第六章 始末

第37話 守るべきもの

 これが清めだと言わんばかりに波の音が絶えず聞こえる、立浪たつなみ神社の境内。敦盛あつもりは副団長と別れた後、砂利の合間の石畳を歩いていた。


 砂浜で気を失って翌日に目が覚めてから、敦盛はしばらくの間、謹慎を宮司から申し渡されていた。御祝みほうりのことは彼女自身の咎であるにしろ、賊を取り逃がしたのは私兵団の醜態であるからだ。敦盛が一切の責任を負うのは当然で、先日復帰したばかりだった。


 境内の最奥へ行くと、艶やかな黒が流れる白い背中が見えてくる。本殿の前に膝をついて祈りを捧げるその人の邪魔をしないよう足音と気配を極力控え、敦盛は神鏡を再び抱いたばかりの本殿の手前で足を止めた。


 謹慎が解けた後、団長の座を辞しようとしても許されず、うつろな気持ちを抱えたまま部下の鍛錬のし直しをしていたある夕暮れ。逢魔が時と俗に言われる時間の境内を副団長と共に歩いていた敦盛の前に、えもいわれぬ美女とあの大柄な賊が姿を現した。彼女の手には神鏡があり、賊は何故か賊と共に神鏡を盗み、神路かんじ島へ向かってしまった御祝の身体を腕に抱えていた。


 月から来た天女を名乗る女は、先日立浪神社へ賊と共に侵入したのは自分だと言い、その経緯を敦盛たちに語った。そして、神鏡を盗んだばかりか、仕方ないこととはいえ御祝の身体を好きに使ってしまって申し訳ないと謝り、敦盛に神鏡と御祝を託して賊と共に去っていった。


 にわかには信じがたい、御伽噺を超越した現実感のない話だった。天狗の悪行はまだしも、月の天女だの、求婚の品として珍宝を求める月神の姫だの。荒稽無唐だ。


 だが、そんなことはどうでもよかった。守れず失ってしまったと思っていた人が、自分の腕の中で健やかな息を繰り返していることのほうが、敦盛にとって重要だった。


 祈りを終えたのか、御祝はゆっくりと立ち上がる。振り返ると、驚く様子もなくふわりと微笑んだ。


「敦盛。どうしたの? 宮司様が私を呼んでいるの?」

「いえ……」


 首を振り、敦盛は目線を落とす。用なんてない。御祝が神社に――――自分の手が届くところにいるのだと、確かめずにいられなかっただけだ。

 御祝はそれ以上追及したりせず、代わりに敦盛、と名を呼んだ。


「宮司様や直実から、月の天女様がしてくださったという話を聞いたわ。……二人はあまり信じていないようだったけれど、貴方は信じる?」


 悪戯を仕掛ける子供のような表情で、御祝は問いかけてくる。敦盛は目を瞬かせ、わかりかねます、と答えた。


「かの女人が天女であるのは間違いないとは存じますが、あの賊の一人は、人とは思えぬ怪力でした。天狗か鬼に相違ありません。月の神に仕える清き天女が、何故そのようなあやかしの力を借りようと思ったのか……自分には納得しかねています」


 鬼や天狗は穢れたもの。忌むべきもの。敦盛はそう教えられて育った。清き天女なら、そんな存在を頼ろうとしないものではないのか。そんな思いがあるから、一から十まで信じることは難しい。あの女は天女であると信じられても、語られた内容については半信半疑のままだった。


 すると御祝は何故か、怒った顔をした。


樟葉くずは


 たった一言、きつい声音でそれだけ言う。むうと眉をしかめて怒ってはいるが、しかし迫力はまったくない。


 一瞬目をきょとんとさせた敦盛は、自分が過ちを犯したことにすぐ気づいて目を見開いた。――――せめて二人きりのときくらいは、といういつかの日の約束。


「……すまない。このところずっと、君のことを御祝として呼んでばかりだったから、忘れていた」


 すまない、と敦盛はもう一度繰り返して謝った。


 御祝――樟葉と敦盛は、家が近所であれば母親たちも友人同士という間柄で、物心ついた頃から互いを知っている。だが、御祝はこの立浪神社において宮司に次ぐ地位にあり、血に汚れる私兵団の長如きが本来なれなれしくしていい存在ではない。特に当代の御祝たる樟葉は、彼女個人を崇拝する者までいるほどの人気ぶりなのだ。副団長などは薄々気づいているようだが、だからといって親しくしていることを公にしたりできなかった。


 そうしたしがらみを理解している樟葉は、だったらいいのだけど、とさみしさと不満を混ぜた声音で口を尖らせる。それが可愛らしくて、敦盛は小さく笑む。同時に、泣きたくなるような熱を胸や眦に覚え、堪えた。こんなところで泣きそうな顔になるなんて、男としてみっともない。


 そんな敦盛の心境を知らない樟葉は、くるりとまた敦盛に背を向け、さっきの話だけどね、と話題を変える。敦盛は正直ほっとした。


「月の天女様が私の身体を動かしている間ね、私の魂は、意識のずっと深いところにあったの。でも外の世界のことや、天女様が考えていること、感じていることは、私も少しは感じていたのよ。あの方も、私の記憶と感情を読んでいたわ。仮初とはいえ、魂が肉体と繋がっていたからでしょうね。あの方が仰っていたことは本当よ。あの方は、都にいる月神の姫君のふりをしていたのよ」

「……」


「貴方が人ならざるものだと言った賊たちは、本当に人ではなくて……神鬼じんき族だったみたい。天女様は、出会ってすぐに彼らが人ではないと見抜いていたけど、彼らの協力があれば御神体をここから盗みだせるだろうと考えていらしたわ。でも、神鬼族と言っても、鬼のような悪しきものではないのね。私の身体に宿った天女様を見る目はとてもまっすぐで、人間の若者とまるで変わりなくて……だから天女様も、出会ったばかりの彼らに協力を求めたのでしょう。神鬼族は人間のように集落を作り、神を祀ると書かれている古い文献もあるし……きっと、それは本当のことなのよ」

「……賊は賊だ」


 たまらず、敦盛はそう小さく非難めいた声をこぼす。あの大柄な男に軽くあしらわれたことは、思い出すだけで腹が立つ。――――何より、彼女があの男を信じている様子なのが気に食わない。


 御祝は目を丸くし、一拍置いてくすくすと笑った。


「そうね。だから、もし今度また神社に入ってきたら、遠慮なく捕まえてちょうだい。貴方や皆の力があれば、きっと捕まえられるわ」

「ああ。次は必ず捕まえる」


 敦盛はそう頷く。が、一方で彼らはもう神社に現れないとも思った。あの神鬼は、神路島へ行くのに必要な神鏡を手に入れるために立浪神社へ来たというのだ。ならばもう用はないはずで、調子に乗って二度も盗みに来るような真似はすまい。――――それでもまた来たなら、そのときは拿捕してみせるが。


 けれど今は、このわずかな至福のひとときを噛み締めていたい。


「……樟葉。そろそろ戻ろう。厨の者たちが、今夜は特別な料理を出すと言っていたんだ。今日はいい食材が手に入ったらしい」

「まあ。じゃあ早く戻らなきゃ。一緒に戻りましょう」

「ああ、樟葉。……一緒に戻ろう」


 そう言って、敦盛は幼馴染みに手を伸ばした。

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