56 聴
「もしかして彼が蛍ちゃんを泣かせた張本人……」
翔がトイレに立ち、葵が一瞬自分の世界に浸ると歩さんが蛍の耳許に口を寄せ、そんなことを問う。
蛍は顔色を変えるが、それだけで歩さんにはわかったようだ。
「顔に書いているから答えなくていいわ」
「わたしって、そんなに顔に出ますか」
「まあ、普通以上には……」
「ねえねえねえ、何の話をしてるの……」
葵が自分の世界から戻り、蛍と歩さんの内緒話に興味を抱く。
「それより葵ちゃん、どういうつもり……」
歩さんが葵の瞳をじっと見る。
「画策してるでしょ」
「いや、あたしは単に成り行きが見たいだけだから……」
「無責任ね。でも彼は気づいてないようね」
「やっぱり、わかりますか。そうなんですよ。」
「彼女はいるの」
「結婚してます」
「そういう事情か」
「ねえねえ、そっちこそ、いったい何の話をしているの」
葵と歩さんがする話の内容が見えない蛍が割って入る。
「こういうところ、似ていると思いませんか」
「なるほど、似た者同士か」
「しかし片方は気づいてしまった。……っていうか、先に恋したのは蛍の方ですけどね」
「でも彼も好意を抱き始め……」
「えっ、もしかして、あたしと翔くんの話なの……」
再度、蛍が割って入る。
が、翔がトイレから戻って来たので立ち消えだ。
「そう言えば、蛍さんが歩さんに蛍光ドリンクのことを教えたそうですね」
少し高いカウンターテーブル用の丸椅子に難なく腰かけ、翔が問う。
社員旅行のときに葵から聞いたのだ。
「ああ、あれ以来、ちょっと評判になって……」
歩さんが翔の顔を見る。
「……ってことは作ってみたんですね」
素早く葵が反応する。
「あるお客さんに蛍光ドリンクの話をしたら、そりゃ、面白いね……ってことになってさ。だからブラックライトを買って次にお客さんが見えたときにファンタスティック•レマンをお出ししたら、それを見ていた別のお客さんがまた面白がって……」
「『candle ladys』の名物ですね」
「そうなれば愉快だけど……」
「じゃ、そうなった暁には感謝の気持ちを込めて『蛍スペシャル』とかいった名前のオリジナル・カクテルを作りませんか」
「『蛍スペシャル』か。それも愉快ね」
「コースターは折り紙で……。ねえ、蛍、そういったのはあるでしょ」
「まあ、いくらでもあるけど……」
「試しに、ここで折ってみない」
「いや、だってさ。いくら何でも折り紙の持ち合わせがないから……」
「ところが、オレが偶然持っていたりします」
翔が宣言すると蛍、葵、歩さんの三人が驚く。
「どうして……」
「どうして……」
「どうして……」
翔への問いかけもユニゾンだ。
「この前出張で島根へ行ったら和紙の折り紙があって、綺麗だから買ったのが鞄に入れっぱなしなだけで……」
翔の説明に葵と歩さんがアイコンタクトをし、うんうん、と首肯く。
一呼吸開け、
「翔くん、それ、実は蛍へのプレゼントじゃない……」
葵がストレートに翔に問う。
「いや、買ったときには全然、そのつもりはなかったけど……」
「じゃ、今、そのつもりになったら……」
「確かに中村さんが言うように、オレが持ってるより蛍さんが持ってる方が折り紙も喜ぶかな」
「じゃ、あげちゃいなさいよ」
「そうするか」
翔が比較的大きな通勤鞄の中から和紙の折り紙を取り出し、蛍に手渡す。
「蛍さん、オレからのプレゼント……」
「ありがとう。でも……」
一応受け取るが、蛍は戸惑う。
「わたしが貰っても良いの……」
蛍が真っ先に思い浮かべたのは翔の美人妻の顔だ。
この折り紙は妻へのお土産ではないのか、と戸惑ったのだ。
「だって、これ、お土産なんじゃ……」
「おれの妻は折り紙をしないから……」
蛍の言動に葵が助け舟を差し向けようとしたタイミングで翔が蛍にさらりと言う。
「だから蛍さん用……」
「蛍、遠慮なく貰っときなよ」
葵が推すので、
「ありがとう」
蛍が素直に礼を述べる。
和紙の産地は北海道から沖縄まで全国に広がるが、ユネスコの無形文化遺産に登録されたのは島根県の石州半紙、岐阜県の本美濃紙、埼玉県の細川紙の三種だけだ。
これらの和紙に共通するのは、原料が国産の楮(こうぞ)のみ、水質の良い川が流れる土地柄、伝統的製紙技術が受け継がれている……となるだろうか。
「じゃ、さっそく使わせてもらうから……」
蛍が石州半紙の折り紙の中から聴色(ゆるしいろ、許色とも書く)の一枚を取り出し、コースターを折り始める。
最初は騙し船の形に似ていた折り紙の形が段々と変わる。
最後には(赤色で折られていれば)太陽とも(金色で折られていれば)メダルともとれる形になる。
コースターの出来上がりだ。
そんな一連の蛍の指先の動きを翔が黙って目で追っている。
その翔の姿を葵と歩さんが興味深く眺めている。
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