45 不

 偶然、翔に会ったこととはまた別のドキドキ感を抱えながら蛍が健斗と住む家に向かう。

 駆けるほどの速足で帰り着いたが、家の窓に灯りはなく、健斗が先に帰らず良かったと蛍が安堵する。

 が、すぐに心の中で健斗に謝る。

 良い奥さんじゃなくて、ごめんなさい。

 キッチンで一人、暫くじっとしていたが、健斗が帰って来る気配はない。

 蛍は段々と拍子抜けした気分となり、溜息を吐く。

 ああ、わたし、何をやっているんだろう。

 時計を見ると、いつの間にか午後十時半過ぎだ。

 蛍は風呂を沸かし、薄い化粧を落とす。

 もし化粧が濃かったならば、喫茶店『一日』でどんな顔になっただろうか。

 そんなことを考えながら蛍は洗濯機に洗い物と洗剤と芳香剤を入れ、スイッチを押す。

 帰りの電車はかなり混んでいたので着ていた服は種々の臭いが移っているだろう、と芳香剤をいつもよりやや多めに入れて……。

 ついで風呂に入り、休息する。

 九月の夜は涼しくなっているが、まだ暑い日もある。

 これが十月になれば、めっきり冷え込むだろう。

 十月にはB及びC班の社員旅行がある。

 新入社員は全員C班で十月中旬。

 風呂から出て蛍がぼおっとしているとスマートフォンが鳴る。

 誰からだろうと蛍が首を捻りながらキッチンテーブルに置いたスマートフォンを見ると葵からだ。

 何だかんだ言って心配なんだな。

 蛍はそう思い、笑みを浮かべる。

 大した報告ができるわけでもないが、気持ちをシャンとさせ、スマートフォンに出る。

「もしもし……」

「蛍、どうだった……」

 テンションが高い葵の声。

 でもそうか……。

 まずありえないことだが、わたしが告って翔くんがそれを承諾すれば、葵の失恋の痛手がいや増すのだ。

 結果が気になるのは当然だろう。

「残念、葵、わたし、まだ告ってない」

「えーっ、どうして……」

 当然のような葵の疑問。

「健斗が飲み会で遅いから……。実際、まだ帰ってないし……」。

 そんなふうに葵の疑問に答えると蛍は、

「でも翔くんには会ったよ」

 小声で葵に告げる。

「前に翔くんに折り紙を教えた喫茶店で……」

「何それ、どういうこと……」

 葵の、その疑問ももっともだ。

 が、そこは勘が鋭い葵のこと、

「まさか、一目でも翔くんを見たくて、その喫茶店で見張ってたんじゃあるまいな」

 と図星を指す。

「うん、その、まさか……」

「蛍は可愛いね」

「ありがとう、葵……」

「褒めてないぞ」

「でも、ありがとう。わたしのことを心配してスマホををかけてくれたんでしょ」

「ただの興味だよ。だけど恋愛成就は難しいから……」

「いいのよ。わたしは気持ちを伝えたいだけだから……」

「蛍さあ……」

「でもわたし、翔くんの前で泣いちゃったの。いったいどう思われただろう」

「可笑しな奴だと思われたんじゃない」

「泣いたことで、わたしの気持ちがバレてないかな」

「さあ、何とも言えないけど、翔くん、案外、恋愛音痴かもしれないし……」

「そうなの……」

「小さい頃からモテてたから相手の気持ちが却って読めないんじゃないかと思って……。まあ、あたしの勘だけどさ」

「なるほど。そういえば翔くんの奥さんを見たよ」

「いったい、どういった脈絡なんだ」

「喫茶店の前を通りかかって……。すぐに行っちゃったけど、その後で翔くんに、まさかの奥さん……って訊いたら否定しなかったから」

「ふうん」

「話の内容からすると新人作家みたい」

「へえ、翔くんの奥さんは作家なのか。で、美人……」

「凄い美人。ついでに言えば、翔くんとお似合い」

「蛍、自虐かよ」

「わたし、翔くんに似合わない」

「似合うも似合わないも蛍は告って玉砕するんだろ」

「うん、玉砕する。でも、わたし、翔くんに似合わない……。全然、似合わない」

「困ったな、泣くなよ」

「でも、もう泣きそう」

「健斗さんが驚くよ」

「……」

「いや、心配するから……」

「うん、そうだね。わたし泣かない」

 蛍が葵にそう言ったタイミングで玄関のチャイムが鳴り、ドアの開く音が聞こえる。

「あっ、健斗が帰ってきた。じゃ、切るね」

「うん。お休み、蛍……」

「お休み、葵……」

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