59 和

「どうしたの、翔くん」

 不意に視線を巡らせる翔に蛍が戸惑う。

「いや、誰かに見られているような気がして……」

 が、ホームに知り合いの姿はない。

 山口夏海は既に二人と反対方向に去っている。

 その目には涙が溢れていたが顔つきは凛々しい。

 何かを決断した人間の表情を浮かべている。

「誰かいた……」

「いや、勘違いだったみたい」

「そう」

「うん」

 ひょんなことから華野蛍と山口翔の沈黙が破られる。

 ……と、すぐさま電車が到着する。

「蛍さん、これに乗る。それとも前みたいにホームの端まで歩く……」

 翔が蛍を見ずに問う。

「この乗車位置じゃ、座れないしね。歩こうか」

 蛍が答え、翔を見る。

 その真っ直ぐな蛍の視線に思わず翔がたじろいでしまう。

 同時に胸の辺りに火照りを感じる。

 心臓の鼓動も早くなったようだ。

「オレ、何か、酔ったみたい。やっぱり、座りたいな」

「じゃ、先まで行こう」

 蛍が決め、二人でホームの先端に向かう。

 着けば、既に次発で座ろうとする人たちが並んでいる。

 が、人数的に自分たちも座れるだろうと翔が判断する。

 蛍も同じ判断をするが気持ちは微妙だ。

 疲れてきたから座って帰りたい気はするが、もう一本電車を待ちたいとも願ってしまう。

 そうすれば、たとえ僅かの間でも翔と一緒にいる時間が増えるからだ。

 が、蛍が逡巡するうち次発電車がホームに入る。

 電車が止まれば、人が動き、車内に入らざるを得なくなる。

 二人で空いている席を探し、並んで座る。

「お疲れさま。翔くん、わたしたちの呑み会に付き合わせちゃって、ごめんね」

「いや、オレが蛍さんと中村さんの呑み会に無理矢理参加させて貰っただけだから……」

「それなら良いけど……」

 蛍が言い、僅かに逡巡し、翔に続ける。

「翔くんの奥さん、まだ仕事なのかな」

「ん、どうだろう」

 言われて翔がスマートフォンを鞄から取り出す。

 液晶画面を見れば、夏海からの『修行が終わったから帰る』メールが着信されている。

 洋食屋『燐家』へと向かう道すがら翔は夏海に『今夜は呑み会に参加する』メールを送付している。

 その後、スマートフォンの電源を切ったから夏海からのメールが何時届いたのかわからない。

 それで着信時間を確認すると二十分ほど前だ。

「仕事……っていうか、修行は終わったみたいだよ。時間的に同じ帰りの電車でも可笑しくないかも……」

 翔の言葉に蛍がハッとする。

「じゃ、さっきのは……」

「いや、妻がオレを見つけたなら、ここにいるはずだから違うと思う。それに喫茶店で一息入れているかもしれないし……」

「ふうん、大変だね」

「長年の夢が叶ったんだから、次はそれを大きく育てないと……」

「わたしも応援する」

「うん。蛍さんが応援してくれれば百人力だ」

 そう口にした刹那、翔は胸に痛みを感じる。

 が、まだその正体に気づかない。

「ドアが閉まります。無理なご乗車は、お止め下さい。」

 構内アナウンスが流れ、ドアが閉まり、電車が発進する。

「葵は大丈夫かな」

「そういえば、さっきはどうかしたの……」

「あのね、悪いけど、葵の気持ちにかかわるから翔くんにも言えない」

「わかった。じゃ聞かないから……」

 ついで沈黙が訪れる。

 座われた安心感もあり、蛍はつい眠くなる。

 が、勿体ないので目を抉じ開ける。

 右隣を見上げれば、すぐ近くに翔の顔がある。

 睫毛が長く綺麗な顔だ。

 すると蛍が自分の顔を見上げているのに翔が気づく。

「オレの顔に何かついてる……」

「ええっと、目と鼻と口と耳がついてる」

 咄嗟の蛍の返答に、

「あはは……。蛍さんは面白い人だ」

 蛍を見、翔が屈託なく笑う。

 つられて蛍も、あははは……、と笑う。

「それから長い睫毛がついてる。でも髭はない」

「昔から薄いからね。でも、ないわけじゃないよ。ホラ……」

 翔が蛍に顎を差し出すので、

「失礼します」

 蛍が翔の顎を触る。

 ざらざらといった感じではないが、確かに髭の感触がある。

 それに、これだけ近くにいれば目でも確認できる。

「うん。本当に薄い」

「でしょ。で、髪は猫っ毛……」

 今度は蛍に頭を向ける。

 だから勢いで蛍が翔の髪に触れる。

「あっ、本当だ。細いし、コシやハリがないし、柔らかーい」

「風呂に入った後、きちんと乾かさないと朝絡まるよ」

「わたしもどちらかというと猫っ毛だから、それわかる。触ってみる」

「じゃ、失礼して……」

 自分に向け、蛍が差し出した髪の毛を翔が恐る恐る触る。

 確かに柔らかく腰がない。

 が、ウェーブがある髪質なので、ふんわりとしている。

 その感じが自分と似ている、と翔が思う。

「オレの方が猫かな」

「うん、確かに……」

 そんな他愛無い会話に蛍と翔が互いに和む。

 ほんの短い時間だが、二人でこのまま和んでいたい、と蛍と翔が同時に思う。

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