第2話 月下に走るは・二
「ともかく、これで予定は決まったな。明日から神職と神社のことを調べるぞ。一応、他に島へ上陸できる方法も聞いて回るか」
「はいはい。じゃあ俺はもう寝るよ。君たちは?」
「俺はもうちょっとあちこち回る。
「はーい。じゃあおやすみなさい、
御行が立ち上がりながら指示すると、春日は素直に頭を下げる。いつもそんなふうなら、まだ可愛げがあるのに。御行はこっそりそんなことを思いつつ、彼らに背を向けた。
太刀を持ったまま宿を出ると、中のひっそりとした賑わいはどこへやら、人のものに代わって夜の気配が辺りを支配していた。大通りから離れた、町の端のほうにある小路の宿だからか。空を飾るのは煌々と輝く満月、耳に聞こえるのは背後のざわめきと潮騒。初夏の夜の海風が、故郷では到底嗅ぐことができない奇妙な匂いを運んでくる。
辺りに誰もいないことを確かめると、御行は思いきり跳躍して建物の屋根に乗った。建物に遮られていた視界が一気に広くなり、満月の下であることもあって、海の彼方まで見通せる。
遠のいては近づくことを繰り返すこの音は、昼間には陽光を返してまるで宝石を散りばめたかのようだった、眼前に広がる漆黒から生まれているのだ。山育ちで好奇心旺盛な御行にとって、生まれて初めて見るこの海というものは、とても不思議なものにしか思えない。川や滝壺とまったく違う。春日や
このまま屋根の上で眠るのもありかもしれない。幼馴染みと従者に呆れられそうなことを、御行が考えていたときだった。
御行の視界の端から端まで続いている砂浜に、ぴょんぴょんと跳ねる小さな影が見えた。月に照らされて明るい砂浜で、懸命に飛び跳ねている。ものすごく見覚えのある形と跳び方をしている気がしてならないのだが、気のせいだろうか。
そしてその周囲には、距離を置いてこれまた見知ったいくつもの影――――狼が追いかけているのだ。軽く十体はいる。追われているものは力を放って撃退しようとしているが、一度には一方向しか放てず、しかもすばしこい追手たちに、一撃を放つ直前で逃れられては反撃されているので、数をなかなか減らせない。多勢に無勢。追われる影は、明らかに不利だった。
「――」
御行は深く考えず、両足をばねにして跳躍した。砂浜の手前に着地すると、数歩で追う側――妖気を放つ狼の群れに近づき、太刀を振るう。二匹がその一太刀で真っ二つになり、乱入者を敵と認めた狼は、御行にもその爪牙を向けてきた。
しかし、砂浜が静かになったとき、御行の身体には傷はほとんどなかった。せいぜいかすり傷程度で、服を汚すのは多少の返り血だけだ。
ぶんとひと振りして血を落とすと、御行は太刀を鞘に収めた。
「おい、無事かお前」
近づき、御行は小さな影に声をかけてみる。影は御行を見上げ、ああ、と頷いた。声変わりする前の、少年の声音だ。
「俺は怪我はない。……助かった」
「そりゃよかったな。それで、色々と話を聞きたいんだが……まずは場所を移動しねえ? 人が来るとまずいし」
と、周囲を見回しながら御行は提案した。今のところ人が出てくる様子はないが、この小さな逃亡者が放っていた力を察知した者が来ないとも限らない。何しろ神社とその私兵団がある町なのだ。
小さな影も面倒事は御免のようで、御行の提案を受け入れる。そうして彼らはひとまず、先ほどまで御行がいた屋根へ避難することにした。
「で、なんだあれ? つーかそもそも、なんで兎が町中の砂浜で狼に追われてるんだよ」
腕に抱えていた小さな影を屋根の上に下ろすと、御行は彼を見た瞬間から頭に浮かんでいた疑問を早速彼にぶつけた。
そう、御行の膝に届くかどうかという影は、兎だった。長い耳によく発達した後足、赤い目に真っ白な毛並み。普通のものよりずっと大きいが、どこからどう見ても、白兎である。
砂浜に白兎。これでこの真っ白な毛並みがむしられていれば、と御行はうっかり思ってしまった。後は海の獣。ついでに、この大きさなら食いでがありそうだなというありきたりな感想も浮かぶ。腹は膨れているのだが、兎はよく食べているからか、姿を見るだけで味が舌によみがえるのだ。
当然ながら、ただの兎ではない。かといって、その辺にいるあやかしとも違う。あやかしならかすかでもまとうはずの陰気が、まったく感じられないのだ。いずこかの神に仕える神使と考えるほうが、しっくりくる。
御行に尋ねられた白兎は、憮然としたふうになった。
「別にいいだろそんなこと。最初は上手く逃げてたんだが、あいつらは鼻が利く上、数が多いからな。町に逃げてしまってるのも気づかなかったんだよ。……で、ここはどこだ?」
「
話をはぐらかしついでに尋ねられ、御行は海の向こうを指差す。満月のおかげで、日中ほどではなくても遠くの影は見える。
「神路島? ちょっと待て、じゃあ
「あー、近いってほどでもねえと思うぞ。昔の場所なら割と近いけど、今の
一応は普通ではない大きさとはいえ、所詮は兎なのである。長い道中には何度も山越えをしなければならないし、自分の足で行くとなると大変だろう。
しかし、白兎は前脚を顎に当てて、何やら考え込んでいる。あんまり真剣な空気を漂わせているものだから、御行は目を丸くした。
「お前、本気で天原へ行くつもりか?」
「ああ。まあその前に、行く場所があるけどな」
御行を見上げ、白兎は重々しく頷く。兎という可愛らしい外見と少年の声にはおよそ似つかわしくない、強い決意を秘めた目だ。
御行は叶えたい願いのため、天原からこの明鳥までやって来た身だ。重大な使命か何かを胸に抱いて天原を目指しているらしいこの白兎に、単純思考と従者や幼馴染みにからかわれる性質の御行が共感しないわけがなかった。
「……よし、じゃあ、こっから天原へ行く道を教えてやろうか? その様子だとお前、知らないだろ?」
「! それはありがたい」
御行がにやりと口の端を上げると、白兎はぴょんと小さくその場で跳ねる。見目と声音にそぐった、可愛らしい仕草だった。
天原への行き方なら、自分が今日まで歩いてきた道を辿るだけだ。御行は記憶を掘り起こしながら、白兎が町へ寄らずに都へ行けるよう、目印や景色のことを詳細に、時折注意を付け加えながら道を教えた。
教えると、わかった、と白兎は頷いた。
「助かった。俺は、暁原の地理にはさっぱりでな。道に転がってる奴らに聞きながら行くしかないと思ってたんだ」
「なに、俺もやりたいことがあって、ここへ来たからさ。袖触れ合うのも多少の縁って言うし、助けてやりたくなったんだよ」
と、からりと御行は笑う。そうか、と白兎もどこか笑みを含んだ柔らかな声で相槌を打った。
「じゃ、俺はもう行くからな。お前も、そのやりたいことがやれるといいな」
「ああ、お前もな。迷子になるなよ。でもって捕まるなよ、人間は物騒だからな」
背を向けた白兎に、御行はひらひらと手を振ってみせる。なるか、と返して白兎は屋根から飛び降りた。御行が教えた方向――まずは人知れず町を出られる暗がりへ跳ねていく。
御行が小さな背が見えなくなるまで見送ってからほどなくして、砂浜のほうから声が聞こえてきた。先ほどの騒動を察知した立浪神社の私兵団の兵たちだろう。足音だけでなく、がちゃがちゃと物音が混じっている。
こんな夜中に屋根の上にいるのはまずい。そう思いながらも、御行は先ほどのやりとりを思い出して、すぐには動く気になれなかった。勝手に頬が緩む。
「兎が喋ってたなあ……」
しかも、ただの兎でもあやかしでもない、いずれかの神に仕える兎だ。そんな稀有な生き物は、今まで遭遇したことがない。きっと家族や麻也や春日、他の者たちだってそうだろう。
空を仰ぎ、御行は天原に住まう姫を想う。存外に生半可なことでは動じないあの姫なら、人語を解する兎のあやかしもきっとあっさりと受け入れ、無邪気に喜んでくれるに違いない。
「……捕まえときゃよかったか」
惜しかったなあ、と御行はぼやく。月にいる何かがあほか、と言ったような気がした。
そう、愛しい姫を手に入れる。そのために、御行は神社へ押し入り神鏡を盗むなどという不遜なことを実行しようとしているのだ。
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