43 選

「あのね、翔くん、一つ聞いてもいい」

 漸く声が出るようになると蛍が翔に問う。

 自分のことは何も翔に話さないくせに翔に質問する自分を蛍は自分勝手と思うが口が勝手に動く。

「今の人は誰なの……」

 単刀直入な質問だ。

 翔は暫く考えた末、

「えっと、新人作家の相沢夏海さん」

 と答える。

 咄嗟に蛍は、夏海さん……ってことはもしかして翔くんの奥さんじゃない人、と思うが、翔からそれ以上の説明はない。

「そうなんだ」

 だから蛍も、そう返すしかない。

 蛍が続けて、

「翔くんって知り合いが多いんだね」

 愛想を振り撒くように翔に言うと。

「そんなことはないよ」

 翔からの返事はあっさりしたものだ。

「それに綺麗な人だよね」

「まあ、そうかな」

「わたし、今の人の本を読んでみたい」

「まだ単行本は出ていないんだ」

「あっ、そう」

「今書いているのが四作目。でも次に雑誌に載るのは二作目だったはず……」

「詳しいのね」

「まあ、いろいろとあってね」

「まさかの翔くんの奥さんとか……」

「……」

 翔の無言に蛍の胸がズキンと痛む。

「本当に綺麗な人だね」

 翔に言いつつ蛍の胸が痛み続ける。

 急に顔つきが暗くなってきた蛍に向かい、

「ここに来た用事は何か知らないけど、蛍さん、もう帰った方が良いんじゃない」

 翔が蛍に言う。

 蛍は首肯き、

「うん。実は用事はもう終わっているんだ。でもちょっと疲れたんで休んでいただけ……」

 吐かなくても良い嘘を蛍は翔に吐く。

「調子が悪いなら送って行くよ」

「いや、全然、大丈夫……」

「じゃ、駅まででも……」

「……って、すぐそこじゃん」

「確かに……」

 そう言い、翔が蛍に笑いかける。

 すると条件反射のように蛍の胸がキュンと鳴る。

 パブロフの犬だ。

 蛍は思うがどうにもならない。

 事実として、そうなってしまうのならば……。

「じゃ、帰ります」

 蛍が言い、最後のコーヒーをゆっくりと飲み干す。

 冷えたコーヒーの苦い味が蛍の舌に残る。

「じゃ、オレも……」

 これまでずっと一緒に話をしていた友だちのように翔が蛍に言い、席を立つ。

 会計で互いに自分の分を払い、『一日』の外に出る。

「約束だから駅まで送るよ」

「ありがとう」

 店を出て約三十秒後に駅に着く。

「もう着いちゃったね」

「あはは……。そうだね」

「じゃ、気をつけて……」

「うん、翔くんもね」

 互いに小さく手を振り、別れを惜しむ。

 すると、どういった気紛れか、翔が蛍に一歩近づいて言う。

「さっきオレが蛍さんに言った言葉、あれ、小説の中にあった言葉……」

「女の子にはいろいろある……っていう、あれのこと」

「うん。それに、土足で云々、のところも……」

「そうなんだ」

「オレさ、女の子に気の利いたこと言えないから……。借りてきた言葉で、ごめん」

「ううん、そんなことないよ。小説から借りて来たんじゃなくて翔くんが選んだんでしょ」

 蛍の言葉に翔の顔がほっこりする。

「だから、わたしは嬉しい」

「そう言ってくれると助かるよ。じゃあ、また明日……」

「うん。じゃあ、また明日……」

 翔が言うので、嫌々ながら蛍も翔に別れを告げる。

 改札を抜け、蛍は一度翔を振り返るが、翔は振り返らない。

 が、蛍がガッカリして前を向いたとき、翔が蛍を振り返る。

 暫くし、蛍がまた翔を振り返るが、そのときには翔が蛍に背中を見せている。

 が、その直後、翔が蛍に振り向く。

 けれども蛍は気づかない。

 すでに前を向き、歩き始めてしまったから……。

 蛍が階段を昇り、ホームに立ち、電車を待つ。

 夜の風を受け、ホームに立ち尽くすと突然、不安になってくる。

 この世に自分一人しかいない、という想いに囚われたからだ。

 が、駅のホームを見渡せば大勢の人がいる。

 こんな時間に、この駅にいたことがない蛍には誰一人見知らぬ顔だが、それでも人が大勢いる。

 やがて電車が来ると、その中にも沢山の人がいる。

 帰宅ラッシュ時なのか、偶々なのか、随分と人数が多い。

 蛍は生まれて初めて、混んでいる電車も悪くない、とそのときに思う。

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