16 酒
洋食屋の『燐家』と異なり『candle ladys』にはまだ客がいない。
多くの居酒屋が午後五時から店を開けるので、お酒を飲む時間には早い……ということはないが、ショットバーはまた別なのだろう。
「お久し振りね、葵ちゃん」
葵が先に店内に入ったとき、暗いので顔は良く見えないが、ハスキーボイスの女性が言う。
おそらく店長なのだろうが、ショットバーの場合、相当する職種をどう呼ぶのか、蛍は知らない。
それで、マダムだろうか、と考える。
昔読んだ小説だと、例えば『バー』では、店のオーナーがいて、オーナーが選んだマダムいる。
もちろん外食店と同じでオーナー・シェフがいれば、オーナー・マダムもいるだろう。
ショットバーも『バー』の一種だから、それでいいだろうか。
いや、オーナー・バーテンダーもいるのだから、オーナーが女で且つバーテンダーだったらマダムは可笑しい……などと蛍は考える。
答の出ない思考は種々のことを忘れさせてくれるようだ。
「新入社員は忙しいんですよ」
気さくに葵がマダム(?)に返答すると、
「大変ね。で、そちらの方は葵ちゃんの新恋人……」
マダム(?)が葵に言葉を投げる。
「えっ」
蛍が一瞬びっくりすると、
「今のところ、ただの友だちですよ」
と葵。
「まあ、おそらく、この先も同じでしょうけど……」
葵が蛍には謎の言葉を発し続ける。
「じゃ、カミングアウトしに来たわけだ」
「相変わらず、歩あゆみさんは情け容赦ないですね」
「それが良くて時々来るんでしょ」
ああ、アユミさんなのか……と蛍が思い、ついで、
「えっ」
蛍が再度びっくりする。
「いいから、カウンター席においでよ」
歩さんが葵と蛍を手招きする。
「では、お言葉のままに……」
葵がおどけて歩さんに言う。
カウンターテーブル用の丸椅子は男性の背丈に合わせているのか、蛍には少し高い。
蛍より背の低い葵にはかなり高いはずだが、慣れているのか、ヒョイと器用に腰かける。
「よくいらっしゃいました」
カウンター席に落ち着くと蛍の顔を見ながら歩さんが言う。
同時に蛍も歩さんの顔を見るが、髪の長い美人だ。
会社で翔が属す営業三課にいた三田村玲子も美人だったが、『candle ladys』の歩さんは玲子とはタイプが違う。
玲子が聡明で凛としている、やや冷たい感じの美人なら、『candle ladys』の歩さんは魔女を思わせる妖しい美人だろうか。
「あなた、お名前は……」
歩さんが蛍に問い、
「華野蛍です」
蛍が答える。
「可愛い娘ね」
歩さんが今度は葵に言うと、
「もう結婚してますよ」
葵が歩さんに秘密を明かすように答える。
「へえ、そうなんだ。最近の若い人たちは、どっちか、ね。早めに結婚するか、結婚しないか」
「しないか……じゃなくて、出来ない……じゃないですか」
と葵。
「自分が一番可愛くて大事だと思う性格だと、そうなるような気もするわね」
と歩さん。
「で、何をご所望……」
葵と蛍の顔を代わる代わる見つめながら歩さんが問い、蛍に細長いメニューを渡す。
蛍がメニューを開き、覗き込む。
「サムライロックにするかな……」
「へえ、日本酒のカクテルがあるんだ」
葵と蛍が同時に言う。
サムライロックは日本酒とライムジュースからなるカクテルだ。
『candle ladys』に通い慣れているらしい葵は嘗て飲んことがあるのだろう。
蛍がメニューの中から日本酒のカクテルを目で追うと、彩、オレンジブリーゼ、カシス娘といった名が続く。
ついで、燗、キクフィズ、グリーン日本、サケティーニ、サケリーニャ、シルバーシャドー、清流、ソルティグレープフルーツ、撫子なでしこ、春の雪、ファンタスティック•レマン、涼、レッドサンなど……。
リキュールの名称が織り込まれたものは蛍にも見た目と味の想像がつくが、それ以外は謎だ。
「ファンタスティック•レマンの『レマン』って『レマン湖』の『レマン』かしら……」
蛍が呟くと、
「良く知っているわね。その通りよ」
歩さんが蛍に説明する。
「幻想的な湖をイメージして、日本の上田和男さんという方が作ったカクテル。一九八一年にスイスで開催された『世界カクテルフェスティバル』で銀賞を受賞したのよ」
「へえ。湖ということは青色ですよね」
蛍が歩さんに問うと、
「青はブルー・キュラソーから。他には、ホワイト・キュラソー、キルシュ、レモンジュース、トニックウォーター。それにレモンスライス。ああ、もちろん日本酒もね」
「日本酒の種類によって味が変わりそうですね」
「考えた末、ウチは薫酒くんしゅを選んだわ。いわゆるフルーティーな香りのする吟醸酒ね。本来製法の醇酒じゅんしゅから選ぶのも面白そうだったけど、まあ、それは個人の愉しみにして……」
その辺りが歩さんの拘りらしい。
「蛍も歩さんのこと美人だと思うでしょ」
頃合いを見計らったように歩さんと蛍の会話に葵が割って入る。
蛍が、当然でしょ、と言う顔を見せ、葵に首肯くと、
「でも歩さん、実は男なのよ」
葵がさらっと歩さんの正体をバラす。
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