第12話 価値あるもの・一
恐ろしいものから必死に逃げている自分とは別の自分を認識した瞬間、かぐやの意識は覚醒した。
本当に今まで追われていたかのように荒い息をつきながら、追われているのは己ではないとかぐやは自分に言い聞かせる。まだ少し、意識が混濁している。
完全に意識が落ち着いたところで、かぐやは脇息に伏せていた身体を起こし、首を巡らせる。夏の陽光が差し込み、爽やかな風が吹き込む自分の曹司だ。差し込む陽光の角度からすると、昼下がりといったところだろうか。
脇息のそばに落ちていた笛に気づき、眠るまでは思うままに笛を吹いていたことをかぐやは思い出した。養父が雅楽寮の友人から笛の楽曲の譜を借りてきてくれたので、さっそく稽古していたのだ。が、熱心に稽古をしているうちに眠気がさしてきて、つい脇息に伏せてしまった。それから記憶がない。
昨夜は遅くまで絵巻物を読んでいたから、そのせいだろう。何十年か前に後宮で活躍した女房がかつて記していた、宮中を舞台とした絢爛たる恋物語。読むことは都の貴族女性なら当たり前とまでいわれている。そのためかぐやも現在、求婚者の一人、左近衛中将の
ぼんやりと記憶を辿っているうちにかぐやははっと気づき、そばの文台を見た。譜面は文鎮に挟まれたまま、ぱたぱたと小さくはためている。
一枚も飛んでいないことを確認して胸を撫で下ろしたかぐやは、首を振るって残る眠気を払うと、譜面を箱にしまった。笛と共に厨子に片付けながら、譜面を写させてもらえたらと考える。養父の友人が先日催された宴のために作ったという曲で、華やかな曲調をかぐやは気に入っているのだ。
そこでふと、かぐやは周囲の気配に神経を澄ませた。
表面上は、普段と変わらないように思える中に、あわただしい空気が混じっている。そういえば、
客人がこちらへ来ることはないだろうからと、かぐやが庭へ下り、庭の桜の木の下へ近づいたときだった。
どこか懐かしくもある知らない気配を感じたと思った刹那、じゃり、と砂を踏む音が聞こえた。かぐやの肩と心の臓が、身から飛び出すかという勢いで跳ねる。
「すまない。驚かせてしまったな」
若々しい声が、かぐやの背後で謝る。知らない青年の声に、かぐやはたちまち緊張した。
何を甘く考えていたのだろう。かぐやは己を叱った。以前にも、養父の客人がこちらまで無断で侵入してきたことがあったではないか。その後、かぐやが五人の貴公子と文をやりとりするようになってからは無体な真似をする者は絶えたが、五人がいない間にと考える者がいてもおかしくない。
「貴女が大星の翁の姫……かぐや姫でよろしいか」
問われ、かぐやは何も考えず頷く。青年の声に苦笑が混じった。
「そのように緊張されると困るな……私は何も、貴女をとって食おうというのではない。どうか気を楽にしてほしい」
「……」
そう言われても、すぐ緊張を解けるわけがない。せめて扇子があれば、とかぐやは心から思った。
養父の客人に違いない青年は、かぐやに近づいてきている。このままでは無理やり振り向かされ、何をされるかわかったものではない。
かぐやは意を決して、自分から先に振り返った。袿の袖口で顔を隠して逃げようとする。
――――しかし。
「――! 何をなされます!」
手首を掴まれ、かぐやは思わず振り返って青年に怒気をぶつける。――そうしてかぐやも青年も、互いの顔をようやく間近から見た。
かぐやに声をかけたのは、二十歳かそれより少し上といったふうの、涼しく品のある容貌をした青年だった。濃緑の布地に松菱の地文と竜胆唐草の文が浮かぶ狩衣を着ている。
青年は大きく目を見開き息を呑み、ややあって、それを取り繕うように笑みを浮かべた。かぐやの手首を優しく放す。
「乱暴なことをしてしまってすまない。花も月も霞むと評判の、貴女の顔をどうしても見たかったのだ」
「……」
やはりそうだったのかと、かぐやは顔を曇らせたまま、ふいと顔をそむけた。
「……では、父のもとへ早くお戻りください。貴方は父のお客様なのでしょう? 父はきっと探しています」
「そうしたいところだが、貴女に会ってしまったから、そうはいかなくなってしまった」
困ったな、とどこか楽しそうな声音で言い、青年はまたかぐやに手を伸ばす。後ずさったかぐやだが、かぐやが逃げるよりも早く頬に指がかかった。
「貴女は美しい……美しいと噂に聞いていたが、これほどとは…………」
「…………」
ささやくような声。見下ろす目には感嘆と熱がある。かぐやはそれらに絡め取られ、動けなくなった。
「このまま私の傍らに在ってくれるなら、私は常春の天にも昇る心地であろう…………」
「……!」
かぐやは動こうとしない腕を無理やりに動かして、青年の手を払った。無礼だと思ったが、それよりも触れられることや瞳に浮かぶ熱への拒絶が勝った。
「……父のところにお戻りになって、本来の御用をお済ませくださいませ。私は、これで失礼いたします」
顔を伏せ気味にそう言って、かぐやは足早に立ち去ろうとする。が、青年はそれを許さなかった。背後からかぐやの腕を掴む。
再び腕を掴まれたかぐやは恐怖に駆られた。がむしゃらに腕を引っ張る。
「は、離してくださいっ……!」
「落ち着いてくれ。何もしない。本当だ」
「なら、手をお離しになってください」
かぐやは繰り返し、きつい声音で青年に乞う。それをじっと見下ろしていた青年は、不意に横を向いて長い息をつくと、かぐやの手を離す。かぐやは自分の腕を胸に引き寄せた。
すまないな、と苦笑した青年は、三度かぐやに謝罪する。
「出会ったばかりだというのに、私は三度も貴女に謝っているな。どうやら、貴女の美しさに興奮しすぎてしまったようだ」
「……」
「私がこの屋敷を訪れたのは、さっき言ったように、貴女に会うためだ。次から次へと前に引き出される姫君たちを比べるのは飽きたのでな。たまには当たり前の貴族のように、評判を聞いて姫君を訪ねてみたいと思っていたのだ。気に入れば、連れて帰ろうと思っていた」
「……!」
ぎくりとかぐやは身を強張らせる。この状況下では、不可能ではない。そうして見ず知らずの貴公子のもとで育つことになった少女の話だってある。
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