39 揺

 が、蛍の心は揺れている。

 翔のことは諦める。

 その決心は変わらない。

 が、何故だかはわからないが、自分の気持ちを翔に伝えたい。

 そう思うようになったのだ。

 告げても叶う恋ではない、と知りながら……。

 迷惑なだけの行為なのだ、と知りながら……。

 翔に対しても、健斗に対しても、実際に迷惑な行為だ、と知りながら……。。

 翔が直接の被害者で、健斗が間接の被害者か。

 翔に気持ちを告げるのなら、まず先に健斗に自分の翔への気持ちについて話さなければならない。

 自分が翔に振られるのが確実で、また自分(と翔)さえ黙っていれば、健斗にも、他の誰にも告白を知られることがないにしても……。

 健斗と過ごす、その先の歳月が何事もなかったかのように過ぎ去るにしても……。

 が、それは卑怯だ、と蛍は心から考える。

 健斗に言えば健斗は傷つく。

 健斗に言わなければ健斗は傷つかず、傷つくのは自分だけ。

 けれども健斗に言わないのはルール違反だ。

 健斗に対して申し訳ない。

 が、果たして、それは本当だろうか。

 聞きたくもない話を、わたしが健斗にすることが……。

 自分勝手なだけではないか。

 確かに蛍には、そうも思える。

 けれども、そうは思えない心の部分も確実に存在する。

 たとえ玉砕することがわかっていても健斗に話すのは人間としての礼儀だ。

 蛍は強くそう思う。

 思うと、その先の考えが浮かび上がる。

 健斗が翔への告白に反対したら……。

 そのとき、わたしはいったいどうすれば良いのだろう。

 全然、考えていない。

 実際、蛍はその状況をまるで考えていない。

 健斗に話し、そのまま翔に想いを告げに行く気でいたからだ。

 健斗は反対するだろうか。

 蛍の直感では健斗は告白に反対しない。

 寧ろ、蛍の背を押すような発言をするかもしれない。

 だから蛍は健斗に話し、そのまま翔に想いを告げに行く気でいたのだ。

 けれども常識的に考えれば自分の妻が好きな男に告白しに行くのを夫が許すとは考え難い。

 暴力的な夫なら妻を殴り倒すかもしれない。

 単純な性格の夫なら、それを理由に離婚訴訟を起こすかもしれない。

 その場合、妻が夫に慰謝料を払うのだ。

 弁護士の腕が良ければ妻は一文無しになってしまうかもしれない。

 健斗の場合、そうなる可能性は低い……と蛍は思う。

 が、これまで二十二年の生涯において健斗は蛍を愛し続けたのだ。

 蛍はそれを知っている。

 さらに結婚という形で蛍を手に入れ、その先の生涯もずっと蛍を愛し続けるつもりでいたのだ。

 自惚れではなく、蛍にはそれがわかる。

 華野健斗とは、そういう人間だ。

 けれども蛍の話で健斗が毀れてしまったら……。

 もう、これまでの華野健斗と同じ人間ではなくなってしまったら……。

 蛍は、その可能性は薄いと思う。

 健斗はそんなに軟な人間じゃない。

 それを良く知っている蛍だ。

 が、人間は理屈ではないのだ。

 まさかの善人が罪を犯すことがあれば、二十歳を過ぎてから恋に落ちることもある。

 そう、わたしのように……。

 わたしは今毀れた状態だ。

 内容は逆だが、それと同じことが健斗に起こらないとは言い切れない。

 健斗はわたしを殴るだろうか。

 それともナイフで突き刺すだろうか。

 小説や映画でしか知らないが愛は一瞬で憎しみに変わる。

 愛が深ければ深いほど変わった憎しみも大きいのだ。

 健斗の、わたしに対する愛は深い。

 わたしは、そのことを知っている。

 そこまで考え、蛍は立場を逆転させた場合を想定する。

 健斗に想い人がおり、振られるのが確実でも想いを告げたい人がいる、と話されたら、わたしは……。

 蛍は暫く考え、結論を出す。

 驚き、呆気に取られるだろうが、わたしは健斗の肩を押すだろう。

 それ以外の反応をする自分が蛍には見えてこない。

 が、それは今現在、山口翔に恋し、自分の心の中で健斗の存在が小さくなっているから、そう見えるのかもしれない。

 あるいは自分自身の願望だろうか。

 健斗には肩を押してもらいたい、という……。

 我儘だが、健斗にはわたしの心変わりを受け止め、さらに想いを後押ししてもらいたい。

 そんな格好良い健斗が見たい。

 虫の良い話だ。

 虫が良過ぎて涙が溢れてしまう。

 ああ、今わかった……わたしは健斗を愛している。

 その愛は妻の夫に対する愛ではないかもしれないが、わたしには尊い。

 健斗が尊いのだ。

 わたしが健斗のことを尊いと思えるから、山口翔に告白し、玉砕しても健斗の許に戻れる。

 そのとき健斗がわたしを受け入れてくれなければ健斗の許を去るだけだが、もしも受け入れてくれるなら、その先の生涯わたしは健斗を愛し続けるだろう。

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