57 心

「そろそろ帰ろうか」

 夜も十時近くなってきたので葵が蛍と翔に声を提案する。

 大人の時間として遅いとは言えないが、葵以外は伴侶がいる。

「そうだね……」

 蛍も同意するが声が暗い。

 帰りは翔と一緒だが、家に帰れば健斗がいる。

 だから気が沈む。

 わたしって最低な女だ。

 蛍は思うが、どうにもできない。

 健斗のことは好きだが、翔のことをもっとずっと好きだからだ。

 いずれ翔を忘れるにせよ、現時点で自分の気持ちは変わらない。

「じゃ、歩さん、またいずれ……」

 それぞれが会計を済ませ、『candle ladys』を後にする。

 暖秋(?)で風がないので寒くはないが、季節はもうじき冬となる。

 師走が終われば正月だ。

 結婚して初めて、蛍は実家と健斗の家に年始回りに行くことになる。

 翔の妻の実家が何処にあるのか知らないが、やはり年始回りをするのだろうか。

 蛍が翔の家族に思いを馳せる。

 すると胸がズキリを痛む。

 今にして思えば胸キュンの頃が懐かしい。

 翔のことを想うと今ではただ胸が痛いだけだ。

「ここまで早かったね」

 そんな自分の想いを拭い去るように蛍が口にすると、

「本当。会社に入ってから、あっ、と言う間……」

 すかさず翔が応じてくる。

 葵は最初、蛍が言った意味が一択できなかったので、かなり悔しい。

 いや、悔しいではなく、胸が痛む。

 あたし、何やってんだろ……。

 それが葵の正直な気持ちだ。

 蛍のことを想い切れていない。

 けれども蛍のことを今以上に遠い存在にしようと画策している。

 単に成り行きが見たいだけだから……、歩さんにはそう言ったが実は違う。

 翔の奥さんには気の毒だが蛍と翔を結び付けたい。

 葵は本気でそう思っている。

 が、半面、自分がバカだと感じている。

 どうしようもないお人好しだと見做している。

 では、どう振る舞えば、あたしはお人好しではなくなるのだろうか。

 すぐさま葵は考え至る。

 あたしの気持ちを翔くんに言うとか……。

 葵が自分の考えを整理する。

 そうすれば、たとえ翔くんが自分の気持ちに気づいたところで、あたしに遠慮し、蛍との距離を置こうとするだろう。

 そうなれば、きっと蛍が泣くから、あたしが慰める機会も生じる。

 何度も慰めていれば、万に一つの可能性だってあるかもしれない。

 蛍の気持ちがあたしに向くことだってあるかもしれない。

 いくら想い切ろうと決心したところで、自分が好きな相手が理由もわからず自分を避ければ不安が募る。

 心が弱るのだ。

 もしも、そんなときに温かい言葉をかけ、一緒に悲しんでくれ友だちがいれば……。

 もしかして、もしかすれば、その友だちが同性でも好きになる可能性があるかもしれない。

 もちろん恋人として……。

 自分が一番大好きな人として……。

 そこまで妄想し、葵は自分の頭をコツンと叩く。

 すぐ隣で折り紙の話をして盛り上がる、好きな人と、好きな人が好きな人の姿を眺め遣る。

 物凄く切ない。

 でも、ここで泣くわけにはいかない。

 それに今夜のこの状況は自業自得だ。

 厭がる蛍を無理矢理呑みに誘い、偶然だが、翔を呑み仲間に加えてしまう。

 偶然以外は自分のせいだ。

 自分で自分を悲しませる状況を作ったのだ。

 左隣を盗み見ると屈託のない蛍と翔の笑顔がある。

 葵には苦しむ蛍の内面が見えるが、屈託のない蛍の笑顔もまた本物なのだ。

 好きな人が好きだという顔を蛍が好きな人に向けている。

 この先続くだろう現実が悲しくとも今は本当に幸せそうだ。

 ただ翔と話せるということだけで……。

 そんな蛍に葵はフッと溜息を吐くしかない。

 やがて地下鉄駅に着き、まだ混んでいる車輛に乗り込むと蛍が問う。

「葵、静かだね。もしかして酔っちゃたとか」

「あれくらいで酔うはずねーだろ」

「だって……」

「ちょっと邪魔ができない雰囲気があったからさ」

 葵が掠れ声で指摘する。

 すると息を飲み、蛍が葵に謝る。

「ごめん、葵……。葵の気持ちに気づかないで……」

「蛍、何言ってんだよ。あたしはもう平気だから……」

 口では言うが、葵は全然平気じゃない。

 危うく涙が溢れそうになる。。

「もうじき邪魔者は消えるからさ」

 葵が地下鉄車両の電光掲示版に目を向ける。

 乗り換えのターミナル駅まで、あと五駅だ。

「そうしたら暫く二人の時間だよ」

 嫌味な口調にならないように気をつけながら葵が言う。

 直後、葵が蛍に抱き締められる。

(ごめんね、葵……。本当にごめん……)

 口にはしないが葵には蛍の心がわかる。

 さらにぎゅっと蛍に抱きしめられ、葵の胸がキュンと鳴る。

 ついでズキリと痛くなる。

 が、葵はその身を刺す痛さを愛おしく感じている。

 自分が好きになった相手が蛍で良かった、と本心から想いながら……。

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