40 唆

 揺れた心を持ったまま蛍は九月を過ごす。

 半期の最後の月だから上司に提出する書類が多い。

 が、通常業務が減るわけではない。

 だから九月は忙しい。

「おはよう」

出勤してきた中村葵が蛍に声をかける。

「おお、久し振りに笑顔だな。何かあったか」

 蛍の顔色にすぐ気づく。

「いや、別に何もないよ」

 蛍が葵に答える。

「いや、そんなはずはない」

 葵は退かない。

「久しぶりに翔くんを見かけたとか……」

 葵が蛍に指摘するが、それは図星だ。

 やがて告白し、完全玉砕する恋でも、山口翔を見かけると蛍は思わず胸がキュンとしてしまう。

 いけないこと、とは知りながら……。

 とりあえず気持ちは封印したはずなのに……。

「何日ぶり……」

 と葵。

「十日ぶり」

 と蛍。

「見かけただけじゃなくて会話もしたとか」

「おはよう、ってイントランスで声をかけられて、二言、三言……」

「そう」

「十月になったら社員旅行だね。愉しみだね、とか……」

「そういえば蛍は社員旅行実行委員だったな」

「一日目の夜のパーティーに計画していることなんかを話すと、けっこう面白がってくれて……」

「で、最後は出勤してきた女子社員集団に睨まれ、二手に別れたとか……」

「二回までのエレベーターは一緒だったけどね」

「それでご機嫌なのか」

「こんなのいけないよね」

「友だちとしてなら好いんじゃない」

「友だちか」

「友だちだよ」

「だけど……」

「恋する女の顔をして見つめてる」

「やっぱりいけないよね」

「あたしもそうだよ」

 何気なく葵に言われ、蛍はハッとする。

「ごめん、葵、気がつかなくて……」

「昨日の今日とか、数か月じゃ想いは消えないよ」

「……」

「だけど、もう諦めてる」

「葵……」

「少なくとも、あたしは告ったし、相手の人は気持ちを受け入れてくれたから……」

「うん」

「まあ、振られたけど、今では友だちとして付き合ってくれている」

「却って辛かったりしない」

「あたしは失恋のプロだ」

「……」

「だから人一倍の努力をしても、それを誰にも見せないんだ」

「辛い想いをさせて、ごめんね」

「だけど、それ以上に愉しくなかったら、あたしは蛍に話しかけたりしないよ」

「うん」

「蛍は友だちだからね」

「ねえ、葵、わたし、ずっと悩んでいたけど、葵の一言で決心した」

「何をよ」

「わたしも告る」

「えっ、マジで……」

「うん、マジで……」

「そうか、じゃ頑張りな」

「反対しないんだ」

「反対する理由がない」

「でも先に健斗に話さなければって思うと、ちょっと……」

「確かに試練だな」

「うん」

「で、いつ実行する気……」

「さあ、機会を見て……」

「蛍って、決めたら早そうだから今夜かもね」

「いや、さすがにそれはない」

「賭けをしようか」

「いいけど……」

「わたしは今夜だと思う」

「どうして……」

「偶々知ったことなんだけどさ、翔くん、今日残業なんだ……っていうか、出先が遠くて帰りが多分、遅くなる」

「葵、もしかして、わたしのことを唆していない」

「まさか、応援してんだよ」

「ありがとう、葵……」

「まあ、いいってことよ」

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