第五章 後は消し去るだけ 49 化
「おはよう」
キリシマ・インスツルメンツ本社のエントランスで中村葵が華野蛍に声をかける。
「あっ、葵、おはよう」
声は張り上げたが、蛍の声には元気がない。
だから空元気を出しているのだろうと葵が気づく。
もしかして告ったか。
だとすれば、どう慰めれば良いか。
葵は悩むが、すぐに答えが出ない。
いっその事、あたしの方が先に泣いてやろうか、と戦略的に考える。
そうすれば友だち思いの蛍は吃驚し、一時的に自分の胸の痛みを忘れるかもしれない。
が、蛍の前で一度(ひとたび)泣けば、最初は嘘でも、すぐにあたしは本気で泣き始めるだろう。
そうなったら格好悪い。
失恋のプロではなくなってしまう。
……とすれば、ここはとりあえず様子を探るに留めておくか。
「顔色が良くないぞ」
「うん、だろうと思う」
「遂に告ったか」
「うん」
「で、玉砕した」
「そう。だけど翔くん、友だちでいてくれるって……」
エレベーターが来たので二人で乗る。
仕事場が二階だから、すぐに降りる。
「おはよう」
「おはようございます」
女子ロッカー室に入ると、先に来ていた総務部員から声がかかり、慌てて葵と蛍が朝の挨拶を交わす。
制服への着替えを終え、総務部フロアに入るが、始業までにはまだ三十分以上ある。
だから暫く話もできる。
葵が椅子を引き、蛍の執務机までやってくる。
「翔くんは心が広いね」
「うん」
「翔くんのことだから、蛍からの告白を断った後で、三つ先の駅だから送りますよ、とか言われたんじゃないの」
「よくわかるね。まあ、言葉はそっくり同じじゃないけど……」
「家には帰れたの……」
「わたしの家は、あそこしかないから……」
「健斗さんも心が広いね」
「それは本当にそう思う」
「これからどうするの……」
「どうするも何も健斗に感謝して生きていくしかないでしょ」
「本当にそれでいいのか」
「だって他にどうすればいいわけ」
「それは自分の胸に訊けばいいよ」
葵が右手の人差し指を伸ばし、蛍の左胸を指し示す。
「そこにいるのは誰かな……」
「意地悪ね」
「だけど自分は誤魔化せないよ」
「誤魔化すんじゃなくて消してしまうの」
「そうか」
「だって健斗は、わたしを後押ししてくれたんだよ。自分の妻に、初恋の相手に告白しに行け、って言ってくれたんだよ」
「男には面子ってものがあってだな」
「面子があっても健斗は凄いよ」
「まあね」
「健斗が好きなのは昔からわたしだけなのに、それなのにわたしの初恋の肩を後押しして……。だから決めたの。この気持ちを消すって……」
蛍も右手の人差し指で自分の左胸辺りを指す。
気持ち的には『指す』ではなく『刺す』かもしれない。
「蛍がそう決めたんなら、あたしは反対しないけどさ」
「ありがとう、葵……」
「まあ、そんな言葉はいいけどさ。昨日は健斗さんと、どう過ごしたの……。さすがに気不味かったでしょ」
「それはね」
昨夜の状況の一つを思い出し、蛍が静かに胸を痛める。
涙を枯らし、帰宅した蛍を労らおうと、健斗が蛍の肩をポンポンと叩こうとする。
それを蛍が無意識に避けてしまう。
一瞬後、自分の行為に気づき、蛍がハッとする。
が、もう後の祭りで、どうにも修正できない。
幸い健斗は蛍の行動に気づかなかったようだ。
『お帰り』
と静かに蛍を迎え入れ、
『ただいま』
蛍も静かに健斗に応える。
蛍と健斗は日頃からベトベトした関係ではない。
肩を叩き合ったり、手を繋いだりといったスキンシップがない日も儘ある。
が、昨日のそれは日頃のそれではなかったのだ。
蛍がそのことに気づいてしまう。
その後、歯を磨き、蛍と健斗は一緒のベッドで寝たが、頭を撫でるなどのスキンシップもない。
健斗も気を遣っていると蛍は思うが、翔を想うのとは違う気持ちで胸が苦しくて仕方がない。
「どうかしたの……」
急に黙り込んでしまった蛍を気遣い、葵が声をかける。
「ううん、何でもない」
そんな葵の行為に蛍が弱々しい笑顔を見せる。
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