終章
終章
山の麓でゆっくりと時間を刻む農村の、村長の家の客間には今、貴人が世話になっている。
頬はやつれ、下ろした長髪にも艶はなく、全身に薄汚れた包帯を巻いている姿は痛々しく、どこか触れがたいものを感じさせる。しかし面差しの元々の端正さ、雅やかさは失われるものではない。都の公達なのだろうと一目でわかる彼は、従者たちによって村へ運び込まれて以来、怪我人として、また村の賓客として丁重にもてなされていた。
人家の間に広がる水田で米の収穫が行われている最中、月を思わせる淡い白金の小鳥となって届けられた文を読み、彼――
「相変わらずだな、あの男は」
想像していたものとまったく違わない一文に、思わず声がこぼれる。思考が単純な男だとは常日頃から思っていたからある意味想定内だが、想像するのと目にするのとでは、やはり衝撃が違う。
板張りを踏みしめる音がして、断りもなく引き戸が開いた。見上げれば
麻也がこの村へ来たのは、つい二日前のことだ。先を急ぐ
麻也は、床から身体を起こした彰人が持つ文を見てくすりと笑った。
「力の気配がしたからもしかしてと思ったけど、やっぱり返しの文だったんだ。どう? 俺の予想は」
「ああ。一言一句違わないぞ。見るか?」
と彰人は文をひらつかせるが、文字の形までわかるからやめておくよと肩をすくめ、麻也は竹籠を彰人に渡した。村人からの差し入れだという。妻子が都で待っている彼らは村の無邪気な子供たちが気になって仕方ないようだったので、彰人は村人たちへの返礼も兼ねてと、従者たちに子守りを命じてある。そのため、彰人の友人ということで滞在している麻也が代わりに預かったのだろう。
この村の者たちは善良で、山で虫の息だった彰人を従者たちが村長の家へ運び入れるのを許したばかりか、手を尽くして看病してくれている。余裕がある暮らしぶりではないだろうに。こうした差し入れもその一つで、おかげで彰人は食べ物に困ることがない。もちろん、せめて食事くらいはと従者たちが山の獣を仕留め村の人々にふるまったりしてはいるが、まだ返礼には足りない。この礼は必ずせねばなるまいと、彰人は心に決めていた。
果実にかぶりつき、甘みを存分に堪能しながら、彰人はもう一度親友からの文に目を落とした。
その文には、たった一文しか書かれていなかった。
『かぐやを泣かすな、馬鹿野郎』
あまりにも、御行らしい文だ。先に読んでいた文によって生まれた後悔や反省がどこかへ逃げてしまう、暗号とも文様ともつかない文字の連なり。筆不精で深く考えるのが嫌いで情が深く、豪快な性質がそのまま表れている。
だが、これ以上ない正論だ。反論の余地はまったくない。
悪友が怒っているのは自分に心配をかけさせたことだけではなく、かぐやが彰人の生死に一喜一憂していたからに相違ない。が、その比率は半々といったところだろう。彼は、彰人が知るまともな貴族と同じかそれ以上のお人よしなのだ。恋敵が死んで清々したなんて、絶対に思わない。
麻也が、彰人の手元にあるもう一通に目をやった。
「それはかぐや姫から?
尋ねられ、ああ、と彰人は頷いた。
悪筆の見本のような御行の文とは違い、かぐやのものは楚々として繊細な字でしたためられていた。内容も、彰人の無事を喜ぶ言葉に始まって、思いつきで危険な旅を望んだことへの謝罪、他の求婚者たちの末路や中秋の夜にあった出来事の経緯、太古より在る災いの闇の欠片を呼び寄せた己の素性の説明など、多岐に渡る。そして最後には、無事に都へ帰還する日を待つという旨の文言で結ばれていた。
かぐやが人ではなかったことは、すんなりと受け入れられた。元々彼女は人ならざるものであるという噂がまことしやかにささやかれていたし、まとう空気も、清められた神社の本殿から漂うものに近いものが時折混じっていたのだ。なにより、神の娘とか人間の姫君とか、そういう肩書や立場などどうでもよかった。事実は胸のうちにすとんと落ちて、それだけだった。
ふう、と彰人は息をついた。
「あの男が姫に迷惑をかけていないか、心配だ」
「まあ、昼間は屋敷からろくに出られない状態だろうから、身体を思いきり動かしたくてうずうずしているだろうね。俺や君からの文を読んで、今頃は春日と一緒にこっちへ向かっているかも。君は、自分の身体を心配したほうがいいんじゃない? 来たら、絶対うるさいから」
「……そうだな」
口元に手を当てて喉を鳴らす麻也につられ、彰人も苦笑する。文を一読してから麻也と彰人に色々文句を言い、一言だけの読みづらい文を即刻したためた後、春日を呼びつけてさっさと出立するさまが目に浮かぶ。こちらへ来れば、彰人に面と向かって文句を言おうとするだろう。
「じゃあ俺はそろそろ行くから。うるさくされる前に、体力をつけておきなよ」
そう言って、立ち上がった麻也は曹司から出ていく。引き戸が閉まり、聞こえてくるのが農民たちの声だけになった。
彰人は文を置き、四肢に力を込めてゆっくりと立ち上がると、身体中の悲鳴を無視して縁側へ歩み寄った。柱に近づいて、背もたれて大きく息をつく。
これでもましになったほうとはいえ、たったこれだけのことに難儀する我が身に、知らず口の端が上がる。六近衛府随一の剣の使い手と謳われた左近衛中将が、なんと無様なことか。自嘲と共に、早く治さねば、という思いがまた強くなった。
彰人は、御行が宝玉を手にしたことを疑っていない。麻也からそう聞いたわけではないが、確信している。この騒動で心身を疲弊させたかぐやを慮り、今は遠慮しているだろうが、いずれは求婚するだろう。――――そのときこそ、恋の鞘当ては再び始まる。
人外の友にも、帝にも、月神にも。あの愛しい月を渡しはしない。
天を見上げると、薄い雲を下になびかせて、空は澄みわたった青をどこまでも広げている。日差しは厳しく、稲の収穫をする農民や彰人の従者たちの肌を焼いている。
早く、日が落ちればいいのに。彰人は夜の訪れを願う。
月が出れば、都に在るあの可憐な月を思うよすがにできるのだから。
月盗人 星 霄華 @seisyouka
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