4 動

 山口翔が踏んだのは蛍のスマートフォンのアクセサリーだ。

 詳しく言えば黄色いカピパラ人形。

「あっ」

 山口翔が慌てて足を上げる。

 が、その下のカピパラはバラバラだ。

 蛍にはカピパラの小さな目がバッテンに変わったように見える。

 山口翔がその場にしゃがみ込み、自分が毀したスマホ・アクセサリーの欠片を拾い上げる。

「ごめんなさい。お怪我はありませんでしたか」

 そこに蛍が声をかける。

「いえ、オレの方こそ、済みません」

 翔が蛍を見上げ、頭を下げる。

 慌てて蛍も翔の隣にしゃがみ込む。

「毀しちゃいましたね。弁償します」

「いえいえいえ、いいんです。安物ですし……」

「しかし、そういうわけには……」

「悪いのは、わたしですし……」

「参考に……これ、」

 と翔が自分が踏んで毀してしまった黄色いカピパラを右掌に握り、蛍に言う。

「預かっておきますから」

「あの、だから、いいんです」

「では後日……」

 素早く立ち上がると翔がエレガントにその場から歩き去って行く。

 一旦、そんな翔の姿に向いた女性社員の視線が一斉に蛍に注がれる。

(痛っ……)

 マンガや小説で読んだことはあるが、本当に視線が痛いのだ。

 いったいどれくらいの数の女性社員に睨まれたか見当もつかない。

「さあ、もう仕事が始まるわ。早く行きましょ」

 葵がわざと大きな声を出し、蛍に言う。

 蛍が立ち上がると小声で、

「ゴメン、赦して……」

 空かさず謝る。

「いいわよ。気にしてないし……」

 蛍が葵に笑顔を見せる。

「でも、あのカピパラ、ちょっと気に入ってたんだ」

「ああ、やっぱり、ゴメン……」

「だから気にしてないって……」

 すると葵は声のトーンを変え、

「翔くん、代わりに何を買って来てくれるのかしら……」

「高いモノを買って来られるとマズイな」

「ところでさ、翔くんとの会話まで聞かれていたら蛍の背中に穴が開いていたわよ」

「入社半年もしないで女性社員を総ナメなんてびっくりだわ」

「総ナメは大袈裟だけど、まあ、ファンは多いかな」

 その日は結局、それだけで終わる。

 会社の社員が多いのと部署が違うので蛍はまるで翔に会うことがない。

 いつものように事務仕事に忙殺され続け、あっという間に週末だ。

「華野くん、これを纏めておいてくれないか」

 総務部一課長の吉川正敏が蛍の机の前にぬっと現れ、気楽に言う。

「月曜の会議で使うから頼んだよ」

 それならそれで、もっと早く頼めよ。

 内心、蛍はそう思うが、当然のように口にはしない。

 入社して覚えた上司向けスマイルで、

「畏まりました」

 と返答しただけだ。

 それを中村葵が呆れ顔で見つめている。

 一課長の吉川が蛍の机の前を去ると蛍に近づき、小声で言う。

「アンタが甘い顔をするから仕事を押し付けられてるじゃない」

「ないよりはマシよ」

「入社半年で壁際族はないわ。あっ、辞めたのは既にいるけど……」

「人事部長、上から怒られてたみたい」

「すでに同期が三人もいないって異常だわ」

「他人(ひと)は他人、我は我……」

「そういえば蛍、翔くんから何か連絡はあった……」

「全然……。向こうも忙しいんでしょ」

「営業だから飛びまわってるしね」

 言うだけ言うと葵が去る。

「じゃ、やるか」

 蛍が吉川の残していった書類の束に目を向ける。

 定時までの約一時間でどこまで進むかが勝負だ。

 ……と気合を入れたが、思ったより纏め易い書類が多く、定時までに約九割が片付いてしまう。

 残業開始時刻までには余裕で終わるだろう。

 そう思い、ペットボトルの紅茶を飲み、気分を切り換えると続きを始める。

 午後六時半前に関係者全員に資料をメール発信し、本日終了。

 長居は無用、さっさと家に帰ろうと蛍が腰を浮かす。

 そこに山口翔が現れる。

「あなたの苗字、華野(かの)さんって仰るんですね。この前、伺わなかったので探しました」

 定時退社組は既に会社にはおらず、残業組は仕事を始めている。

 また、そのとき総務部にいたのは殆どが男だ。

 だから視線は痛くない。

 いや、少しは痛いか。

 蛍がそんなことを考えていると、

「一応新しいのを買ったんですが、修理もしてみて……」

 そう言いつつ翔が蛍に透明な袋に入った黄色いカピパラを手渡す。

 粉々に砕けた部分はパテで修復したようだ。

 割れた破片をくっ付けたジグザグラインは――溶剤でも塗ったのか――それほど目立たない。

「それから、こっち……」

 ついで翔が蛍に手渡したのがウサギのフィギア。

 大きく、まん丸い目がとても可愛い。

「ありがとう。修理してくれて、それから新しいのも買ってくれて……」

 蛍が感激のあまり声を張り上げる。

 それを、まだ社内に居残っていた中村葵が渋い顔で見つめている。

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