29 遭
「あら、いらっしゃい」
『candle ladys』の歩さんが葵に言う。
「どうかしたの、元気ないじゃない」
「やっぱりそう見えますか」
葵が答える。
「何度味わっても失恋は辛い。まあ、それだけです」
「じゃ、終わりということでXYZでも飲む……。お好きでしょ」
「ははは……。相変わらず、歩さん、冗談きついですね」
「ならば、スプモーニにする。泡立つ、っていう意味だけど……」
「心が泡立つ、ってことですか。他には……」
「狩猟場で流れ弾に当たって亡くなった恋人の名前を持つマルガリータとか……」
「ずいぶんとドラマチックですね。だけど、そんな名前のカクテルが広まったら次の恋ができなくなりそう」
「まあ、その通りね」
「他にもありますか」
「名前だったら、アドニス・カクテルとか……」
「今度はギリシャ神話ですか」
「知ってるの」
「一応。普通はアドーニスですよね。二人の女神に愛された人間の少年。だけど狩りの最中、猪に殺される。その猪は嫉妬した女神の恋人が化けたもの……。失恋というよりは死によるお別れですね」
「じゃ、カクテル言葉にしましょうか」
「ああ、花言葉みたいな……。」
「アドニスで思い出したけど、遠い人を想う、または、長いお別れ、がカクテル言葉なのがギムレット」
「へえ、ギムレットに、そんな意味があったんですか。知らなかった……」
「殆どの人が知らないんじゃないかな」
「カクテル言葉自体が有名じゃないですからね」
「慰めて、が、テキーラ・サンセット。振り向いてください、が、アプリコットフィズ。最高のめぐり逢い、または、陶酔、が、キール」
「いろいろあるんですね」
「恋を占う、が、雪国。戸惑い、が、ウィスキーミスト。もしも願いが叶うなら、が、マウントフジ。恋する胸の痛み、が、カカオフィズ。私を覚えていて、が、バイオレットフィズ。臆病、が、カルーアミルク……」
「それって、あたしのことかな」
「で、最初にお勧めしたXYZが、永遠にあなたのもの」
「じゃ、XYZを……」
「畏まりました」
歩さんが葵に言い、XYZを作り始める。
ラム、コアントロー、レモンジュースをシェークし、容量七五から九〇ミリリットルのカクテル・グラスに注げば完成というシンプルな一品だ。
レモン・ジュースは、その場で絞る。
「はい、お待ちどう様」
歩さんが葵の前にXYZをそっと置く。
「いただきます」
葵がカクテルグラスに口をつけると『candle ladys』に新しい客が入ってくる。
三人連れで男二人に女一人。
「えーっ、打ち合わせ場所ってショット・バーだったんですか」
女は相沢夏海だ。
山口翔の妻で新人作家兼会社員。
だから定時で会社を終え、担当編集の吉田次郎からのメールに従い、『candle ladys』最寄駅の改札まで出向いたところを吉田に店まで連れられたのだ。
「まあ、偶にはいいでしょ」
吉田次郎が言い、もう一人の男、自分より年配者に目を向ける。
年配者の名は大室宗臣(おおむろ・むねおみ)。
吉田と同じ雑誌編集者だが、会社が違う。
「相沢さん、この人が大室さん。K社、雑誌Gの編集者」
吉田が大室に夏海を紹介する。
「で、大室さん、こちらが相沢夏海さんです」
ついで逆紹介だ。
「よろしく」
大室が夏海に手を差し伸べる。
「いえ、こちらこそ宜しくお願いします」
夏海も右手を差し出し、大室の握手に応える。
「だが、いいのか、吉田さん。自分の会社の新人作家を他社の雑誌編集者に紹介して……」
大室が当然の疑問を吉田に打つける。
夏海も自分が会わされた相手を知り、同じ疑問を抱いていたところだ。
因みに吉田と大室は同じW大学先輩後輩の間柄。
一年間だけ同じ文学クラブに所属した時期もある。
「単に早めに紹介しているだけですよ。相沢さんは、やがて売れる。そのときに可愛がってもらえるようにと思いまして……」
吉田が言うと、
「では、そういうことにしておきましょう」
大室が鷹揚に吉田に答える。
夏海には意味が掴めない。
ついで吉田が上機嫌で、
「大室さん、相沢さん、互いの詳しい紹介は後にして、さあ、飲みましょう。大室さんは何がよろしいですか」
と続け、注文を取りに来たバイトの青年から受け取ったメニューを大室に渡す。
夏海はいつもと様子が違う吉田の姿に戸惑いながら、少し長くなるかもしれない、と予感する。
だからタイミングを見計らい、トイレに立ち、翔に、今夜は遅くなる、と連絡しておこうと考える。
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