7 離

「玉手箱を開けたかな」

 すると翔が呪文を続ける。

「ああ、そういえば、そんな続きもあったわね」

 蛍が懐かしく思い出す。

 いったい何時から、天の神様の言うとおり、を唱えなくなったのだろう。

「地方ヴァージョンが沢山あるんです。中学のときに夏休みの課題で調べたことがあって……」

「なるほど」

「ほとんど覚えていませんけどね」

「覚えているのを聞かせて……」

「鉄砲撃ってバンバンバン、とか、もーひとつおまけに柿の種、とか、玉手箱があいたかな、とかですね」

「玉手箱があいたかな、があるのか。ふうん……」

「全国的に、柿の種、の出現率が高くって……。それに、天の神様、は、天神様、のヴァージョンも多いんですよ」

「菅原道真公は祟りを恐れられて祭り上げられ、神様になった人だから、霊験あらたか、だよね」

「学問の神様ですけど、プレイボーイでもあったみたいですよ」

「できる男はみんなそうじゃないかな。翔くんだって……」

「蛍さん、オレと道真公を比べないでくださいよ」

「あははは……」

 何でもない翔との会話が蛍には愉しい。

 マズイ、本当に恋に落ちてしまったのだろうか。

 それとも……。

 健斗の顔が不意に蛍の目の裏に浮かぶ。

 が、蛍と翔との会話は途切れなく続き、やがて蛍の降りる駅が近づいてくる。

「翔くん、次だね」

「蛍さんの駅まで送りますよ」

「いや、それでは悪いから……」

「何だったら家まで送りましょうか」

「ダメ、ダメ、ダメ……。そんなの申し訳なさ過ぎるから……。それに、もう駅に着いたよ」

「いいから蛍さんの駅まで送りますよ」

 翔が主張し、電車のドアが閉まってしまう。

 気のせいかも知れないが、まわりの乗客たちから失笑されているように蛍には感じられる。

 一方の翔は明らかに女たちから見つめられている。

 が、気にするふうもない。

 その態度は月曜の朝、会社で見たのと同じだ。

 あのときもそうだったが、現在、翔が関心を持っているのは蛍一人だろう。

 この先、翔が家に帰れば、当然、蛍は忘れられてしまうが、今この一時だけ、翔は蛍のモノだ。

 そう考え、蛍はドキンとする。

 が、それもあと二駅で終わる。

 すると蛍の胸がキュンと鳴る。

 マズイ、マズイ、マズイよ、こんな気持ち……。

 とにかく健斗に申し訳ない。

 咄嗟に思うが、蛍が翔を思う気持ちは変わらない。

 やがて電車が蛍の家の最寄駅に着き、

「蛍さん、着きましたよ」

 翔が蛍に言い、優雅な身のこなしで電車の座席から立ち上がる。

 そんな翔に手を引かれ、蛍も座席から立ち上がる。

 翔の仕種に他意はないが、蛍の胸がもう一度キュンと鳴る。

 が、今は電車を降りることが先決だ。

 多くの降客ととも蛍が翔と電車を降りる。

 すぐにドアが締まることを報せるベルが鳴る。

 が、翔は電車に乗ろうとしない。

「翔くん、ドアが閉まるよ」

「オレは改札まで蛍さんをお見送りします」

 翔が言うので蛍も諦め、歩き始める。

 二人は無言。

 けれども本日最初のときに感じたような、ぎこちない雰囲気はない。

 一気に親友になったような感覚だ。

 二人とも同じ感覚を共有している。

 蛍と翔、二人で黙ったまま階段を降り、改札まで……。

 改札手前で蛍は翔を見上げ、

「翔くん、今日は本当にありがとう」

 翔に言えば、

「オレも蛍さんと一緒に居られて愉しかったですよ」

 翔も蛍に言う。

「じゃ、今夜はこれで……。来週、またお仕事頑張ろうね」

 蛍が翔にそう言ってから急に気づく。

 ココットを折っちゃたから、来週以降、わたしが翔くんに会う口実がない。

 自分で気づいたことだが、その内容に蛍自身が衝撃を受ける。

 いや、いや、いや、いいんだ、いいんだ、いいんだ。

 そもそも、わたしと翔くんは関係ないし、わたしには健斗がいるし、わたしの好みは翔くんじゃないし……。

 が、それがもう過去のことになっている事実に蛍は気づく

 すでに翔は蛍の好みなのだ。

 けれども、もう、偶然以外で蛍は翔に会うことができない。

 せっかく同じ会社にいるという幸運に恵まれたというのに……。

「さっきココットを折って貰いましたけど、来週のリクエストを今からしていいですか」

 そのとき、まさかの翔から発言が蛍を襲う。

「できれば兜を……」

 翔の発言内容に蛍が呆気に取られ、ポカンと口を開ける。

 ついで、まるで恋の告白のような言葉が蛍の口から漏れ出てしまう。

「あの、わたし、翔くんに会いに行っても良いのね」

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