17 幻

「えっ、うそ……」

 葵がまたもやびっくりする。

 すると歩さんが葵に言う。

「本当よ。別に隠してないし……」

 蛍のことをじっと見つめ、 

「服装倒錯(トランスヴェスタイト)っていってね。初めは女性用の洋服を着るだけだったんだけど、そのうち化粧まで始めて声もそれっぽく近づけて……」

 歩さんがする話に蛍は目をまわすことしかできない。

「気づいたら見かけが女に変わってたわけ」

「そうなんですか」

「でも、MTF(Male to Femaleの略)じゃないから心は男のまま。だから付き合うのは、こんな私でも好いっていう女性だけ……」

「数が少なそうですね」

「そうでもないけど大量じゃないわね。で、ご注文はファンタスティック•レマンで良いのかな」

 歩さんが蛍に問い、

「それで、お願いします」

 蛍が歩さんに答える。

 けれども歩さんは葵の注文したサムライロックから作り始める。

 日本酒/四五ミリリットル、ライムジュース/一五ミリリットル、それと氷だけの簡単なレシピだ。

 が、簡単なだけにバーテンダーの腕が問われる。

 まずスクイザーを使い、歩さんがライムジュースを作る。

 ついで氷を入れたグラスに歩さんが日本酒とライムジュースを注ぐ。

 最後に軽くステアし、完成だ。

「お待たせ……」

 と言い、歩さんがついとグラスを葵の前に押し出す。

 ファンタスティック•レマンのレシピは、日本酒/五〇ミリリットル、ホワイト・キュラソー/大さじ二、キルシュ/大さじ一、レモンジュース/小さじ一、トニックウォーター/五〇ミリリットル、ブルー・キュラソー/小さじ二、それとレモンスライスだ。

 まずカクテルシェーカーに氷とレモンジュースを入れ、歩さんが華麗にシェークし、グラスに注ぐ。

 歩さんが選んだグラスは細長いコリンズグラスだ。

 元々はトム・コリンズなどのカクテルを供するためのグラスだが、もちろんファンタスティック•レマンにもぴったりと合う。

 シェイクされた氷とレモンジュースが入ったコリンズグラスに、さらに氷を加え、トニックウォーターで満たす。

 最後にブルーキュラソーを静かに沈めるように加え、グラスの横にマドラーを添える。

 それらを素早いが丁寧な動きで歩さんがこなす。

「さあ、どうぞ……」

 歩さんの手元を見ていた蛍は使用されたトニックウォーターがシュウェップス社のものだと知る。

「ありがとうございます。で、あの、これ、光りますよね」

 蛍が問うが、歩さんにはピンとこないようだ。

「ええと、トニックウォーターには、いろんな会社のものがありますけど、シュウェップス社と他数社のものにはキナ由来の香料が含まれていて、ブラックライトを当てると、それが光るんです」

 蛍が簡単に説明すると、

「へえ。蛍ちゃん、そんなことに詳しいのね」

 歩さんが感心したように蛍に言う。

 トニックウォーターは炭酸水に各種の香草類や柑橘類の果皮エキス及び糖分を加えて調製した清涼飲料水のことだ。

 熱帯地方の英国植民地で保健飲料として飲まれるようになったのが、そもそもの始まり。

トニックウォーターのレシピにキナの樹皮に含まれるアルカロイドの一種、キニーネが含まれていたため、独特の苦みが醸し出され、人気商品となったようだ。

キニーネにマラリア特効薬として効力があったことから保健飲料として飲まれたらしい。

 日本ではキニーネは劇物指定という誤解があるが、これは毒物であるストリキニーネとの混同から生じたようだ。

 規制区分でいえば、キニーネは『処方箋医薬品』でしかない。

 なお薬物としてのキニーネを食品に添加することはできないが、キニーネを主成分とする『キナ抽出物』(実際にトニックウォーターに含まれる成分)は『既存添加物』という枠組で日本では認可されている。

「一度興味を持つと調べる性格の人なんです」

 蛍が歩さんに説明する。

「わたしの名前も関係するのかもしれませんが、蛍光飲料というカテゴリーに興味を持ったとき、二十歳も超えていたのでお酒も飲めるし、いろいろ調べた中にあったんです」

「ふうん。で、他には……」

 歩さんが促す。

「一番有名なのが栄養ドリンク剤ですね。成分のビタミンB2が光るんです」

「へえ、そうなの……。でも、まあお飲みよ」

 歩さんが蛍にファンタスティック•レマンを勧め、

「いただきます」

 蛍がコリンズグラスに手を伸ばし、一口含む。

 途端に、爽やかで仄かに甘い香りが口中に広がる。

 けれども甘いには甘いが、その甘さが引き締まっているというか。

 また見かけとして、グラスの中身は透明なのに底だけ青いのも幻想的だ。

 まさに幻想の湖。

 思わず迷い込んでしまいそうだ。

「適当なところで混ぜないと甘くなり過ぎるわよ」

 蛍の顔を見つめながら歩さんが注意を与え、

「蛍、まったく平気みたいね」

 ライムの酸っぱさと吟醸酒の香りの絶妙なマッチングを味わいながら葵が言う。

 たった数口のお酒で早くも酔ったのか、葵の眼許は赤い。

「本当だ。自分でもびっくり……」

 蛍が葵に言い、

「全部、葵のお陰……。美味しいハンバーグ定食屋さんに連れて行ってくれたり、素敵な歩さんがいるお店に案内してくれた葵のお陰……」

 蛍が葵に感謝する。

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