっただろう。しかし神鬼の耳は、一言一句漏らさず拾い上げていた。葵も術を使い、言葉を庭の隅々にいる人間たちに届かせている。
しかし、と誰かの甲高い声が遮ろうとしたが、震えた声はそれを制して続ける。
「見たはずです…………災いの闇の欠片は聖なる光に焼かれていた………………でも彼は光の拒絶に耐えてまで、私たちを災いの闇の欠片から救おうとしてくれた…………それが、悪しき者のすることでしょうか………………?」
息も絶え絶えに、かぐやは御行の善良を訴える。それはさながら、雲に姿を隠されそうになってなお、地上のすべてを等しく照らす月光の如く。
「種族なんて関係ない…………種族ではなく…………彼の心と……行いを見てください………」
月神の姫の託宣はなおも続く。女房が吹かせる風に乗って、どこに属するかではなく性状によって見極めよと、人間たちの耳に、心に届く。
御行はもういいと思いながらも、口にすることはできなかった。
「彼らを傷つけないでください…………!」
そして唐突に、哀れな少女の懇願に代わる。それを最後に意識を手放したようで、そばにいる者たちの慌てる声や、冷静に指示する声が聞こえてくる。
闇に属する神鬼を全霊をもって受け入れ、他の者にもそれを望む姫君の声を聞いた小さな神鬼は、長い息をついた。
「……御行様がかぐやを好きになったの、わかった気がします」
「だろ?」
御行は従者を仰ぎ見て笑った。
人間のすべてが神鬼族を否定するわけではない。神鬼族の里の近くにある人間の村には親切な村人が多いし、
そんな人間たちの中でさえ、かぐやは特別だった。今もこうして、欲しい言葉を言ってくれる。御行という男の心を信じてくれる。
ああ、そうだ。だから彼女に惚れたのだ。
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