55 悩
「ちょっと、相沢さん、おれの話を聞いてる……」
S出版社Oビル内の小会議室で文芸誌M編集者の一人、吉田次郎が山口夏海に声をかける。
夏海の作家としてのペンネームは旧姓の相沢夏海だ。
「あっ、済みません」
「無理をさせているから疲れちゃったかな」
「いいえ、大丈夫です」
「とりあえず、十分間、休憩にしよう」
吉田が柔らかな笑みを夏海に向ける。
「飲み物を持って来るから……」
「済みません」
夏海の声を背に吉田が小会議室から出ようとドアを開ける。
廊下を進み、社内にある専属契約の自動販売機に向かう。
途中、文芸誌Mの編集長、塚本茂と擦れ違う。
塚本も吉田同様W大学の出身者だ。
過日、夏海に紹介したK社の大室宗臣とは同期の関係。
「彼女は何時ベストセラー作家になるんだ」
単刀直入な塚本編集長の質問だ。
「早ければ来年には……」
吉田が慎重に答える。
「早いな。今年もそろそろ十二月になるが……」
「暖かいので、そんな感じがしません」
「で、遅い場合は……」
「その場合はベストセラー作家にはならないでしょう」
「その他大勢かな」
「編集長の仰る通りです」
「だが、きみはそう思っていない。……でなければ、佳作入選者を拾いはしまい」
「編集者の勘です」
「それはわしにもあるよ。わしの勘も彼女は売れると告げている」
「それは力強いお言葉です」
「もっとも、わしの勘の的中率は約三割だが……」
「生涯打率なら十分でしょう」
「最近の若者は野球を見ないな」
「サッカーの方が好きなようです」
「とにかく彼女のことは頼んだよ。きみの出世にも影響するしな」
「承知いたしました」
吉田が塚本に頭を垂れ、塚本がその場から歩み去る。
やがてゆっくりと頭を上げながら吉田が思う。
相沢夏海が売れるかどうかは彼女自身の決断によるだろう。
好きな男と別れてでも仕事を取れるかどうかだ。
一方の夏海は心の混乱を消せないでいる。
翔はまだ、あの娘に対する自分の気持ちに気づいていない。
もしかしたら翔は生涯、そのことに気づかないかもしれない。
わたしが翔の心を上手く導けば……。
翔のあの娘への想いは仲の良い友だちに対する思いなのだ、と、わたしがマインドコントロールすれば良いだけのこと。
翔は素直だし、わたしのことを信頼している。
だから、わたしが、
『ナントカちゃんと翔って本当に仲が良い友だちだよね』
とでも言えば、翔は何の疑いもなく、その言葉を信じるだろう。
あの娘のことを自分と仲が良い単なる友だちだ、と感じるだろう。
自分の本当の気持ちには気づかずに……。
翔とあの娘は会社が同じだから、わたしに出来ることはそれくらいだ。
結婚か、あるいは何らかのアクシデントであの娘が会社を辞めない限り、翔との絆は絶たれない。
そればかりは仕方がない。
わたしにどうにかできることではない。
けれども、その絆さえわたしが我慢すれば、翔はいつまでもわたしのものだ。
あの娘に翔を獲られない。
いずれ赤ん坊でも生まれれば、翔だって自分のあの娘への想いを忘れ去るだろう。
そうなれば、もうわたしには翔を導く必要がなくなる。
大好きな翔をただ大好きだと感じていれば良いだけだ。
それは、わたしにとって一番簡単なこと。
けれども……。
「おや、おれの言葉がきつかったか」
吉田が小会議室に戻り、夏海を見ると目に涙を溢れさせている。
まさか、とは思うが、と吉田が自分の言動を顧みる。
厳しい意見は多く言ったが、彼女はそんなことで泣く女ではない。
……とすれば、原因は彼女の夫か。
吉田の言葉に夏海がハッと我に返る。
自分の涙に気づき、愕然とする。
「あの、違いますから……。これは吉田さんのご指導とは何の関係もありませんから……」
夏海が咄嗟に吉田に訴えると、
「うん、おれにも違うとわかった」
夏海の濡れた目の奥を覗き込み、吉田が言う。
「小説の題材になりそうな感情だな」
「……」
「確かに無理だし、厭だろうとは思うよ」
「……」
「だが人間の心なんて、皆、自分勝手だ。相沢さんはそのことを良くわかっている。おれが相沢さんの小説を評価したのは端的に言えば、その点だ」
「それは自分でも何となくわかります」
「今の読者はデリケートだから、いろいろと難しい。だが、おれは小説とは本来、人の心を描くものだと思っているよ。エンターテインメントな小説だって、まったく同じだ。その部分がなければ、ただの作り話になってしまう。話そのものが面白く、勢いに乗って一時的に売れても、そんな作家は長続きしない。もちろん軌道修正すれば、その限りではないがね」
「吉田さん……」
「悩みがあるなら聞くよ。助言もしよう。だが同時に、おれは相沢さんに厳しいことも求める。それでも良いなら話してみなさい」
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