10 気
前々から呼ばれていたので土曜日の夜は健斗の実家に遊びに行く。
健斗の母親、佐江とは蛍が生まれてからの付き合いなので、ほとんど自分の母親のようだ。
だから逆に、少し気が張ってしまう。
蛍の恋心に真っ先に気づくとすれば、佐江に違いないからだ。
佐江が腕によりをかけた夕食を蛍たち夫婦、夫、結婚前の娘からなる家族に振る舞う。
出された佐江の料理の中で蛍が好きなのが筑前煮なのが年寄り臭い。
けれども佐江の筑前煮は美味しいのだ。
コンニャクには味が染み、ゴボウは柔らかく、レンコンは適度な歯ごたえで、ニンジンは甘く、大根が程好く出汁を吸い、茹でタケノコは絶妙の触感……。
骨付き鶏肉、シイタケ、サヤインゲンも当たり前のように美味しい。
「あーっ、これを食べると佐江小母さんを思い出しますう」
筑前煮の味に酔わされたように蛍が言うと、
「思い出すも何も今、目の前にいますから……」
にこやかに佐江が応じる。
食卓は和やかな雰囲気だ。
蛍は自分の心配が奇遇だったとホッとする。
会話が弾み、
「蛍お姉ちゃん、お兄ちゃんとの生活には慣れた……」
華野家の次女、江里が蛍に問いかける。
「最初の一日目から慣れてる感じかな」
江里の質問に蛍が答える。
もちろん、その答に嘘はない。
蛍の本当の気持ちなのだ。
「江里ちゃんのお兄さんは几帳面で、わたしが何か言わなくたって、いろいろなことを手伝ってくれるから助かるわ」
蛍がそう続ければ、
「家ではそうでもなかったけどね」
と江里が笑う。
「いや、そんなことはないだろう」
健斗が江里に反論し、
「でも、お兄ちゃんがずっと想ってた蛍お姉ちゃんと結婚できて本当に良かった」
江里が蛍につくづく言う。
「他に結婚したい相手もいなかったし、縁というか、運というか……」
蛍が自然体でそう発言すると、
「健斗のお嫁さんが蛍ちゃんで良かったって、本当に思う」
愛しそうに蛍を見つめながら佐江が言う。
「そうだな、お前は小さい頃から、ずっと蛍ちゃんのことばかり見てたからな」
普段、口数の少ない健斗の父、陽介も会話に参加だ。
そんな健斗の家族たちの言葉に嘘がないだけに蛍は自分の山口翔に対する気持ちをとても済まなく感じてしまう。
が、健斗の家族たち、それに健斗当人は蛍の心に気づくことなく和気あいあいとした会話が食卓を行き交っている。
やがて食事が終わり、お茶団欒を経、蛍が洗い物を手伝っていると不意に佐江に訊ねられる。
「蛍ちゃん、今、幸せ……」
「……」
一瞬、蛍の口から言葉が出ない。
ついで慌てたように、
「もちろん幸せですよ。健斗さんと一緒にいて感じる快適感みたいなものが、わたしの幸せであるとすれば……」
蛍が自分の気持ちを佐江に説明する。
「そう。それならば良いのだけど……」
蛍の説明を聞き、佐江が溜息を吐くように口にする。
ついで口調を変え、
「でも快適っていうのは好いわね。わたしもお父さんといると割と快適……」
と続ける。
だから空かさず蛍が突っ込む。
「割と、が付くんですか」
「あら、向こうだってそうでしょ」
「ふうん」
「蛍ちゃんには、わかりにくいかもしれないけどね」
「確かに良くわかりません」
「蛍ちゃんが健斗と一緒にいることに納得してくれているのなら小母さんは安心なんだけどね」
「もちろんですよ。自分で納得したから結婚したんです」
「だけど蛍ちゃん、健斗以外の男の人と付き合ったことがないでしょう」
「それはそうですけど、男友だちなら健斗さんより多くいましたよ」
「確かに小学校と中学校のときは、そうだったわね」
「わたしが男の子みたいな性格だから……」
「ねえ、蛍ちゃんは健斗以外の男の人から告白されたことはないの」
「残念ながら、ないです。わたし、そういった意味ではモテませんから……」
「そうかな、蛍ちゃんのことが好きな人は何人もいたと思うけどね」
「何となくモーションをかけられたけど、わたしが気づかなかった……ってことは十分考えられます」
「きっと、みんな遠慮してたのよ」
「誰にですか」
「そりゃ、もちろん健斗によ。誰の目から見ても健斗が蛍ちゃんのことを好きなのがわかったから……」
「それに気づくのが一番遅いのが、わたしでした」
「ねえ、蛍ちゃん。蛍ちゃんが健斗と結婚したのは、いったい健斗の何処が良かったからなの」
「それって一言で答を言うと、全部……ってことになりますよ。小さいときから、ずっとわたしのことを見守ってくれていたし……」
「だけど健斗の方はいいけど、蛍ちゃんは恋する機会を奪われたのよ」
「いえ、健斗さんと結婚するまで、わたし、誰にも恋をしていませんから……」
思わず、そう口にし、蛍は瞬間、しまった、と悔やむ。
「まあ、それならそれで良いんだけどね」
けれども佐江は蛍の失言に気づかない。
「不束者だけど、蛍ちゃん、健斗のことをこれからもよろしくお願いしますよ」
佐江は蛍にそう言い出す始末だ。
「はい、わたしで良ければ……」
だから蛍もそう答えるしかない。
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