12 兜

 新入社員は忙しい。

 もちろん中堅社員も忙しいが、仕事に慣れがあるので少しは楽だ。

 もっとも新しい資格を狙ったり、種々の法改正に対応する中堅社員は忙しい。

 また老年でも優秀な社員は忙しい。

 口でただ忙しいと言っているだけの社員は年齢に関係なく窓際だ。

 華野蛍も会社では、いつも忙しい。

 が、入社して半年も経てば、さすがに仕事には慣れる。

 総務の仕事で労働基準法を勉強することになろうとは入社当時には想像できなかったが、考えてみれば、総務規定に所定労働時間などが記されているのだから当然だ、と納得できるようにもなる。

 知らないことを覚えるのは誰でも面倒で且つ大変なことだが、それで給料をもらえるのだと自覚すればやる気も出る。

 蛍が行う仕事で実際に、いろいろと面倒なのは議事録作成だ。

 総務部員として種々の会議に蛍は出席するが、議事録作成が新入社員に割り当てられた業務だから、蛍が議事録を作成する。

 蛍が勤める会社の総務部には二課があり、蛍が属する総務部一課で行われた会議の議事録作成は基本的にすべて蛍が担当する。

 翌年新入社員が入れば、その仕事は引き継がれるが、不況で、また年金絡みで再雇用就職者が多いこの時世では、上場企業でも毎年すべての部に新入社員が入るとは限らない。

 翌年総務部一課に新入社員が入らなければ、その年も議事録担当者は蛍となる。

 もっとも今では会議中にモバイルPCを利用することができるから昔と比べれば楽なのだが……。

 蛍の父が新入社員の頃にはノートPCはあったが会議に持ち込むことが一般的ではなく、また当時はLANがないからPCを持ち込む利点も少なかったようだ。

 因みにノートPC(当時はノートパソコンと呼称)が世界で初めて発売されたのが一九八九年。

 それ以前の一九八〇年代中頃にはラップトップ(膝の上)パソコンというデスクトップPCより小さいがノートPCより大きいサイズのPCが使われている。

 仕事に追われ、あっという間に週末だ。

 とにかく、この半年間、蛍自身が慌しい。

 蛍は駅ビル内の百円ショップで折り紙を買ったものの家で兜を折るわけにもいかず、また会社で折るのも何だかヘンで、翔のための兜をまだ折っていない。

 が、約束があるので兜は折りたい。

 翔のいる部署まで出向き、単なる会社の友だちとして折り紙を渡し、自分の恋を終わらせるのだ。

 蛍はそんなふうに考えている。

 翔に兜を渡さず、この先会わずに逃げまわる方がどう考えても簡単そうだが、蛍は逃げることが厭なのだ。

 兜を翔くんに渡して恋を終わらせる。

 週の初めから金曜日の朝にかけ、蛍のその想いは強まっている。

 翔に兜を所望されたあのときは、もう一度翔に会えると感激したが、その後蛍は冷静になり、翔の言葉を利用すれば良い、と思い至る。

 翔との約束を果たし、翔と単なる知り合いに戻る道具として兜を利用すれば良いのだ、と。

 けれども翔に渡す兜を折る機会がないまま、金曜日の午前中まで終わってしまう。

 蛍は覚悟し、昼食は、自分のお弁当も持ち込み可能な社内食堂ではなく、自分の机で食べることに決める。

 早めに食べ終わり、その後、兜を折ってしまう気なのだ。

 そんな蛍の覚悟の昼食に、何故か、中村葵が付き合っている。

 葵の机は総務部一課と同じフロア内の総務部二課にあるから椅子を引いてやって来る。

「どうして……」

訳が分からず、蛍が葵に問うと、

「さあ、女のカンかしら……」

 葵が蛍には意味不明な言葉を返す。

 それから十分以上経ち、蛍が弁当を食べ終える。

 が、葵はまだ口をモグモグと動かしている。

 つまり弁当を食べ終えていない。

「別に、わたしに構わなくていいから……」

 どこまで蛍の心境を理解しているのか、葵が蛍にそんなことを言う。

 だから蛍は朝、鞄から取り出し、机の中に仕舞った色とりどりの折り紙を取り出す。

 首を捻り、少し考えてから紺色の折り紙を選ぶ。

 二枚の折り紙で作る立派なタイプもあるが、翔が蛍に望んだのは間違いなく一番有名なタイプの兜だろう。

 だから、その兜を折り始める。

 暫く指を動かしていると、

「蛍、アンタ、器用なのね」

 葵が関心したように蛍に声をかける。

「こんなのは折り目が少ない、簡単な方よ」

 蛍が葵の方を見ずに折りながら答えると、

「で、誰にそれを渡すの」

 と葵が問う。

 蛍は葵にどう説明しようかと瞬時惑うが、結局、

「山口翔くんよ。先週、帰りの電車で頼まれて……」

 蛍は葵に事実だけを告げる。

「ああ、やっぱりそういうことか。じゃ、定時後、頑張ってね」

 蛍にそう言い、その後、一口だけ、ご飯を頬張ってから葵は弁当箱を片づけ、椅子を引き、自分の部署に戻っていく。

 蛍には中村葵の行動と言動の意味がわからない。

 暫くポカンとしてしまう。

 午後の就業時間中、蛍はPCと睨めっこをしながら過ごす。

 ただ、ひたすら……。

「はーっ、目が疲れた」

 漸く定時となり、蛍は机の上に上半身を倒し、小さくぼやく。

 このままでは視力が落ちるのが早いかもしれない、などと考えつつ、昼食時に折った紺色の兜を隠したスパイラルノートを持ち、山口翔の部署まで出向く。

 山口翔が属すのは営業部営業三課だ。

 蛍は総務部員なので社員の名前がわかれば部署を調べるのは簡単だ。

 もっとも、その行為自体は犯罪かもしれないが……。

(先週、名刺交換をしておけば良かったな)

 翔の所属する部署を探ったとき、蛍は思う。

 そうすれば、こんな犯罪まがいの行為をしなくても済んだのに……。

 蛍は通勤用の着替えを済ませるとエレベーターで階を上がり、営業三課に向かう。

 が、営業フロアの前で足が止まる。

 けれども蛍は無理に足を動かし、三課のあるフロア内に入り、翔を探す。

 すると翔の方が先に蛍を認め、

「蛍さん、こっち、こっち……」

 声をかけてくる。

 それから思い出したように、

「華野さん、こっち、こっち……」

 と言い直す。

 蛍には、すでに視線が痛い。

 何、あの女、と思っている社員がいるのだろう。

 それでも可笑しな妨害には遭わず、蛍は無事、翔の机まで……。

「はい、これ、お約束の品……」

 そう言いつつスパイラルノートを開き、翔に紺色の兜を渡す。

 その直前、

(その兜はわたしの恋心。その恋心をあなたに帰し、わたしの恋は終わります)

 呪文のように素早く口の中で唱える。

「ありがとう」

 兜を受け取った翔が蛍に礼を言う。

「それにしても、これ、懐かしいな」

 翔の喜ぶ声を聴いても蛍の胸はまったくキュンとしない。

 蛍の呪文、すなわち自己暗示が有効に働いたのだろうか。

 それとも……。(第一章・終)

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