第9話 月夜の社・三

「――――――――解」


 麻也まやが呪を唱える。それと同時に術が解け、本殿と外の世界が繋がった。

 術が発動すると同時に失せていた音声や気配が、次々と御行の耳に入ってくる。扉の前方に、たくさんの物騒な気配がする。術者もいるようだ。封印の術が解けたのを察知して、鋭い声が大人しく投降するよう四人に呼びかけている。


「こんなところで投降するなら、最初からやってませんって」


 扉の前で構える春日かすがが小声でつっこむ。それに同調するように御行みゆきも小さく笑い、麻也と樟葉くずはに頷いてみせた。


 それを合図に、二人が呪を唱える。神聖な本殿へ突入する兵はいないとわかっているから、どちらも落ち着いたものだ。立ち昇る力の気配に、本殿の外からざわめきとどよめきが起きる。

 麻也の印が完成する直前、扉近くでそれを見た御行は、反対側にいる春日に声をかけた。そして二人で両の扉を押し開く。外の明かりが本殿の中に差し込む。


「燃え上がれ!」


 弓や剣を構えた兵たちの姿が明らかになった直後、麻也が術を発動させ、最前列の兵たちのすぐ目の前に炎の壁を出現させた。兵たちが悲鳴を上げて跳びのく間に、御行と春日は屈伸だけで跳躍し、炎の壁を越えて兵たちの只中に着地する。


 兵たちがぎょっとしたのも束の間、本殿から出て来た不届き者を捕らえよと声がかかるや、皆得物や術を行使して二人を捕らえようと押し寄せる。あるいは、まだ炎の壁の向こうにいる麻也と樟葉を捕らえようと、そちらを標的にする弓兵や術者もいる。炎の壁や人垣で前方がよく見えずとも、本殿前から放たれる清冽な気配を察知し、樟葉の術が発動するのを阻止しようとしているに違いない。


 まだ詠唱中の樟葉を麻也が術を行使して守ることになっているが、襲いかかるすべてを一人で捌ききるのは難しい。御行と春日は、樟葉と麻也を狙う兵を優先的に戦闘不能にしていった。兵がひしめく中でも、二人の跳躍力と視力をもってすれば見つけることは難しいことではない。兵の肩も振り下ろした太刀も足場にして、兵たちに立ち向かう。


 また一人術者を殴って戦闘不能にし、襲いかかってきた兵の太刀を破壊して気絶させる。そのとき背後から清冽な通力の気配がして、御行は跳躍して太い木の枝に飛び乗った。


 御行とそう歳が変わらないだろうその若者は、御行を見上げて吠えた。


「下りてこい、この鬼め! 樟葉様を返せ!」

「樟葉様ぁ? 知らねえなあ。俺の仲間にそんな名前の奴はいねえけど? つーか、俺、鬼じゃねえし」

「とぼけるな! あの術の気配は間違いなく樟葉様のもの! 私が間違えるはずがない!」


 御行がとぼければ、かっとなった若者は太刀を御行めがけて投げてくる。御行は自分に向ってくる太刀の柄を、無造作に握った。目の高さに掲げて、様々な角度から検分する。


「おーおー、良い太刀だなあ。もっと丁寧に扱えよ」

「減らず口を! 下りてこい! 今すぐその口を塞いでやる!」


 眼下の若者は、顔を真っ赤にしてがなる。兵の鍛錬を見に行ったとき、彼は若年ながら団長と呼ばれていたはずだが、まったくもって短気である。自分ほどの技量はないと見抜いている御行は、もうちょっと落ちつけよと、火に油を注ぐこと請け合いな感想を心中で呟いた。


 弓兵と術者もあらかた戦闘不能にしている。春日もまだまだ体力的に余裕があるようだが、そろそろ塀の上に引き上げようとしていた。


「――――」


 そうしている間に、樟葉が術を発動させた。瞬間、地面から足場が伸び上がり、兵たちの前方を遮った。足場はぐんぐん伸びて本殿の周囲を越え、砂浜へ向かって廊を構成していく。


「行くよ!」

「おう! ――じゃあな。これ、返すわ」


 麻也の声に応え、御行は太刀を軽く投げた。直後に跳躍し、出現した足場の上に着地して、先を行く麻也と樟葉の後を追う。


「樟葉様! お戻りください、樟葉様!」


 若者の悲痛な叫びが耳を打つ。自分を引き戻そうとする声を聞いて、御行のすぐ前にいた樟葉の肩がびくりと震え、足が明らかに遅くなった。しかし、止めることはない。後ろを固める御行と春日が崩れていく後方の足場と共に落ちてしまわないよう、やがて元の速さで走る。


 足場は大通りを越え、砂浜へ延びていく。神社の構造上遠回りして砂浜へ出なければならない兵たちに代わり、人形が数体追いかけてきたが、これは御行と春日で両断した。前方の海に、杭で繋ぎ止められた数多の舟の姿が見えてくる。


 そのとき、それまでなかった禍々しい気配を後方に感じ、御行と春日は上空を振り仰いだ。


 雲一つなく月が冴え冴えと地上と海を照らす空に、ぽかりと浮かぶ影があった。正確に言えば浮かんでいるというより、飛んでいると言うべきか。その細長い影に鳥の翼のような影が見えるのは、きっと目の錯覚ではない。


「待て……逃がさぬぞ……!」


 呼び止めるというよりは呪うような、ゆっくりとした声が降ってくる。影がぐんぐんと近づいて降下するにつれ、次第に姿も明らかになってきた。


 漆黒の鳥の翼、鋭く伸びた爪、黒い装束。影になってわかりにくいが、鼻が奇妙に長く曲がっていて、唇があるべき部分に鳥の嘴が生えている。――――絵物語に描かれる、天狗そのものの姿。


「おい、もしかしなくても、あれって例のしつこい求婚者じゃねえのか……!」

「あの手下もあやかしでしたし、間違いないですよね。しかも、かなりまずそうです――――――――」


 樟葉が砂浜に足をつけるか否かのそのとき、春日の気配が御行の背後から消えた。足を止めて振り返ると、春日は跳躍して天狗に太刀を振り下ろしている。天狗もまた腕を振りかぶる。

 太刀と爪が空中でかち合い、せめぎ合う間もなく離れた。春日は地上へ落ち、天狗は樟葉めがけて突進してくる。御行は樟葉を背に庇い、太刀の柄に手をかけた。


 が、一番先に浜辺へ下り、杭に繋いでいた縄を解いていた麻也が印を完成させていた。力の気配と共に、浜風どころではない寒さが御行の背後から吹きつけてくる。


「凍れ!」

「――たわけがっ!」


 詠唱が締めくくられると同時に、力が天狗の両翼に集結した。が、それが氷となった途端、天狗は裂帛の気合で粉砕する。逆にその両翼をはばたかせ、無数の刃を御行や麻也へ放つ。

 御行は太刀の一薙ぎでその多くを消滅させたが、すべてを払うことはできない。樟葉を庇えたものの、肩や頬など、数か所を刃が切り裂いた。


「御行!」


 樟葉がついに目の前の男の名を呼んだ。逃げきるまでは名を呼び合わないようにと決めていたのに。兵たちがまだ来ていないのが救いだ。


 だが、それはぎりぎりのところだった。


 風を切る音が聞こえるのに続いて、天狗の身体がかすかに揺れた。天狗は平然としているものの何か不快に思ったのか、振り返る。御行は天狗より先に、彼に不快を与えた者たちを見つけていた。


「怯まず矢を放て! 術を放て! 樟葉様をお救いするのだ!」


 そう居並ぶ兵たちに命令するのは、先ほど御行に食ってかかってきた若者だった。最前列に立ち、自らも弓を構えている。あの若者は、神社の私兵団の団長か何かなのだろう。


 若い声による指揮に応じ、次々と矢と術が天狗に浴びせられた。しかし、そのことごとくがまったくの無駄だった。天狗が両翼をはばたかせて生まれた風が矢をはね返し、襲いかかる術には麻也のとき同様一喝で破壊するのだ。御行と春日は勢いよく返ってくる矢をよけるのに追われ、この隙を探すこともできない。


「ちっ、全然効いてねえな。師匠がいなくてよかったぜ」

「あはは、ほんとにそうですよねー」


 軽口を叩き、御行は兵たちの一斉射撃を隠れ蓑に、天狗に斬りかかった。御行の一太刀が爪で弾き返されれば、春日が続く。それも容易にかわされたが、若者の指揮のもと術者たちが術で造った足場に着地し、御行はすぐに次の攻撃へ移る。


 天狗の爪を避け、御行は一人で天狗に斬りかかった。二合、三合、五合。目の前の邪魔者を爪で切り裂こうとする天狗の意識を自分に引きつける。神社の兵たちは矢を放つのを止め、術者たちによる援護に集中させており、邪魔にはならない。


 御行が囮になったその隙をついて、春日が天狗の背後に飛びかかった。振り下ろされた太刀は狙いあやまたず、天狗の背と翼を斬りつける。羽根が舞い、周囲に血臭が広がった。春日は、御行が立っているものより低い位置に浮く足場へ着地する。


「この……人間どもがぁっ!」

「っ!」


 天狗が吠えるや、烈風とも衝撃波ともつかないものが吹き荒れた。御行は抵抗する間もなく吹き飛ばされ、数拍の地に足がつかない感覚の後、砂浜に叩きつけられる。その痛みに思わず呻きが漏れた。


「っ大丈夫? 怪我はっ……」


 駆け寄って来た樟葉が御行の肩を揺らす。見上げた顔はとても心配そうだ。御行は無用とばかり、無理やりに口の端を上げた。


「なんとかな。……舟を出す準備しとけ。島へ行くぞ」

「……!」


 樟葉が目を見開く。二人のやりとりを見ていた天狗は顔をゆがめた。

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