第3話 悔恨の中庭
今、都人の間でもっとも噂されている齢十六の少女――――帝が殊更に引き立てはしないものの重用している雅楽助、
身長より長いまっすぐな髪は、ぬばたまの色と艶。春の襲色目から伸びる細い手や首の肌は白くきめ細かく、名工の手になる白磁を思わせる。顔の形が完璧であれば、形の良い唇は紅も差さないのに花の色をしており、その合間から見える歯は肌以上の白。黒い目を縁取る睫毛は瞬くたびに音が聞こえてきそうで、眉は上手く描けないと日々苦心する女たちを歯噛みさせる形をしている。宝玉が如し、と評判になるのも無理ない美貌であった。
日課である琴や笛、歌の稽古を終えたかぐやは、暇を持て余して夏の初めの庭を見つめていた。しかしその心は、屋敷で繰り広げられた先日の出来事に向けられていた。
先日、かぐやは五人の公達を屋敷に招いた。二人は当吟の兄皇子、二人は殿上人、一人は公卿。性格は違えど、一様に求婚者たちの中でも際立って身分が高く、教養深い者たちばかりだ。地下人の養女でしかないかぐやでは、本来ならまみえることのない貴人たちなのだが、かぐやにまつわる噂を聞いて興味を持ったらしい。送り届けられる数多の恋歌や身分を笠に着た無体を寄せつけぬ頑なさに根負けし、他の求婚者たちが諦めていく中、彼らだけは諦めなかった。
その執着は、この内の誰かを夫として慕うことはできないとかぐやが丁重に、はっきりと断っても変わらなかった。これほど心を捧げているのに何故、一体何が足りないのかと。夫婦の誓いである三日餅を共に食べるためには何をすればいいのかと、口々に尋ねてきた。
だからかぐやは、想いと誠の証として秘宝珍宝を五人に望んだ。
帝の上の兄皇子、大蔵卿宮の
帝の下の兄皇子、治部卿宮の
右大臣の子息、右近衛大将の
大納言の子息、蔵人頭の
参議の子息、左近衛中将の
私を真にいとしく思い、妻にと望んでくださるなら、持てる力を尽くしてこれらの宝を手に入れようとなさるはず。だから、それぞれに指定した品を誰よりも早く携えて戻られた方と、私は三日餅を食べましょう――――――そう言って、かぐやは震えながらも背筋を伸ばし、貴人たちを見つめたのだった。
五人と交わしたやりとりを回想し、かぐやは深いため息をついた。ため息しか出なかった。
「……また、あの方々のことですか」
「…………ええ」
側仕えの
「わかっているわ。宝を想いと誠の証にと望んだのは、私だもの。お断りしても、あの方たちは引いてくださらなかった。だから、思いついたことを口にしたの。そうすれば、あの方々も諦めてくださるかもしれないと思って。……私が悪いのだとは、わかっているのよ」
「姫様……」
胸の内に巣食う思いをそれ以上言葉にすることができず、かぐやは俯く。同時に、主にかける言葉をなくす賢木に申し訳なく思った。
あの五人から文が届くようになったのは、一年ほど前だったろうか。毎日のように届く数多の文や垣根越しの視線、曹司への強行突破未遂にうんざりしていたかぐやはある日、賢木や他の女房が目を留めた五通の文に興味を持った。彼らの文は際立って紙質が良く典雅な意匠で、達筆で、添えられた歌が優れていたのだ。かぐやは、女房たちに返信を頼まず自ら文を返した。そうせずにはいられなかった。
それから、かぐやと彼らの文のやりとりが始まった。最初は鬱陶しく思っていた恋文も、ただの文通だと思えば楽しいものになる。文だけでは物足りず御簾越しに会って言葉を交わしてみれば、彼らは物腰柔らかく、教養深く、かぐやが知らない話をして楽しませてくれた。知的好奇心が強いかぐやである。すぐ、彼らを良き年上の文通相手として慕うようになった。
そうして時は過ぎ、今年の梅が見頃を迎えた頃。五人はまるで示し合わせたかのように次々と、夫婦の契りを交わしたいとかぐやに告げた。そのときになって彼女はようやく、自分が思い違いをしていたことに気づいたのだ。彼らはこの幼い姫と友になるために、文をやりとりしていたわけではない。かぐやを娶るためにこの一年、辛抱強く文を送り、屋敷に通い続けていたのだと。――――相手を友と思っていたのは己だけであったことに、やっと気づいた。
何故あんな難題を五人に突きつけたのか、かぐやは自分の発言が今でも理解できない。確かにあのとき自分は彼らに怯え、彼らの求婚を退けなければと考えていた。五人を伴侶の候補として意識したことはない、今は誰かと添いたいとは思わないというかぐやの率直な気持ちでは、彼らを納得させることはできなかったのだ。気持ちを正直に伝えても諦めてくれなかったのだから、他の断る理由を探さなければと焦っていた。
しかしそれなら、実在はすれど入手は困難を極める品を誰よりも早く見せてほしいなどという、危険で競争心を煽る方法をとらなくてもよかったはずなのだ。あのような難題は、文通相手として慕った者たちに対する返答では到底ない。あまりにも卑怯で、不誠実だ。
もし時を巻き戻せるのなら、愚かなことを口にする前に自分の口を塞いでしまいたい。早まるなと説得したい。あの日から、かぐやは己の行為を後悔し続けていた。
かぐやがこれからも続くであろう、自己嫌悪や求婚者たちへの申し訳なさに胸を痛める日々を思って陰鬱な気持ちを抱えていると、姫の肩に他者の手が置かれた。振り返ると、賢木がしわばかりの細い手でかぐやを温めようとしている。
「姫様…………お気になさいますな。姫様が悪いのではありません。姫様のお心を無視し、己に従わせようとするあの方々が悪いのです。姫様は、ご自分を守り、意志を貫こうとなさっているだけ。何も悪いことではないのです」
「賢木……」
「大丈夫です。いつか必ず、姫様に心からの愛を捧げてくださる殿方は現れます。姫様はこんなに素敵なのですもの。この婆が保証しますとも」
おどけた、何もかもを包み込むような笑顔と明るい声で賢木は言う。もちろん、無理やりだろう。それだけに、主の憂いをなんとか追い払おうとする気持ちが一層伝わって、かぐやの胸がじわりとあたたかくなった。枯れた手に自分のそれを重ねる。
「ありがとう、賢木……」
「当然のことですよ。――――ささ、姫様。いつまでもこのような暗い話をしていては、憂鬱が募るばかりでしょう。せっかく御館様が取り寄せてくださった物語があることですし、皆で読もうではありませんか」
賢木はそう、にっこりと笑んで話題を変えた。
かぐやの養父は昨日、近頃塞ぎがちな養女のためにと、後宮で流行っている物語の写本を与えてくれた。外出する機会がめったにない貴族の女性やその側仕えにとって、物語は数少ない娯楽である。皆で回し読みすることはもちろん、集まって朗読会を開くことも少なくない。
養父が持ってきてくれたのは、后妃の一人に仕える女房が執筆している物語だ。主人公である風変りな青年貴族が、普通の人間にとっては当たり前のことや馬鹿馬鹿しいことを大真面目にやっては驚くさまが滑稽で、また身につまされると大変評判なのだという。女房たちだけでなく、男性にも人気だ。かぐやも、しばしば屋敷の者たちを曹司に集めて自ら読み聞かせていた。
かぐやは首を振った。
「それは今度にしましょう。皆、忙しいのでしょう? 私一人が楽しんでいたら、きっと残念がるわ。私は庭を見に行くから、準備をしてちょうだい」
「そうですか? それでは……」
少し不満そうな顔をした賢木だったが、すぐにかぐやが出られるよう用意をしてから下がる。かぐやはその背を見送ってから階を下り、一人で庭を散策した。
桜の木の下まで歩くと、かぐやはすうと息を吸い込んだ。温かな空気にまじって、ほのかに花や緑の匂いがする。塀の向こうの賑わいが耳に届く。
かぐやは桜の木を見上げた。
過ぎ去った花と春の女神の代わりとばかり、枝には鮮やかな色の新緑が数多茂っていた。よく見てみるといくつかは穴がぽかりと空いていて、夏の青空が覗いている。毛虫の姿は見えないが、どこかにいるはずだ。晩夏になれば、毛虫に代わって蝉がこの木でやかましく生を主張することだろう。
葉を茂らせて自身を育て、虫の糧とし、落として土に還し、己の糧とする。花は蕾から散るさままで美しく、匂わせては虫を誘い、人の心を騒がせる。――――その、樹木としてのすべて、生そのものが命を育てる営みの一欠片であり、何にも勝る美。
だからこそ春の女神は桜の木に座し、己の季節を見守るのかもしれないと、かぐやは桜を見上げるたびに思う。自分がこの時期、この木に親しみを感じるのも、神の息吹の名残を慕わしく思うからかもしれない。
都では主要な神社で桜狩りが行われ、夏が訪れた。今は山間部にわずかに残る春の名残も、もうすぐ失せるだろう。山間でも桜狩りが行われ、梅雨になり、蝉時雨を過ぎて、鈴虫が鳴く。そうなれば、中秋の名月は近い。かぐやがもっとも愛する、美しい夜が来る。――――その頃には、この愚かで無謀な試練は終わっているだろうか。
かぐやは唇を噛み締めると両手をぎゅっと握り、目を閉じた。
彼らに許してほしいとは到底言えない。けれど、どうか無事に帰ってきてほしい。愚かなことをしてしまったと謝らせてほしい。
だからどうか、神々よ。彼らに加護を――――――――
そう、かぐやは祈った。
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