2 恋
「ハックション」
華野蛍の夫、健斗(けんと)が家でくしゃみをする。
「誰かがおれの噂をしているな」
独り言を言い、情けない表情を見せる。
蛍は、もう帰ってこないんじゃないだろうか。
思いたくはないが、そう思ってしまう。
いや、待て、向こうだって大人だ。
蛍のことを軽くあしらってくれるだろう。
期待はするが、それで気持ちが収まるわけではない。
山口翔が蛍を振ったところで蛍の気持ちは変わらない。
いや、蛍は自らの想いを断ち切ろうと努めるだろうが、おそらくそれは叶わない。
幼い頃から蛍の傍にいる健斗には、そのことがわかる。
わかるだけに健斗は気が気ではない。
蛍はまだ恋をしたことがないのだ。
珍しいと言えば超稀少生物かもしれない。
健斗はそのことを知っている。
知っているというよりは確信している。
そんな確信などしたくないのだが……。
蛍は、健斗のことを嫌いではないだろう。
結婚までしたくらいだから当然だ。
が、愛してはいない。
蛍がもし愛が何であるかを理解していたとすれば健斗のプロポーズに躊躇いを見せたはずだ。
けれども実際には、蛍は驚きはしたものの、すぐに健斗に答を返している。
『こんな、わたしで良ければ、よろしくお願いします』
と笑顔で……。
蛍や健斗の親たちを含め、学生時代の仲間たちは皆、将来二人が結婚するだろうと信じている。
蛍と健斗の仲がすごく良かったからだ。
つまらないことで喧嘩をしても、すぐに仲直りをする。
悪いと思えば、どちらも自分から相手のいる場所まで謝りに行く。
そんな二人の関係が周囲の者たちに二人の結婚を確信させたのだ。
蛍と健斗が将来結婚する。
初め、それは周囲の者たちの考えだったはずだ。
が、やがて蛍自身に伝染する。
自分は将来健斗と結婚するのだ、と蛍が思うようになる。
段々と強く……。
蛍が無意識に健斗との結婚を受け入れたのだ。
その後、蛍が誰かに心惹かれれば事情は変わっていただろう。
が、偶然にも、そんな相手が現れない。
だから蛍は健斗と結婚したのだ。
蛍が内心、将来健斗と結婚するのだ、と思っていることを当然健斗は気づいていたから早期の結婚を画策する。
けれども学生結婚は生活的に無理だと判断し、大学卒業後すぐの結婚を健斗は目指す。
当然のように前提は二人の就職先が決まることだ。
学生にとって就職難の時代ではあったが、高望みをしない二人は比較的早く就職が決まる。
高望みをしなかったのが逆に良かったのか、どちらも上場企業(ただし上場先に差はあるが……)に就職する。
大学を卒業し、それぞれの企業に就職するまでの間に結婚式。
だから優雅な新婚旅行には行っていない。
将来的に海外旅行を愉しもうという約束を健斗が蛍と交わし、先送りだ。
けれども蛍は、そのことに文句を言ったりしない。
『時間とお金がないから当然だよね』
明るく健斗に言ったものだ。
子供の頃から蛍に一途だった健斗は他の女性と付き合ったことがない。
だから新婚初夜は大変なことになってしまうが何とかそれも乗り切っている。
幸せな夫婦が誕生したのだ。
会社に入った健斗は慣れない仕事を覚えるのに苦労するが、家に帰れば蛍がいると思えば苦にならない。
だから仕事の都合で蛍の帰りが遅くなったときには、とても辛い。
蛍が地方支社に出向き、一泊したときには、本当に寂しさで死にそうになる。
ホテルに落ち着いてから蛍が電話をかけてくれなければ、泣いていたかもしれない。
男として、いや人間として情けないが、それくらい健斗は蛍が好きなのだ。
その蛍が山口翔に惚れてしまう。
蛍自身、最初は自分が恋に落ちたことに戸惑っていたから健斗も簡単には気づけない。
けれども恋する女の気持ちはわかるものだ。
健斗は蛍の恋に気づいてしまう。
そのときには、まだ蛍の恋の相手が山口翔だと健斗は知らないが……。
後に蛍から告白されて知ったとき、何でアイツなんだ、と健斗は頭を抱える。
山口翔は健斗が中学から高校時代まで通ったサッカークラブの知り合いなのだ。
地元に適当なサッカークラブがなく、電車で三十分ほど離れた地域のクラブに健斗は通う。
練習試合を蛍が見に来たことはあるが、山口翔は家庭の事情で休んでいる。
山口翔の休みは多く、やがてクラブを辞めてしまったほどだ。
詳しい事情は聞かなかったが、家庭内に問題があったのかもしれない。
健斗と山口翔は、馬が合うのか、出会ってすぐに友だちになる。
クラブでは仲良く過ごしたものだ。
山口翔が女性にモテたから、翔が練習に来たときは大勢の女性がクラブに集まる。
が、当時、彼女がいた山口翔に言い寄る強者(つわもの)は少なかったようだ。
あの当時の彼女と山口翔は結婚している。
旧姓は相沢夏海(あいざわ・なつみ)。
今では作家だ。
まだ一般には名を知られていないが、編集者や掲載誌読者の評価は高いらしい。
健斗は山口翔と共通の知り合いから、そんな話を聞き、へえ、と感心したことを思い出す。
山口翔が悪い男ではないだけに健斗の心情は複雑に揺れる。
肉体的に、山口翔に蛍を取られることがないにせよ、心が奪われては同じことだ。
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