第38話 そして、届く

 金属の澄んだ音が高らかに響き渡る秋空。続いていたものより一際大きな音がしたのを境に、音の連なりは止んだ。


「また負けたー」


 御行みゆきの一太刀の余韻が残る手を見下ろし、春日かすがは悔しそうに頬を膨らませた。足元には、御行が叩き落とした春日の愛刀が転がっている。


 春日は愛刀を拾い、ぷんぷんと怒った。


「御行様、ひどいです。僕の太刀、折るつもりですか」

「折るわけねえだろ。力は加減してるし、大体それ折ったら、たたら踏みさせられるどころか俺がぶった斬られるっての」


 自分で冗談半分に言ってみて、ありそうだと思えて御行は顔をしかめた。御行と春日の愛刀を打った刀工は、御行が頭領の息子だろうと構わず鉈や矛を持って追いかけ回す、偏屈な生粋の職人なのだ。ついでに言えば、師匠も鍛錬中に武器を折れば怒る男である。春日の太刀を折るなんて、できるわけがない。


 春日を宥めた御行は桜の切り株に腰を下ろし、置いていた手拭いで汗を拭く。見上げた空は高く、吹き渡る風は運動したばかりの身体に心地良い。今日もいい天気だと、御行は目を細めた。


 あの十五夜から、御行と春日はかれこれ十日、大星の屋敷に滞在している。あれからかぐやは何日も寝込んでしまい、彼女のそばを離れる気になれなかったのだ。倒れる前に彼女が御行を庇ってくれたこと、女神としての彼女の側仕えである白陽しらひあおいが許してくれたこともさいわいして、二人の滞在は許されていた。


 もちろん、居心地はそれほどいいわけではない。家人は御行を怖がっているし、外出は都人の見世物のようになるのがわかりきっているのでする気になれない。かといって夜の都の散歩も、かぐやのもとへ通っていた頃に何度かしているので飽きている。体力も感情も持て余す、こんな窮屈な場所で都人はよく生きていけるものだと、御行は呆れるばかりだ。


「でも、三日くらい前からちょっとはましになりましたよねー。さっき厨のおばさんが、朝餉で残った魚をくれたんです。頭も撫でてくれました」


 切り株のすぐそばに座り、そう報告する春日はとても嬉しそうだ。毒舌さえなければ歳上受けする外見と性格だから、春日は屋敷の住人に受け入れられつつある。図体のせいか未だに怖がられている御行とは大違いである。


 そういや御行様、と目を瞬かせて春日は頭を傾けた。


「頭領に連絡したんですかー? 結構長い間、里を出たきりですけど」

「あー、全然してねえな……したらえらいことになりそうだけど」


 数日前に気づいたことを問われ、御行は半笑いで遠い目をした。


 『嫁取りのために神路かんじ島と都へ行ってくる』と自宅に置き文を残したきり、里の誰にも連絡をまったくしていない。それで心配してくれるような両親や師匠ではないし、春日か麻也まやが後から事情を説明してくれているので変な誤解はしていないと思うが、何ヶ月も連絡を寄こさないことには怒っているかもしれない。そして父もまた、御行を鍛えることと武器を持って追いかけ回すことを楽しむ男である。得物ありの逃走劇が待っているというのに、進んで帰りたくはない。


 それに、まだ麻也がこの屋敷へ来ていない。諸々の面倒事を解決した後に麻也は、自分を置いて先に行け、大星おおづつの屋敷で合流しようと、御行たちに強く勧めてきたのだ。四人のうち自分だけは純粋な人間で、人外の速さで走る御行たちの足手まといになるからと。御行たちがぎりぎりで屋敷に着くことができたのは、麻也のこの判断によるところが大きい。


「せめて、まだ帰れないことくらいは伝えたほうがいいんじゃないですかー? というかやってくれないと、僕と麻也様まで怒られちゃいますよー。ただでさえ、神社に押し入って御神体を盗むなんて罰あたりなことしたわけですし」

「だよなあ……」


 文を書くのは嫌いなんだけどな、と御行は憂鬱な息をついた。なんとなく、あてがわれた曹司のほうを見る。


 金龍の宝玉は、まだかぐやに渡していない。彼女はつい三日前まで床に伏せっていたし、今の状況での求婚は彼女にとって酷だと思ったのだ。御行自身、渡す気になれない。いつ渡すのが最良かもわからず、宝玉を巾着に入れて曹司に放置したままだった。


 御行は頭をがしがしと掻いた。


「しゃあねえ。文、書くか」

「できればちゃんとした文を書いてくださいねー。御行様、いつも一言しか書かないから、僕と麻也様が後で説明……痛っ」


 御行が加減して拳骨を落とせば、春日がひどいですと口を尖らせる。筆不精なだけの主を馬鹿のように言うのが悪い、と御行は自己弁護して従者を見下ろした。


「今回はさすがに説明するっての。神社に盗みに入ったり神路島の金龍から宝玉もらったりしてるし、災いの闇の欠片のことも言わなきゃなんねえし。……彰人あきとのことだって、親父も知らないわけじゃねえしな」


 彰人は御行の実家に滞在していた時期があり、御行の両親や里の者たちとも交流があった。特に御行の父は、欲望渦巻く陽の都の中枢にこんな清廉な若者がいるのかと感心し、気に入っていたものだ。何故彰人が死んだのか、経緯を知らせなければなるまい。そしてそれは、御行の外出の理由やかぐやについて話すことでもある。


 彰人のことを淡々と書ける気はまったくしないが、いつまでも書かないわけにはいかない。よし、と御行はこれから戦いに行くような気持ちで立ち上がった。


 御行が向かう方向を見てか、春日は目を瞬かせた。


「あれ? 御行様、曹司はそっちじゃないですよー?」

「かぐやに紙と筆もらってくるんだよ。曹司にないだろ。お前は、俺の太刀を曹司に置いてきてくれ」


 命じると、はあいと間延びした了承の声が返ってくる。それを背後に、御行はかぐやの曹司へ向かった。


 庭を歩いてかぐやの曹司の近くまで行くと、ちょうど当人が簀子縁に出てきたところだった。


「かぐや、外へ出て大丈夫なのか?」


 御行が駆け寄って尋ねると、かぐやは平気、と小さく笑む。復調したばかりの頬がやつれて痛々しい。


「春日と、太刀の鍛錬をしていたの?」

「そ。なーんもしてねえと身体が鈍るからな。都じゃ夜でもないと、あちこち走り回れねえし」

「御行は駆け回るのが好きですものね。でも、夜歩きなさる殿方はいるし、警邏の人たちに見つかったら騒ぎになってしまうわ。特に御所は近づくだけでも大変なことになってしまうから、行っては駄目よ」


 と、かぐやが真面目な顔をして忠告してくるものだから、もちろんだと御行は笑って答えた。御所は以前周辺を歩いたことがあるし、あんな腹黒い優男の住居なのだ。行く気にもなれない。


 あれから一夜明けた午後、御行は陽の帝と初めて顔を合わせた。白陽いわく役立たずの兵たちを派遣してきた彼は、前夜の報告を聞いて飛んできたらしい。随分と身軽に動く貴人だと、御行は驚いたものである。


 しかし、こんな優男が陽の帝なのかと侮ったのは大きな間違いだったと、御行は即刻思い知らされた。


『執務? そんなもの、有能な臣に任せてきたに決まっているであろう。大体、余は昨夜急ぎの案件を片付け、今朝もこちらへ駆けつけたいところを抑え、朝議で臣下とつまらぬ世間話をしてきたのだ。少しは息抜きをしてもよかろう?』


 仕事はどうしたと呆れる白陽に鼻を鳴らして口の端を上げ、放ったのがこの科白である。そればかりか、御行をちらりと横目で見てさらに一言。


『それにしても、このように猛々しい神鬼じんきをも魅了するとは、さすが我が愛しの姫君』


 その後も御行は、陽の帝に挑戦的な目を向けられた。何度もこの優男を小突きたくなったのは、紛れもない本心。こんなのの警護が役目だったのかあいつは、と御行が亡き親友を不憫に思ったのは仕方がないだろう。


 だが、陽の帝は一度として御行を侮辱しなかった。御行の名を呼ぶことはなかったが鬼と呼ぶこともなく、神鬼族の暮らしについてあれこれと質問してくる始末。御行が敬意を払わなくても気にした様子もなく、神鬼族の独自の風習を聞いて目を輝かせていたくらいだ。意地は悪いが性根は悪くないというのが、御行の率直な印象だった。


「御行。鍛錬をしていたなら、喉が渇いたのではないかしら。水を持ってきてもらいましょうか?」

「あー、欲しいかも。ついでに、春日にも届けてもらえるか? 俺の曹司にいると思う」

「わかったわ」


 かぐやは頷くと、控えていた賢木さかきにそう頼み、御行には曹司へ上がる許しを告げる。賢木が眉を吊り上げたが、首を傾けてどこ吹く風だ。賢木を曹司から追い出し、ため息をついて御行を振り返った。


「……ごめんなさい。賢木は良い人なのだけど、私に近づく男の人には厳しいの」

「あんたが謝ることじゃねえよ。俺も特に気にしてねえし」


 階に座り、御行は肩をすくめる。かぐやはろくでもない求婚者や化け物に狙われたばかりの、この屋敷の大事な姫君なのだから仕方ない。ましてや御行は神鬼だ。


 ふと、かぐやは首を傾けた。


「…………御行は、いつまで屋敷にいるの?」

「さあ、な。とりあえず、麻也が来るまでは居させてもらうつもりだ。白陽だけにかぐやを任せるのも不安だし」

「そう……でも、葵が戻るのはいつになるかはわからないから、もし先にお友達と合流したなら、帰っても構わないわ。……里には、もう何ヶ月も帰っていないのでしょう?」


 と、かぐやが眉をひそめて言う。久しく故郷へ帰っていない身だから、思うところがあるのだろう。


 葵がかぐやのそばにいないのは、月の都へ帰還しているからだ。迎えが災いの闇の欠片に殺されたことや、その災いの闇の欠片を神鬼族の頭領息子が始末したことなどを報告する必要があるからだという。白陽は屋敷にいるが、戦力としてはいまひとつである。そうしたことも、御行が屋敷に留まる理由なのだった。


 平気さ、と御行は手をひらひら振った。


「後で文を書くつもりだし。だからかぐや、紙とか筆とか貸してくれねえ? こっちの曹司にねえんだ」

「いいわよ。でも、一言だけじゃなくて、事情をちゃんと書いたほうがいいと思うわ。御行の文はとても短いもの。きっとご両親は、御行が無事かどうかだけじゃなくて、どうして帰らないのかも知りたいでしょうし。どうしても筆が進まないなら、私が書いてあげるわよ?」

「えっ? いや、そこまでしてもらわなくてもいいって。自分で書くから!」


 くすくす笑ってかぐやが言うものだから、御行は大慌てでぶんぶんと首を振った。神鬼族は神を祀る種族である。神社へ盗みに行ったばかりか何ヶ月も音沙汰なし、挙句、尊き月神の娘に文を代筆してもらったなんて知られようものなら、ただでさえないに等しい命の保証が完璧になくなってしまう。


 今夜は夜ふかし決定だなと御行が内心でため息をついていると、かぐやが目を瞬かせた。虚空を見上げる視線につられて御行も空を見上げれば、陽光を浴びて眩しい、大きな白鷲が飛んでいる。


 御行はその正体を一目で見抜いた。故郷で見慣れた姿だ。



「ありゃ、麻也の術だな……何かあったのか?」

 麻也は武芸にこそ秀でていないが、術者としては優秀だ。それに頭の回転が速く、御行が力づくで押し通るようなところを口先三寸で切り抜けることだってできる。引き際だって心得ている。彼が窮地に陥るようなことを考えつけず、御行は首を捻った。


 不思議に思いながら、御行は腕を出して鷲を留まらせる。すると術は解け、白鷲はたちまち文となって宙にひらひらと舞った。


 さらに、騒がしい足音が渡殿から聞こえてくるのだから、御行はかぐやと顔を見合わせる。同時に、どちらも退屈を紛らわせられるものだといいのにと願った。

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