第21話 月照らす出会い・二


 自分が情けなくて、御行みゆきの眉は下がった。


「あー、驚かせてごめんな? 女に手荒な真似はしねえ主義なんだが、突然あんたが現れるもんだから、驚いてつい捕まえちまった」


 悪かった、と御行は手を床について頭を下げる。それが彼の誠意だった。


「…………大、丈夫です」


 頭を下げて数拍。か細い声が御行の耳を打った。顔を上げると、胸に手を引き寄せた少女は唇を震わせながら、気丈にも御行をまっすぐに見つめていた。


「私のほうこそ、叫ぼうとして申し訳ありません。知らない人がいたので、驚いてしまって……」

「いや、あんたが叫ぼうとしたのは正しい反応で、判断だ。こんな真夜中に知らない奴が外をうろついてたら、誰だって警戒するさ」


 むしろ、しないほうがおかしい。ここで不審者である御行に礼を言い、しかも逃げようとしないことこそ非常識だ。無防備なのか豪胆なのか世間知らずなのか。御行は山荘の者たちへの呆れを、少女にも向けた。


「あんた、なんでこんな夜更けに外へ出てきたんだ? 眠れないなら眠れないなりに、曹司で時間を潰せばいいだろうに」

「それはそうなのですが……褥の中にいたら、外で気配がしたのでつい…………」


 悪戯がばれたときの子供のように、少女は眉を下げてしょんぼりする。人ならざるもののように見えるほど整った顔立ちが、それだけで生命の息吹を灯した。あまりに可愛らしくて、御行は内心でうわと悲鳴を上げた。


 御行は落ち着かなくなって、少女に釘づけになりそうな目を夜空に無理やり向けた。


「そ、そうか。それは悪かったな。俺も眠れなくて、ついそこら辺を走り回ってたんだ」

「まあ、こんな真夜中にですか?」

「ああ。俺、こういう月が綺麗な晩になると、つい山を走り回りたくなるんだよ。里の奴らにゃ、馬鹿にされるんだけどな」


 と御行は肩をすくめる。少女は、元気なのですね、とくすくす笑った。


「貴方は、この近くに住んでいるのですか?」

「だと思う。山を適当に走り回ってたから、今どこにいるのかよくわかんねえんだよな。山を下りてないから、近所だと思うけど。ま、どこ走ったかはなんとなく覚えてるし、月と山の形で方角さえわかれば、なんとか家に着くだろ」


 山を駆け回っているうちに迷子になったことは、非常に情けないことだが、これが初めてではない。今でこそ回数は減ったものの、もっと小さい頃はしょっちゅうだった。だから焦りは特にない。両親や麻也まや春日かすが彰人あきとなど周囲の者たちが御行を馬鹿扱いするのは、懲りなさすぎるこの性癖にも起因している。


「…………貴方は自由なのですね」


 ぽつりと、少女はそんなことを呟いた。真っ暗な森を見ていた御行が見下ろすと、さみしさを一滴たらしたような、淡い微笑がそこにある。

 人の気配は動くことはなく、息遣いは御行と少女のものだけ。世界は時折風が音を立てる以外、静寂に満ちている。


 見惚れていた御行は、そのせいか思いつくままに尋ねた。


「……あんたは、月を見るのが好きなのか?」

「…………はい。とても」


 問うと、少女は首肯した。


「ここへ来るときも、都の外で月を見られるのが楽しみだったのです。都でも月は見られますけど、こんな大自然の中ではありませんし、都の外へ出ることも今までありませんでしたから。養父の知り合いの方のご好意で滞在させていただくのですから、山にかかる月が見られたらよかったのですが……」

「見られなかったのか?」

「はい。生憎、この曹司からは」


 少女はそう苦笑すると、月が浮かんでいる方向を向いて瞑目する。叶わないと知っている夢を見ようとするように、諦めを声音に強くにじませて。――――こうして言葉を交わしていることも、彼女にとっては夢も同然なのだろうか。


 よし、と一つ頷くと御行は立ち上がった。ちょっとごめんな、と断りを入れて、少女の身体を抱き上げる。


 少女は目を白黒させ、慌てた。


「えっあっあのっ?」

「大丈夫大丈夫。しっかり捕まってろよ、姫さん」


 からからと笑って一度地面に下りると、御行はせえのと心の中で拍子をとって跳躍した。檜皮葺きの屋根に難なく着地し、上のほうへ登って少女を下ろしてやる。


 完全からほんの少しだけ欠けた月は、それでも柔らかな白金の美姿と光で、煌々と地上を照らしていた。月光に星はかすみ、ちらほらと点在するだけ。照らされてなお黒い山々の影ははるか遠くまで続き、空と境目が曖昧だ。反対側の屋根からなら、山の麓の村や広がる平野が隅々まで見渡せるのだろう。


「月の細かいところまで見たいなら、山の頂上へ行くのが一番いいんだけどな。まあここでも、下よりは見やすいだろ」


 少女の足元でごろりと横になって、御行は彼女に笑いかけた。

 建物の影から見る風景はよくできた絵を見ているようで、それはそれで美しい。しかしこうやって視界いっぱいに大自然が広がっているほうが、ずっと迫力も見応えもある。世界はどこまでも続いていて遠くて、自分よりもはるかに強大なのだと思い知らされる。御行はそれが好きだった。


「……貴方は、天狗か鬼なのですか?」

「……は?」


 唐突に、顔を覗き込むようにして問われ、御行は目を瞬かせた。

 少女はだって、と言う。


「私、地面から屋根まで跳んでしまうことができる人なんて聞いたことがありませんもの。そんな人がいるなら、きっと都で噂になっています。その前にも、私のところまであんなに離れていたのに、消えたと思ったら私の口を塞いで……そんなことができるのは、この山に住む天狗か鬼だからなのでしょう?」


 と、少女は首を傾ける。その拍子に、落ちかかった黒髪が御行の手に当たった。よく手入れされた、烏羽のように艶やかで肌触りの良い髪だ。


「……俺を鬼か天狗だと思ってる割には、随分と落ち着いてるな」


 鬼も天狗も人に親しむことのない、恐れるべきあやかしだというのに。どこまでも呑気な様子に御行は半ば皮肉混じりに御行は言う。

 すると、だって、と少女はまた言った。


「貴方は、悪い人の目をしていませんもの。私に謝ってくれもしました。天狗でも鬼でも人でも、悪しきものが貴方のような目をしているはずがありません」


 少女はそう、とてもまっすぐな目で御行を見下ろして言った。それ以外に何があるのとでも言わんばかりに、大真面目に。小さな鈴の声で、不審者を良い人だと言う。


 御行は絶句した。頭上に月を戴く、人ならざる者のように美しい少女を呆然と見上げた。




 翌日から御行は、彼女が都へ帰るまで昼夜を問わず、日に一度は人目を盗んで彼女に会いに行くようになった。時には山に咲く花を持参し、時には二人で山の中を散策し、あるいは都で流行りだという物語を聞かせてもらって。少女はいつも笑顔で御行を迎え入れ、人目を気にして会えないときはこっそり御行に謝る仕草をしてくれた。


 彼女が都に帰った後、しばらくしてから彰人が月を愛するあの少女――かぐやに夢中になっていると聞いて、居ても立ってもいられず都へ通うようになった。御行の故郷から都まで、御行の足ならあっという間だ。彼女も変わらず花の笑みで迎え入れてくれ、時々夜の都をこっそり歩いたり、子供のような御行の提案に付き合ってくれた。


 二人だけの時間は、ひそやかに積み重なっていく。彼女に向ける情が友に対するものではないと気づくのに、そう時間はかからなかった。

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