第22話 赤き心を示す・一

 内海の東に面した国の一つ、住宮すみのみや国。同名の社の総本社である天鳥あまつとり神社の本殿の中を歩く彰人あきとは、頂上と川を捜していた。


 白い雲が浮かぶ青空の下で彰人の眼前に広がるのは、鬱蒼と木が生い茂り、鳥の鳴き声が聞こえてくる森。時折木々の合間から、他の峰や地の果てまで続く平野が垣間見え、さんさんと降り注ぐ眩しい日差しがこぼれてくる。人の横行によって生まれた道はなく、でこぼことした山道を歩くしかすべはない。格別に暑いわけでも寒いわけでもなく、川の増水や倒木による回り道がないのが数少ない救いである。


 しかしそんな救いより、彰人は今、川が欲しいのだ。今朝満杯まで蓄えておいた水筒の水は先刻失せ、喉は痛みを覚えるほど渇いている。一体どれほど、水を飲まずに歩いているのか。軽く目眩がするのは、疲労のせいばかりではあるまい。水が欲しいというのが、現在の彰人の切実な願いだった。


 そんな願いを誰かが聞いてくれたのか、やがてさえずる鳥の声をかき消すように、涼しげな川のせせらぎが遠くから聞こえてくる。聞いているだけで喉が湿り、全身の汗が引いていくような音だ。彰人は、これは天の助けとばかり足を速めた。

 川のほとりで荷を下ろし、長い息をついた彰人は、さっそく両手で水をすくった。よく冷えた水が喉を下り身に沁み入っていく感覚は心地良く、新たに命を注ぎ込まれているようだ。喉の痛みがなくなるまで飲んでいれば、目眩も遠のいていく。


 手拭いを濡らして全身の汗を拭き、顔や首筋に張りついていた髪をまとめ直す。ようやく人心地ついて、彰人は長い息を吐いた。眼前の緑を見つめ、それから山頂を見はるかす。――――――――頂上はもう近い。


 ここまで、どれくらいの時間がかかっているのだろうか。自問してみても、とうに時間感覚が狂っている彰人には、一月以上としかわからない。御行みゆきと憎まれ口を叩きあって別れたのが、もうずっと前のことのようだった。


 天鳥神社は、父帝の御代に活躍した古代の英雄の魂が死後、白鳥に変じて飛来したことを起源とし、かの英雄を祭神として祀っている。本殿には今でも英雄神が鎮座しており、数多の霊鳥を従えて陽の世を見つめているという。地域住民の信仰を一身に受ける、住宮国に名高い社である。


 この社に伝わる不思議は、それだけではない。社へ自由に出入りできることをいいことに、英雄神が座す本殿へ忍び込んだ不届き者は、必ず獣や鳥から受けた傷が死因の死体となって本殿の周辺で発見されると、近隣の村の者たちにも広く知られている。神社に火を放ち騒ぎに乗じて宝物を盗みだそうとした輩が、どこからともなく現れた炎の鳥に飲まれて焼死したという話もある。他の由緒ある社でもよくあることだが、神に不敬を働き、神罰を下された者の話には事欠かない。


 そんな神聖なる社を守り続ける神主一族は、当然のことながら、よそ者の彰人が本殿の中へ入るのを許さなかった。神職とはそうあるべきだと思っているから、彰人は怒りを感じない。帝室とも縁がある家の名と左近衛中将の肩書を使って本殿の扉を開かせはしたが、丁寧な物言いを崩さず、神馬や贅を尽くした品々を寄進し、本殿の前で英雄神にも許しを乞い、神主一族と神に無礼を充分詫びたつもりだ。


 そうやって強硬かつ穏便に事を進め、武芸の心得のない従者たちに境内の外で待機するよう命じて扉をくぐったそこは、山の麓だった。


 確かにこれは誠を試すに相応しいと、これまでのことを回想し、彰人は思わずにいられない。五感に入ってくるすべての情報が現実世界と寸分も違わない、日が昇り沈む世界の精緻さと雄大さに感動したのは最初のうちだけだ。その後は、まったく先へ進めない不可思議に苛立つばかりだった。


 どれほど登っても気づけば歩いたことがある道を歩かされていて、頂上へ辿り着けない。道中には普通の山同様、熊や狼が現れ、襲ってくる。雨は降るし、真夏よりもきつい日差しが照りつけることもある。狼の群れに囲まれたときは、生きた心地がしなかった。御行の故郷に滞在していた頃は共に鍛錬を重ねて山で獣を相手にし、仕事でも賊討伐のため自ら太刀を振るった彰人ですらそうなのだ。過去にこの本殿へ押し入った賊がことごとく亡骸となっているのは、当然のことだろう。


「後少し……とは言ってもいつ到着するか……」


 あの有名な昔話では、海中異界から戻ってきた漁師の青年は地上で過ぎていた年月に愕然とするのだ。こうして頂上へ近づいているのを実感していても、これまでかかった時間を思えば、高慢だと悪友が笑う自信家でも弱気になる。

 考えても仕方ないことだと、頭を振るって嫌な想像を払い、彰人は立ち上がった。


 周囲を見回して石碑を探し、岩を跳んで川の向こうの緩やかな傾斜を目指す。石碑が立っているもっとも高いところまで歩いて、そこでまた周囲を見回した。赤い鳥を捜す。


 そう、鳥。鳥こそが、この神域を登るためのこつだった。


 古代文字が刻まれた石碑があるところには、必ず鳥が一羽飛んでいるか、木に留まっている。その体色は方角や季節と対応する五色のどれかで、しかも決まった順番で登山者の前に姿を現す。そういう規則性になっているのだ。つまり、青、赤、黒、白、黄の順に、現れる霊長たちを追えばいい。それに気づき、彼らの導きに従うことが、英雄神が座す頂上を目指す、唯一の方法だった。


 初めのうちは、美しい色彩の鳥だと眺めているだけだった。が、何度も見ているうちに規則性があることに気づき、まったく上へ登れず苛々していた彰人は半ば自棄になって、五色の鳥が向かう方向を目指した。すると、同じ高さを何度も行き来しているだけだった山をどんどん登っていくことができたのである。白鳥に身を変じた英雄が座す世界らしい、鳥にちなんだからくりだった。


 赤い鳥を見つけ、彰人はその小さな背を追って山道を進んでいく。鳥はほどなくして見えなくなったが、後は道なりに進んでいけばいいから追う必要はない。この山は、鳥の導きに従って歩いている限りは人一人が通れる程度の山道を用意してくれる。先ほどの川といい、知恵と意志ある者に対する、英雄神のわずかな情なのかもしれない。


 御行はどうしているだろうか、と急な斜面を歩きながら、彰人は悪友に思いを馳せた。


 彰人と同じ姫君を想い、秘宝を求めて旅立ったあの男の実力と魅力は、彰人も認めるところだ。武に優れた者にありがちな粗暴さや傲慢さはなく、いささか勘や感情に走りがちだが愚鈍でもない。己の非や相手の長所を素直に認め、己の真情を語る潔さと誠実さは間違いなく美点だ。他のどの公達も自分には敵うまいと心の底では思っている彰人であるが、あの豪快な悪友も彼女に想いを寄せていると知ったときは、正直、危機感を抱いた。


 そして実際、腹立たしいことに、あの男は御簾越しではなく直にかの姫と言葉を交わすことが当たり前なのだ。彰人は貴族社会の風習に縛られて、許しがなければ御簾越しに言葉を交わさなければならず、彼女の面を拝した数は多くないというのに。


 登山の労苦ですっかり忘れていた嫉妬を一つ思い出すと、他の嫉妬も顔を出してくる。二人が大星の翁の友人が所有する山荘で逢瀬を重ねていたらしいことや、都でも二人で夜歩きをしていたこと、かぐやが彼のことを楽しい人だと話していたこと。その他。


「……」


 あの馬鹿のことを考えている場合ではない。眉間にしわが寄ってきた彰人は、深呼吸して気持ちを切り替え、嫉妬によって生まれた意地を活力にして黙々と歩いた。こんなところでぐずぐずしていられない。絶対にあの単純馬鹿より先に宝玉を姫に見せるのだと、自分を鼓舞した。

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