58 想
「じゃあ、ここで、バイバイ……」
ターミナルのS駅に着き、通路を進み、O線とK線の分岐路に差しかかったところで葵が言う。
「気をつけて帰ってね」
「うん、葵も気をつけて……」
「中村さんもバイバイ……」
「うん、翔くんもバイバイ。蛍を頼んだわよ」
それだけを託し、葵がくるりと半回転する。
別れを惜しみもせず、去って行く。
が、そんな葵の顔には笑みがある。
半分は涙の笑みだが、これもまた笑みだ。
葵は自分の恋心を肯定したのだ。
これでやっと忘れることができる。
大好きな人のことを忘れることができる。
後に残るのは自分が恋したという素晴らしい思い出だ。
振られはしたが、良い恋だったと振り返ることができる。
あたしの宝物だ。
そう感じ、葵の笑みが深くなる。
ゆっくりと全身に広がって行く。
一方の蛍と翔はぎこちない。
葵という緩衝材が消え、どちらも心を持て余す。
共通の話題が少ない二人だから、折り紙と蛍光ドリンク以外では会社の話をするしかない。
が、それも場違いな気がし、自然と何方も口籠ってしまう。
けれども、その沈黙が厭ではない。
二人が同じように感じている。
感じてはいるが口には出さない。
どちらも自分だけが感じていると思うからだ。
沈黙のまま、K線の改札を抜け、地下ホームに向かう蛍と翔。
その姿を柱の影から伺っている人物がいる。
山口夏海だ。
夫の翔が本日呑みに行くメールは受け取っている。
翔が洋食屋『燐家』まで歩く間にメールをしたからだ。
だから、あの娘と一緒にいることも知っている。
が、帰りの路線が同じだとまでは記されいていない。
けれども、あの娘があの日喫茶店『一日』にいたことを考えれば、ありえない話ではないと夏海には思える。
翔は、あの娘を家まで送って行くのだろうか。
夏海の胸に不安が過る。
翔は誰にでも親切だ。
女性が夜道を帰るとなれば、ボディーガードを引き受けるだろう。
翔はそういった人間だ。
好き/嫌い、という感情とは別に行動する。
けれども翔、あなたは彼女が好きなんだよ。
今は自分の気持ちに気づいていないかもしれないけど、きっと、わたしよりもずっと好きなんだよ。
互いに沈黙を守りながら駅の階段を降りるあの娘と翔の姿はぎこちない。
が、そのぎこちなさが初々しい。
わたしと翔との初めも、恐らくあんな感じだったのだろう。
だから翔、あなたが自分の気持ちに気づくのも、そんなに遠い未来ではない、とわたしは思う。
もっとも、それに気づけば、あなたはわたしに遠慮し、自分の気持ちを揉み消そうとするだろう。
あなたはそういった人間だ。
わたしを第一に考えてくれる。
けれども、それではわたしが辛い。
あなたのことが大好きなわたしが辛過ぎる。
翔、わたしはあなたを手放すのが厭……。
だけど翔、わたしはあなたを心のままにさせてあげたい。
中学二年生のときから九年間、わたしを愛してくれてありがとう。
結婚までしてくれてありがとう。
三歳も年上の彼女を持ち、あなたは凄く苦労したと思う。
歳は三歳上だけれど、わたしはあなたより、ずっと子供だ。
でも今、わたしは決心をした。
大人になる決心をしたよ。
すぐに伝えることはできないかもしれないけれど、あなたに離婚を申し出よう。
今までずっと、わたしを一番好きでいてくれてありがとう、そんな言葉を添え、わたしはあなたに離婚を申し出よう。
今ならまだ間に合うから……。
自由な身で、あなたをあの娘の許に送り出してあげられるから……。
そう思い、夏海が翔の傍にいる蛍を見る。
自分の翔への想いを必死で隠していることが見え見えだ。
その姿が何とも愛らしい。
翔、普通の男なら気持ちに気づくよ。
オマエ、どんだけ鈍感なんだ。
が、それもわたしのせいか。
中学生の頃から、わたしがあなたを独り占めしたから、あなたは恋愛音痴なんだ。
わたしのせいで、そうなってしまったんだ。
ごめんね、翔……。
これが、あなたの二度目の初恋だね。
わたしとのときも、確かにあなたの初恋だったけど、今度もあなたの初恋だ。
そう思えてならない、わたしがいる。
何故って、あの娘と一緒にいるあなたが、あんなにぎこちなく見えるから……。
そのぎこちなさが初々しいから……。
翔、その恋、上手く行くといいね。
わたしとあなたとの場合、殆んどがわたしのせいで感情の擦れ違いも多かったけど、あの娘とあなたなら、それも少ないと思う。
だから、お互いお爺さんとお婆さんになるまで仲良く一緒にいて欲しい。
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