60 前

「先輩、おはようございます」

 キリシマ・インスツルメンツ本社の吹き抜け中二階の廊下に声がする。

 春が訪れ、新入社員が入って来たのだ。

 総務部にも一課と二課に、それぞれ一名ずつが配属される。

 つまり蛍と葵に後輩ができたわけだ。

「おはよう。元気がいいね」

 蛍が声をかけると新入社員がさらに元気良く蛍に告げる。

「あたしの取り柄って元気だけですから……」

 颯爽と総務部フロアに入っていく。

「若いわね」

「何、年寄り染みたことを言ってるのよ」

 蛍の横には葵がいる。

「でもさ、やっと議事録から解放されたね」

「お陰で、会議で発言しながら文章を書けるようになったから、ちょっと惜しい。続けないと腕が鈍るから……」

「蛍はいつも前向きだな」

「だって、そうじゃなきゃ、損でしょ」

「損得勘定かよ、呆れるな」

「……ってこともないけど、できることは叶えたい」

「蛍は何を叶えたいの」

「同人誌で良いから創作折り紙の本を出したいな、って思ってる」

「えっ、じゃ、本気になったんだ」

「でも、まず百種類を考えないと……」

「何処まで進だの……」

「まだ七つ」

「先は長いね」

「だけど諦めなければ必ず叶うから……」

「そう言えば、いきなりベストセラーだから驚いたよ」

「相沢夏海さんの『水に溶け、彷徨う』でしょ。ちっとも売れそうなタイトルじゃないのに……」

「そうね、一見は……」

「でも読んだら、内容を的確に要約してて二度吃驚よ。それに、あんなに綺麗な文章、わたし、初めて読んだ」

「余程、頑張ったんだね」

「だけど、そんなことを微塵も感じさせない。でも、どうして翔くんと離婚したんだろう」

「あたしたちにはわからない深い理由があったんでしょ。長い付き合いだったみたいだから……」

「夏海さん、いずれ、翔くんとのことも書くのかな」

「作家って自己観察が凄いからね。そのままじゃなくても素材にはするんじゃないの」

「あんなにお似合いの二人だったのに……」

「蛍、噂の翔くんが来たよ」

 キリシマ・インスツルメンツの多くの女性社員たちが騒いでいる。

 彼女たちの視線の先には山口翔がいる。

 単に会社に出社しただけだが、注目のされ方が違う。

 が、慣れているから、彼女たちの視線にたじろがない。

 クールに前を見つめ、歩いている。

「一年経ったわね」

 しんみりとした口調で葵が言う。

「今はまだ翔くんが離婚したことを知ってる人が少ないけど、やがて皆に知られるよ。そうすれば……」

「実は葵……」

 蛍が低い声で葵に言う。

「昨日の夜、健斗に離婚して欲しいと言われたんだ」

「何それ、寝耳に水……」

「でさ、理由がちょっと複雑で……。だから、できれば今夜……」

「いいよ。あたしで良ければ話を聞く」

「ああ、良かった」

「それに、あたしも蛍に報告することがあるから……」

「えっ、報告って、まさか……」

「それは今夜のお愉しみ……。おーい、翔くーん」

 葵の声に翔が立ち止まり、中二階を見上げる。

 途端に、葵に女子社員たちの視線が刺さる。

「痛てて……。一年前に蛍に刺さったやつだな。本当に痛いや」

「でしょ」

 エントランスを歩む翔の横には、翔と同じ営業三課の三田村玲子がいる。

 その玲子が蛍と葵がいる中二階を見上げ、笑顔を見せる。

 それに葵がはにかんだ笑顔を返す。

 が、蛍はそのことに気づかない。

 恋に鈍感なところは変わらないのだ。

 だから昨晩、健斗に離婚を切り出されても意味がわからない。

「聞いて欲しいことがあるから……」

 夕食が終わり、蛍をキッチンテーブルに呼び寄せ、健斗が静かに話し始める。

 内容を聞くうち、蛍は徐々に気が遠くなる。

 違う、健斗のせいじゃない、と何度も健斗に言い返す。

 が、健斗の決意は固いようだ。

 初恋を知ったわたしを自分から解放すると主張する。

 健斗が説明した理屈が蛍にわからないわけではない。

 が、おいそれと返事ができる内容でもない。

 だから蛍は返事ができない。

 ただ身体を固くし、じっとしているしかない。

 漸く話を終えると、健斗は、これで最後だから、と蛍をぎゅっと抱きしめる。

 が、それ以上のことを求めない。

 キスさえもしようとしない。

 蛍と健斗は正式な夫婦だ、というのに……。

「蛍、顔が暗いよ」

「……」

「前向きじゃなきゃ、損なんでしょ。だったら、それを実践しないと……。叶う夢も叶わなくなるよ」

 葵に指摘され、蛍が口許を引き締める。

 ついで飛びっきりの笑顔を浮かべ、葵を見る。

 ついで翔を見つめ、くるりと身を翻すと総務部第一課の自分の執務机へと足早に向かう。(第五章・終わり)(了)


 これで終わりです。

 続きを書ける終わり方なので、いつか続編を書くかもしれません(書いていない/飛ばした過去のエピソードもあるので……)。

 そのときにはまた、ご愛読をお願いいたします。

 約十一万語のお話に最後まで付き合っていただき、大変ありがとうございました。

 読者の皆様には、とにかく感謝をいたします。


 葎音

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初恋知らず(恋蛍) り(PN) @ritsune_hayasuki

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