53 蓋

「別にいいじゃない」

 葵が蛍を言い含める。

「全員、事情を知っているわけだし……」

「事情って、それ、もしかして……」

 翔が問うので、

「そう、昨晩のこと」

 葵がサラリと言ってのける。

「まいったな。蛍さん、喋っちゃたんだ」

「翔くん、ごめん、つい……」

「中村さんが親友なのはわかるけど、女の子って、これだからわからない」

 翔には本当にわからないようだ。

 目を白黒させ、考え込んでいる。

「話せば楽になることもあるんだよ」

 今度は翔を葵が言い含める。

「しかし翔くんもどんな神経をしてるんだか」

 もう一度呆れ、葵が翔をじっと見る。

 自分の好みではないが客観的にイケメンだ。

 さすがに葵はそう認めざる得ない。

「じゃ、行くから……」

 葵がさっさとキリシマ・インスツルメンツのエントランスから出、夕暮れの街に溶け込んで行く。

 それを蛍と翔が追う。

「蛍さんと恋人みたいに付き合うことはできないけど、友だちとして呑みに行っても構わないでしょ」

 速足になった葵を追いかけながら翔が蛍に説明する。

「ああ、うん、ありがとう」

 蛍にはそう答えるのが精一杯だ。

 胸の中では、翔くんへの想いを消さなきゃ、消さなきゃ、、消さなきゃ、と呪文のように唱えている。

 そんな新入社員三人をキリシマ・インスツルメンツ本社の三階の窓から三田村玲子が眺めている。

「葵―っ、足が速いよ」

 最速の速足で地下鉄駅に向かう葵に蛍が抗議の言葉を投げる。

 ついで、まさか、またいなくなる気じゃないのか、と考え、あのときのことを思い出す。

 翔と二人での翔の甥の山口純への折り紙の教え方を話した、あの夜だ。

 あのとき葵はわたしに気を遣ったのだろう、と蛍は思う。

 考えてみれば、わたしは葵に気遣われてばかりいる。

 自分に対する葵の気持ちを知り、それには応えられないと返事をした仲だというのに……。

 が、蛍の想いは取り越し苦労だったようだ。

 地下鉄駅に着くと葵がいる。

「遅っ―い」

 笑いながらだが蛍と翔にぶう垂れる。

「もう、そんなに急がなくてもいいじゃない」

 蛍が言うと、

「ちょっと耳を貸して……」

 葵が蛍を自分の方へと引き寄せる。

「アンタたちを試してみたくなってさ」

 蛍の耳に葵の小声が聞こえてくる。

「あたしが見えなくなったら、何処かにいなくなったことにして、アンタたちが別行動を取ったら面白いか、と……」

「どういう意味……」

 今度は葵の耳に蛍の小声が届く。

「わたしがそんなことをするわけないでしょ」

「いや、翔くんの方……」

 順番に耳と口を入れ代え、内緒話をする蛍と葵を翔は珍しい生き物を見るような目で見つめている。

 時間的にはラッシュ時だが、不思議と三人が誰の邪魔にもならずに立っている。

 その構図に気づけば、人は一幅の絵だと感じるかもしれない。

「翔くん、実は蛍のことを好きになりかけてるんじゃないかと思って……」

 葵の推測に、

「うそっ」

 と蛍が目を見開く。

「いや、単なるあたしの勘だけど……。でも翔くんは自分の気持ちに気づいてないね」 

 葵のその言葉で一幅の絵が崩れ去る。

 蛍と葵が人の群れに呑まれ、翔が慌てて二人を守りに走る。

「とにかく人の流れに乗らないと……」

 二人の背を押し、加速させ、一気に改札へと向かわせる。

「翔くん、まるで、お母さんみたい……」

 咄嗟の翔の行動に思わず蛍が口走る。

「あはは……」

 すると葵が同意し、

「オレはアンタらのおかーさんじゃねーから……」

 翔が小声で否定する。

 小声だったのは、もしかしたら翔が恥ずかしがっていたせいかもしれない。

 それから先は人の流れに乗り、地下鉄を乗り継ぎ、目的駅まで……。

 洋食屋『燐家』で食事を摂り、ついでショトバー『candle ladys』に向かう。

「こんばんは……」

 慣れた口調で葵が歩さんに挨拶し、

「今日はイケメンを連れて来ました」

 と翔を紹介する。

「おや、蛍さん、いらっしゃい」

 マスターの歩さんが蛍に笑顔を向け、

「あら、確かにイケメンさんだわ」

 翔の方を見、そう続ける。

「……でしょ。山口翔くんです。帆翔(はんしょう)の『翔』です。以後宜しく」

「翔くんね。以後宜しく」

 歩さんが翔に挨拶し、

「確かに風に乗って飛んで行きそうかな(帆翔は鳥が翼をひろげたまま風に乗って飛ぶことを意味する)」

 と続ける。

「いや、オレ、そんなに格好良くないですから……」

 翔が真顔で歩さんに応え、

「それにオレが自分でつけた名前でもありません」

 と遥か昔に自分が紡いだ言葉を口にする。

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