8 家
その後、翔は蛍に、もちろん構いませんよ、と言ってくれる。
ついで踵を返すと駅のホームへと至る階段に向かう
蛍が声をかけないから翔も蛍を振り返らない。
凛々しい後姿のまま去って行く。
(翔くん……)
そんな翔の後姿を蛍が愛おしそうに眺めている。
が、暫く後、
「いっけない。今日の料理当番はわたしだった」
蛍がいきなり日常に戻る。
自分の家での役割を急に思い出したのだ。
蛍が夕食の買い物のため、駅の近くにあるスーパーマーケットに寄る。
近くというより駅ビルと一体化したスーパーマーケットだ。
結婚後の夕食を担当制にしよう、と言いだしたのは健斗だ。
蛍は料理が下手だから健斗の申し出には正直助かる。
が、済まない気持ちも抱いている。
若者たちの結婚でも、それに共働きでも、女性が家事を担当するのが、まだまだ常識な、この国だから……。
最近では口に出して言うことはまずないが、料理人でもない男が料理をすることを嫌う男は結構いる。
健斗の会社の上司も一部はそんな男たちだろうから、蛍は健斗に対し、申し訳なく思ったのだ。
(さてと、今日は健斗が好きなゴーヤチャンプルでも作るかな)
蛍が自分の気持ちを入れ替える。
夕食は二人分だからゴーヤは一本で、他には木綿豆腐、豚肉、卵などを買い、自分と健斗用にビールも付ける。
ゴーヤチャンプルの味付けには麺汁も使う。
蛍の実家ヴァージョンだ。
健斗は苦めのゴーヤチャンプルが好きだから、ゴーヤを炒める時間を短くする。
それが夕食の時短に繋がる。
味噌汁の具は豆腐だと被るからキャベツでも入れるか、野菜も多く取れるし……などと考えながら蛍が買い物を進めて行く。
切らしていた石鹸と風呂の洗浄剤を買い、買い物袋を下げつつ帰宅。
が、健斗がいない。
(おっかしいなあ、スマホに連絡がないんですけどお……)
蛍は思うが、まあ大丈夫だろう、と気合を入れ、夕食の準備を始める。
料理がほぼ出来上がったナイス・タイミングで健斗が家に帰って来る。
「お帰りなさい。少し遅かったのね」
「プチ残業……」
健斗がダイニングキッチンに入り、蛍に言う。
「あら、奇遇ね。わたしもだわ」
蛍が味噌汁の味を確認しながら健斗に言う。
「おっ、今夜はゴーヤチャンプルか。いいね……」
「健斗が好きだから……」
「ありがとう」
健斗が蛍に言い、奥の部屋に着替えに向かう。
そろそろ帰宅時に身体が汗ばむ季節だが、まだ夕食前にシャワーを浴びるほどではない。
だから健斗がすぐ、ダイニングキッチンに姿を見せる。
蛍が健斗に、
「最初から飲む……」
とビール缶を見せ、
「おお、そうしよう」
健斗が答える。
蛍が健斗と結婚してから毎日繰り返されて来た日常だ。
派手さはないが、そこはかとなく幸せで、そんな日常を繰り返しながら、やがて子供が生まれ、子供が育ち、自分たちは少しずつ歳を取りながら老人になっていく。
蛍はずっとそう考えてきたが、そうではない未来が見えてしまう。
蛍にとって初めての体験……。
翔と一緒に蛍が過ごす未来のビジョンだ。
が、それはない。
あり得ない。
蛍が弱々しく首を横に振る。
ついで……。
いや、もしかしたら、ありえるのだろうか。
蛍が夕食を上の空にしながら、そんなことを考えていると
「蛍のプチ残業って何……」
健斗が笑顔で訊ねてくる。
「えっと、ああ、課長に書類の整理を頼まれてさ。どうせ、わたしに仕事を振るつもりなら、もっと早く言え……ってえの」
「おお、怖い。お冠だね」
「そんなことはないけどさ。で、健斗の方は……」
「オレの方も蛍と似たようなものかな。書類じゃなくて会議室への椅子運びの手伝いだったけど……。思ったより手間がかかって、それで帰って来たのが、この時間。まあ、三十分の残業は付けたけどね」
「わたしの方は面倒臭いから付けなかった」
「大きな会社はコンプライアンスに煩いだろう。怒られるよ」
「注意されたら付けるけど、残業時間前に終わったから……」
「それって休み時間に働いたってことだろう。感心せんね」
「そうじゃなかったら夕食はまだよ」
「確かに、オレが夕食当番のときも同じことを考えるからな」
「今日は仕事を頼まれたときには、残業かな、って思ったのよ。でも手を付けてみると思いの外、捗って……」
「蛍が優秀なんだろう」
「もちろん、それもありますけどね」
蛍と健斗の日常会話が綴られていく。
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