第11話 置き去りの心

 四人と神鏡を乗せた小舟が離れていく。


 弓兵たちが放つ矢は、賊たちにことごとく阻まれて届かない。もはや無駄だと判断した副団長は、わずかな弓兵たちの攻撃を中止させた。


 船を用意し、応援が到着し体勢を立て直し次第賊たちを追うこと、天狗をただちに始末することを部下に命じ、副団長は団長である若者――大伴おおとも敦盛あつもりの身体を起こす。彼の太刀は部下に任せ、武士にしては細い肩に手を回し、気を失っている身体を引きずるようにして自分も砂浜を後にした。


 姫穂ひめほ国の一の宮たる立浪たつなみ神社は、公卿を輩出する大伴氏の庇護を受けているだけでなく、その所領と御神体を守るために自ら私兵を置いている。兵の半分以上が地元の志願者で構成されているだけに、神社に対する忠誠心は強制せずとも強い。平穏な毎日に時折現れる、神路かんじ島と立浪神社へ敬意を払わない不届き者を捕らえることを責務として、日々精進を重ねてきた。


 ――――だというのに。


 もしかしたらあれは、鬼だったのかもしれない。天狗と同じく人が道を踏み外した末路である鬼は、人ならざる力を振るうのだという。ごくまれに、闇から人の世に這い出て人をからかい、むさぼり食うとも。そんな言い伝えのように、永き時に飽いて、この聖なる宮に住まう者たちをからかいに来たのかもしれない。


 だが、それよりも驚いたのは、一味に行方知れずだった巫女――御祝みほうりがいたことだ。


 立浪神社の長は宮司一族の当主だが、それとは別に、最高位の巫女もまた町の人々の尊崇を集めている。普段は神社から外へ出ることはめったにないが、祭りでその神聖さを高め華を添える役目を果たしている姿を人々に見せているため、宮司よりも町の人々に慕われている節がある。特に当代の御祝はその端麗な容姿もあってか、一際民衆の人気が高かった。


 その御祝はひと月前、山のほうにある元宮もとみや――今の場所に遷座される以前に神社が在った地へ祭事に赴いた折りに、天狗にさらわれた。もちろん護衛はついており、いつ賊が現れても対応できるようにしていたのだ。が、天狗はその精鋭を殺し、あるいは瀕死の重傷を負わせて御祝をいずこかへ連れ去った。以来、何度も占いで行方を探し、兵を派遣したが、一度として御祝を見つけることも叶わず、己の無力さに涙することもあったのだ。


 ――――だというのに。


 覚えのある通力の気配にもしやと思っていれば、賊の一人はやはり、御祝であった。真っ先に副団長の心中に満ちたのは、喜びよりも困惑だ。何故賊の一味に加わっているのか。天狗にさらわれたのではなかったのか。祭事のとき以外に訪れることのない神路島に、御祝が一体何の用だというのか。副団長には、まったく何もわからない。


 ため息をついて、副団長は肩に担いだ団長の顔を見下ろした。

 自分もそれなりに混乱しているが、一番衝撃を受けているのはこの若者だろう。町で生まれ育ち、人一倍鍛錬を積み重ねて若くして団長となった男で、御祝に対する忠誠心は人一倍強い。何の理由であれ、御祝が賊と行動を共にしていて、しかもまだ神社に戻らないというのだから、傷ついているに違いないのだ。御祝と賊たちが去っていくのを、彼が見ていなくてよかったとも思う。


 御祝は一体何を考えているのだろうか。天狗にさらわれ皆に心配をかけたと詫びるくらいなら、戻ればいいのだ。なのに、賊にまじって神鏡を盗み、祭事でもないのに神路島へ向かうなど。御祝として犯してはならない罪を幾重にも犯しているではないか。敦盛を傷つけてもいる。血気盛んだが部下の話を聞くことも忘れないこの若者を気に入っている副団長としては、いくら御祝でも勝手が過ぎると、怒りを禁じえない。


 帰還した際には厳しい罰が下るだろう。身分剥奪や追放もありうる。そうでなければおかしいと、歳若い団長を思いやり、身勝手な巫女に憤っていたときだった。


 背後から部下たちの悲鳴が上がり、副団長は何事かと振り返ろうとしたか否か。咆哮と共に、すさまじい風が副団長の全身に打ちつけた。副団長はとっさに己の顔を腕で庇う。踏ん張り、砂のつぶてに耐えた。


 風が止み、副団長はそろそろと腕を下ろした。そして絶句する。


「……っ天狗が……!」


 倒れていた天狗が、副団長に背を向けて立っていた。先ほどの烈風をまともに受けたためか、天狗の周囲には兵たちが倒れている。生きているのかわからない。


「……逃がさぬぞ…………」


 波の音にかき消されそうな声が御祝を望む。その声音のおそろしさに副団長はぞっとしたが、はっと我に返って部下に敦盛を押しつけ、代わりに破魔弓を奪い取った。見た目以上の重みと聖なる気配が手にのしかかる。


 人間たちが慌てふためく間にも、天狗は翼をはためかせ、よろめきながら上昇し、小舟を追おうとする。上下に大きく揺れながらの飛行は、今にも落下しそうだ。


「何をしている! 天狗を仕留めよ! 私に矢を寄こせ!」


 恐れ慄く部下たちに大喝を浴びせ、副団長は矢を催促した。近くにいた部下は肩をびくりと揺らし、自分の矢を慌てて差し出してくる。その一本を掴み取った副団長は海辺へ走り、弓に番えた。部下たちの矢が天狗の背に向かっては海へ落ち、あるいは身体に弾かれる。


 弓を掴む手、矢羽を掴む指に清らかな力の波動を感じる。副団長はその力に負けないよう、しっかり気を保った。脂汗をにじませ、月明かりに照らされた空に浮かぶ天狗の身体を凝視する。呼吸を図り、撃つべき瞬間を狙う。


 上下左右に揺れる天狗の身体が一際傾ぐ。その代わり、天狗の全身に力がみなぎった。砂浜に届く陰気に、副団長の肌が粟立つ。


 一瞬天狗の邪気に心を揺らしたためか、副団長は気づけば天狗に向けて矢を放っていた。


 破魔矢が天狗の首筋を貫くのが早かったのか、天狗が力を放つのが早かったのか。


 天狗の落下と同時に、光が発射された。あ、と副団長たちが思う間もなく光はものすごい速さで宙を駆け、小舟の近くに着弾した。音と波が生まれ、小舟を翻弄するどころか砂浜にまで押し寄せてくる。


 波が静まり、海に再び静寂が戻ったとき、海面のどこにも小舟の姿はなかった。

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