23 優

「ただいま」

 電車に揺られ、さらに夜道を歩き、ようやく自分の家に帰り着いた蛍が言う。

「おかえり。おれが想像してたより早かったね」

 キッチンに顔を覗かせると健斗が言う。

「ごめんなさい。急で……」

「食べてはきたんだろうけど何か食べる、それとも飲む……」

「じゃ、お茶が飲みたい」

「さっそく入れるから着替えてくれば……」

「ありがとう。そうする……」

 蛍がキッチンを出、寝室に入る。

 その前にコートを廊下のハンガーにかける。

 脱いだコートには除菌消臭剤を手早くかける。

 蛍が着替え終え、キッチンに戻ると、

「愉しんできたかい」

 健斗が問う。

 少し考えた末、蛍は、

「少し複雑……」

 と健斗に答える。

 蛍が健斗の顔を見るとにこやかだ。

 健斗の笑顔が蛍の心を苦しめる。

「おや、泣いた痕があるな」

 不意に気づき、健斗が言う。

「おれの蛍を泣かせるなんて困った友だちだ」

 少し怒ったように健斗が言うので、

「いや、あの、これは……」

 蛍はすべてを健斗に話してしまいたくなる。

 が、ここは我慢だ。

 健斗を傷つけ、自分だけ楽になるのは避けなければならない。

 もし葵が、あのとき急にわたしの頭に浮かんだ考えを否定してくれなければ、わたしは今、健斗に自分の失恋を語っていたのだろう。

 そう思うと、ぞっとする。

 ありがとう、葵……。

 何だか今日、葵と本当の友だちになれたような気がする。

 まあ、恋人になるのは、ちょっと無理だろうけど……。

 蛍が心でそう考えていると、

「きみは優しいからな。人の気持ちを汲むっていうか……」

 蛍には思いがけないことを健斗が言う。

「えーっ、そんなことないけど」

 蛍は否定するが、

「しかも自覚がないんだな、これが……」

 健斗が愉しそうに、そう続ける。

 少しにやにやしながら蛍の顔を覗き込み、

「今夜、告られたんじゃないの」

 と健斗。

「……」

 蛍は咄嗟に言葉が継げない。

 思わず目を見開き、驚いた表情を浮かべる。

「健斗、どうして……」

 ついで蛍は口にするが、どう続けようかと惑ってしまう。

 暫らくして最終的に出たのが、

「どうして、そう思ったの」

 という言葉。

 その直後、いや、ここは葵のために黙っているべきだったか、と思い返すが、もう遅い。

「おれが蛍のことを好きだからさ」

 健斗がさらりと理由を述べる。

 健斗が言うと気障にならない。

 蛍は、それが事実だと知っているから……。

 でも、答の意味がわからない。

「健斗が葵に会ったのは、たったの二回で、しかも一回は一分も話してないのに……、」

 驚きつつ答を探しながら蛍が健斗に言うと、

「最後に中村さんに会ったのは偶然で街中だったけど、おれと同じ目をしていると思ったんだよ」

「それが……」

「蛍を見る目つきだよ」

「だって、わたしには全然わからなくて……」

「きみはそういう人だからね」

「鈍感ってこと……」

「蛍の魅力の一つだよ」

「バカにされてるとしか思えないよ」

「おれが蛍をバカにするわけないだろう」

「まあ、それはそうなんだけどさ」

「今頃泣いているのかな、中村さん……」

 健斗がそう言った瞬間、蛍の目に涙が溢れる。

 それを見た健斗が優しく蛍に言う。

「中村さんのために泣いているんだね」

 うん、だけど、それだけじゃない。

 蛍は思うが言葉にできない。

 いや、言葉にすると危ない。

 涙で緩んだ自分の口が何を言い出すか、わからない。

 それにたった一語でも翔くんと関連することを口にしてしまえば、すべてが繋がり流れだすに違いない。

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