第二章 もう戻れない 13 睨

「蛍さん、帰るんでしょ」

 蛍を見て翔が言う。

「はい、帰りますけど……」

 蛍が翔に答える。

「じゃ、また一緒に駆りましょうか」

 他意なく翔が蛍に言い、

「あの、ええと……」

 蛍は咄嗟に返答を思い付けず、まごまごする、

「でも、それって他の女子社員に悪いから……」

 だから自分では思ってもいない言訳を蛍は口にしてしまう。

「誰も気にしませんよ」

 笑顔を見せながら翔は蛍に迫るが、

「あの、今日は独りで帰りたくて……」

 蛍が冷たく翔の誘いを断る。

 すると翔が、

「厭なことでもあったんですか」

 蛍を気遣うような言葉を口にする。

「いえ、そんなことは……」

 すぐに蛍は答えたが、

「いや、何かあったでしょう」

 と翔が言い張る。

 あったとすれば、それは蛍の失恋だ。

 が、それを翔に言うわけにはいかない。

 ああ、困ったな、と蛍が内心思っていると、

「それなら一杯飲みに行きませんか。憂さ晴気晴らしに……」

 翔が蛍に、そんな提案を持ちかける。

「いえ、わたし、その……」

 さらに蛍が困っていると。

「女の子を困らせるのは良くないわね」

 いつの間に現れたのか、一人の女子社員が蛍の背後から翔に告げる。

 驚いて蛍が振り向くと、そこにいたのは凄い美人だ。

 蛍ほど若くはないが三十歳にはまだ間がある感じの……。

 妙齢の美人社員といったところか。

「営業三課の三田村玲子です。あなたが噂の華野蛍さんね」

 美人社員が自己紹介し、蛍には意味不明の一言を付け加える。

「噂の……」

 蛍が問いかけるともなく三田村玲子に問うと、 

「そう、今週の頭から……。見ていた人がいたのよ」

 玲子にそう言われても蛍にはまだピンと来ない。

「山口くんとあなたが仲良く電車で帰るところをね」

「はあ……」

「きっと。羨ましかったんだろうね」

「……」

「だって、山口くんは他の女性社員には冷たいから……」

「……」

「同じ課だから山口くんのことは入社して以来ずっと見続けているけど、この会社の女子社員で冷たくされていないのは、蛍さん、たぶん、あなただけよ」

「いえ、そんなことないです」

 咄嗟に蛍が玲子の言葉を否定する。

 一方、翔の方も、

「三田村先輩、オレ、特に華野さんを贔屓していませんよ」

 と玲子に反論だ。

 それに対し、

「だったら山口くんが気づいていないだけよ」

 玲子が仄めかすようなことを言う。

 そんな玲子の言葉に翔がどう答えようかと迷っていると、

「まあ、同期で仲良くするのは構わないけど、今の山口くんのままだと蛍さんが虐められるわよ」

 玲子が言い、

「じゃ、わたしはこれで帰るから……」

 すぐに翔の机から離れる。

 残業時間開始時刻にはまだ間があるが、帰宅組はそろそろ帰った方が良い時間だ。

「ともかく帰りましょうか、一緒に電車に乗るかどうかは別にして……」

 椅子に座っている翔が自分の机の近くに立ち尽くす蛍の顔を見上げて言い、

「ええ、そうしましょう」

 蛍がよそよそしい声で翔に答える。

 すぐに翔が椅子から立ち上がり、鞄の中に兜を入れると蛍の身体を押すようにして営業部フロアの外へ……。

 蛍はすでに着替えていたので、そのまま帰ることが可能だ。

 それは翔も同じ。

 先週の金曜日のように蛍と翔が一緒にエレベーターに乗ると他に人がいない。

 が、一階で降りると女子社員が数名、エントランスホールで屯する。

 その場にいた女子社員全員が蛍のことを睨んでいる。

 殺意まではいかないが、単なる嫉妬と呼ぶには鋭過ぎる視線だ。

 だから蛍は彼女たちから何かを言われるだろうと覚悟する。

 が、彼女たちは蛍に何も言わない。

 ただ、じっと蛍のことを睨んでいるだけだ。

 そのうち彼女たちの一人が踵を返し、エントランスに向かい、歩き始める。

 すると残りの彼女たちもクルリと半回転し、エントランスに向かう。

 一人、一人と社屋の外に去って行く。

「何だったんだ、今のは……」

 唖然とした様子で翔が誰にともなく問うと、

「翔くんの冷たい態度に対する無言の抗議よ」

 蛍が感情を押し殺した声で翔を悟す。

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