15 食

 蛍が葵に連れてこられたのはショットバーだ。

 地下鉄に乗り、暫く揺られ、やがて降り、ついで改札を抜け、歩いて五分ほど……。

 旧い雑居ビルの地階にある『candle ladys』という名の店だ。

 が、その店に入る前、蛍は食事に誘われる。

「食べずに飲むと引っ繰り返るからね」

 葵が蛍に説明し、『candle ladys』に至る道筋の途中にある『隣家(となりや)』という名の洋食屋に入っていく。

「おお、久し振り……」

 店に入るなりコック兼任の店長らしい背の高い中年男が葵に声をかける。

 葵と店長は顔見知りらしい。

 時間は早いが店には客が多く、二十席くらいありそうなテーブル席の殆どが埋まっている。

 が、カウンター席が空いていたので葵は躊躇せず、そこに陣取る。

 蛍も葵の左隣に……。

「店長のお勧めは……」

 葵が席に着くなり店長に問い、

「ハンバーグ定食かな」

 店長が答える。

「じゃ、あたしはそれで……。蛍は何にする」

 葵が訊くので蛍は壁に貼られたメニューを見るが、

「葵と同じものにする」

 選ぶ気力もなく口にする。

「元気がないね。まあ、ここは美味しいから食べれば元気も出るよ」

 葵は言うが蛍は無言だ。

 が、数分待ち、配膳されたハンバーグ定食を惰性で口に運ぶと、

「本当だ。美味しい」

 思わず蛍は背筋を伸ばし、小さな声で葵に叫ぶ。

 すると葵が蛍にウインク……。

 ホラ、言った通りでしょ、という意味だ。

 それから二人とも無言でハンバーグ定食を食べ続ける。

『隣家』で話すような内容が二人になかったからだが、会話は美食の敵……という事情があったかもしれない。

 一口食べる毎に蛍はハンバーグ定食から本当に元気をもらっているような気がしてくる。

 が、それも目の裏に翔の姿が浮かぶまでだ。

 蛍の目に、またもや涙が溢れてくる。

 それに気づいた葵が、

「イヤだ。この娘(こ)ったら、ハンバーグが美味し過ぎて泣いてるよ」

 と店長にアピール。

 店長は葵の言葉を信じたのか、それとも騙された気でいるつもりなのか、

「お客さん、気に入ってくれて、サンキューね」

 ノリ良く蛍に声をかける。

 すぐに店長は調理に専念にするが、時折、蛍を気にかける。

 蛍は自分の心が暖かいものに満たされていくのを感じるが言葉が出ない。

 だから無理をせず、黙ってハンバーグ定食を食べ続ける。

 外食中に時々するような味付けの分析も行わず、ただひたすら箸を口に運ぶ。

「ああ、美味しかった」

 蛍がハンバーグ定食を食べ終わり、そう口にする頃には溢れた涙も退いている。

 まるで魔法のようだ。

 翔のことが目の裏に浮かんでも今度は涙が出ない。

 本当に魔法なのかもしれない。

「お酒より効いたかも……」

 頬に笑みを浮かべ、蛍が葵に言うと、

「じゃ、このまま帰るかい」

 素っ気なく葵が蛍に応じる。

 が、目が笑っていたので、本人にその気はなさそうだ。

 もしかしたら葵も、お酒を飲みたい気分なのだろうか。

 蛍は考えるが答は出ない。

 アルバイトらしい店員からコップに足された水を飲みながら蛍が葵を見ると、ようやくハンバーグ定食を食べ終えたようだ。

「葵は食事がゆっくりだよね」

「他の人より胃が小さいんじゃないかな。それとも消化能力が低いのか。子供の頃から、こんな感じだよ。さすがに今の方が子供の時より早いと思うけど……」

「わたし、食事はゆっくり食べた方が美味しいと思う。葵ほどじゃないけど、わたしも遅い方だし……」

「男には早いのが多いよね」

「本当。高校の頃、味がわかっているのか、聞いてみたことあるけど、そのとき返ってきた答が、旨いから食べるのが早くなるんだよ、だったな」

「あはは。小説だったら、わかるけどね」

「面白いミステリとかでしょ。一気に読み終わって内容を思い出そうとすると細かいところをまるで覚えていない」

「だから食べ物の味だって覚えていないんだよ、きっと……」

「で、味の確認のために、またお店に来るとか……」

「それなら憶えていない方が愉しいかも……」

「毎回初めての美味しさ……ってことか。なるほど」

 そんな二人の会話を店長がニコニコしながら聞いている。

 もちろん調理に専念しながらだが……。

「ご馳走さま」

「とても美味しかったです」

 会計のとき、店長に声をかけ、葵と蛍が隣家から出る。

 ついで葵が気を取り直すかのように『candle ladys』に蛍を誘う。

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