第20話 月照らす出会い・一

 御行みゆきがかぐやと初めて出会ったのは、月の下でだった。


 その夜、御行は一人で山を駆け回っていた。目的があるわけではない。単に、山を走り回るのが好きなのだ。特にこんな月が綺麗な夜には、力を振るいたいと身体がうずく。


 昼間に発散しきれなかった体力と衝動を発散させるように、御行は滅茶苦茶に走り回った。駆け、木の枝に飛び乗り、滝壺に浮かぶ岩や石を跳び渡り、あやかしを倒し。あやかしのように獣のように、縦横無尽に山を駆け回った。


 どれくらい、そうしていたのか。昇っていた十六夜月が沈む頃になってようやく足を止めた御行は、肩で息をしながら辺りを見回した。


 穏やかな夜風が吹く初夏の森の中、御行からそう離れていないところに、こじんまりとした建物があった。建材の具合からすると、建てられてからそう経っていないようだ。生活感を宿しつつも、匂いや色に新しさがにじみ出ている。

 建物の造りは小規模ながら雅やかで、この辺りの住民が住んでいるものとは根本からして異なっている。貴族の住居か別荘であるのは間違いない。警備の者がいないところからすると、所有者の身分はそれほど高くないのかもしれない、と建物を観察した御行は感じた。


 好奇心をそそられて音も立てずに建物に近づき、木の匂いを嗅ぎながら山荘の周囲を回っているうち、山荘の奥にある曹司の庭先で、御行は感じたことのない不思議な気配を察知した。

 真っ先に思い浮かぶのは、社で行われる神事だ。ゆっくりと巫女が歩み、舞い、神官が神前で祝詞を読みあげる、厳かな場。あの非日常的な空気に似たものが、かすかに曹司の中から漂ってくる。


 住人が寝静まった真夜中の山荘に、何故こんな気配が漂うのか。山荘そのものへ向けられていた御行の好奇心は、次はその気配に向けられた。好奇心が赴くまま、御行は畏怖とも警戒ともつかない気持ちで曹司の中の様子を窺う。


 目的の気配は外へ出ようとしているのか、ちょうど妻戸の近くにいるようだった。どうやら気配は儀式を行っているからではなく、住人が放っているものであるらしい。


 起きているのは厄介だなあと思いながら、御行は曹司を囲む簀子の高欄に飛び乗る。出てきたところを一瞬だけ確かめて、すぐに逃げるつもりだった。


 きい、と小さな音を立てて扉が開いた。


「っ!」


 妻戸の向こうから突如姿を現した人を見て、御行は絶句した。


 御行だけを見つめる、小さな面積の中に配された要素の形も色も、またその配置も、すべてが端正そのものだった。見開かれた瞳は大きく、顎は細く、鼻は小さく。月光を浴びた豊かな髪も肌も細い指も、まとう白単衣も青白く、生きているかどうかさえわからない。

 生活感のないあの気配を漂わせた、ぞっとするほど美しい少女だ。いくら生活に困ることのない身分だとしても、陽の世の人間がこれほど美しく在れるものだろうかと、御行は本気で疑った。


「っ……!」

「!」


 風が止み、見つめあってしばし。不審者を発見して呆然としていた少女の花の唇が動いた。


 御行はとっさに少女に接近し、手首を掴んでもう片方の手で口を塞ぐ。目を染めていた驚愕が恐怖にとって代わられるのを見て、心底後悔した。


「悪いが、叫ばないでくれ。こんなことして信じろって言われても普通は無理だと思うけど、ほんとに俺、ここやあんたを襲うとかそんなつもりないから。人を呼ばれたくないだけなんだ」

「……っ」


 少女の身体は小刻みに震えている。当然だろう。都の貴族の姫君が、こんな無駄に背が高くてがたいのいい男に捕らえられて怯えないはずがない。何やってんだ俺、と御行は心の中で自分を思いきり罵った。

 掌に当たる唇の柔らかな感触も、容易く折ってしまえそうな細い手首のきめ細かな肌の触り心地も、心の臓に悪い。何より、彼女がまとうあの気配はやはり居心地が悪く、落ち着かない。


 もっと触れていたいような、さっさと離れてしまいたいような気持ちで速まる鼓動が聞こえないようにと願いながら、御行はできるだけ怯えさせないようにと心を尽くした。


「これから手を放す。だから、叫ばないでくれ。いいな?」


 問うと、こくこくと少女は頷く。本当にそうだったらいいのだがと胸中で呟き、御行は両手を放した。


 少女は叫ばなかった。叫ばなかったが、その場にへなへなとくずおれたので御行は慌てて彼女を支えた。腕に抱きとめた身体はとても細く、頼りない。まだ震えているのが哀れだった。


 御行の腕には、先ほど少女の手首を掴んだ手のひらに残っているものと同じ、すべらかな肌の感触と熱がある。自分のものではないそれは、少女のものに他ならない。――――彼女は生きているのだ。そのことに、御行は心を揺さぶられた。


 自分がそばにいては彼女も気が休まらないだろうと思い、御行はとりあえず、柱に背もたれられるようにして少女を座らせた。そこから少し距離を置いて、自分は片膝をつく。


 全員がよほど熟睡しているのか、山荘の者たちは一人も異変に気づかず、辺りは静かなままだ。御行はそれに安堵する一方で、あんたら無防備すぎるぞと、自分こそ侵入者のくせに呆れた。この山に賊がいなくてよかったな、と他人事ながらに思う。

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