32 裡
「健斗、わたし、明日の土曜日、出かけるから……」
金曜日の夜、夕食が終わると蛍が健斗に話しかける。
「ああ、そう。で、遅くなるの……」
健斗が問い、
「予定は未定だけど、夕ご飯にまでには帰って来る」
蛍が健斗に答える。
「じゃ、いってらっしゃい」
健斗は、それ以上訊ねない。
蛍をまるで疑わないのだ。
わたしのことをすっかり信用しきっている、と蛍が思う。
健斗に外出について訊ねられた場合、蛍は、
『ああ、会社の同僚に折り紙を教えてくれって頼まれて……』
という答を用意している。
けれども健斗が訊ねないので言う必要がない。
蛍は内心ホッとするが、それが良いのか、悪いのか。
すでに浮気が始まっているような気分になってしまう。
もっとも浮気といっても蛍の心が惑うだけのこと。
山口翔は蛍の気持ちを知りもしない。
「じゃ、おれも出かけるかな」
不意に健斗が口にする。
「久しぶりにアイツに会いに行くか」
アイツというのは、とある森林公園内に住み着いている猫のことだ。
出会いは大学二年のときと蛍は健斗から聞いている。
だから二年半の付き合いだ。
「蛍と一緒に行くと、いつも留守なんだよな」
続けて健斗が蛍に言う。
大学生当時、健斗が写真に撮った三毛猫(と仲間の斑及び雉猫)を見せられ、
『蛍も会いに行かないか』
と健斗に誘われたことがある。
断る理由もないので健斗と一緒に森林公園まで蛍は出向くが三毛猫はいない。
その後二回、同じ場所(頂上の城壁址に至る坂の途中の庵風休憩所)を訪れたが、いつも留守だ。
もっとも健斗が一人で訊ねれば必ず会えるということでもないらしい。
それに猫たちが健斗に懐いているのでもない。
健斗と遭えば、猫たちは、ニャンだ、また邪魔をしに来たのか、という顔を見せる。
が、それ以上迷惑がり、庵から逃げて行くことはない。
健斗が乾燥タイプのキャットフードを与えればカリカリと食べる。
が、それだけの関係だ。
「会えるといいね」
蛍が言い、
「朝早くならいるだろう」
健斗が蛍に答える。
「で、蛍は朝から出かけるのか」
続けて健斗が訊くので、
「ううん、わたしは午後から……。一時半からの予定」
「そうか。じゃ、暑いだろう」
「八月に寒くても困るしね。健斗は午前中に帰って来るの」
「どうしようかな。ついでだから、何処か周るかな。急だけど友だちを当たってみるよ」
健斗が言い、スマートフォンが置いてある奥の部屋に引っ込む。
それを機に蛍も夕食の後片付けを始める。
が、どうにも気が重い。
デートじゃないのだから自分から出かける目的を健斗に告げた方が良いのだろうか、と蛍が心を悩ませる。
一方の健斗は蛍も知る近所の友だち数人に電話をかけ、集まって遊ぼうと計画を立てる。
さらに、その一方で健斗は蛍が折り紙関連で出かけるのだろうと見当をつけている。
何故かといえば、ここ数日、蛍が折り紙の本を見ていた形跡があるからだ。
家の本棚には数冊の折り紙の本があるが、社会人になってから、それが取り出されたことはない。
が、数日前に取り出された形跡がある。
並び順が変わっていたのだ。
蛍が一度に数冊を取り出し、前の並びとは違う順序で本棚に戻したのだろう。
健斗が状況を推理する。
別に可笑しな行為ではないが、健斗が気になったのは、自分がいる場所で蛍が折り紙の本を取り出さなかったことだ。
自分が家に帰る前に本を見終わり、蛍が本棚に仕舞ったならば不自然ではない。
不自然ではないが、健斗はどうにも気になるのだ
けれども、それならば、先の会話で、
『健斗、わたし、明日の土曜日、出かけるから……」
と蛍が告げた時点で、
『もしかして折り紙に関係してる……』
と返事をすれば良かっただけのこと。
が、何故か健斗は躊躇い、その機会を失う。
いや、これから蛍に明日の外出について訊ねても不自然ではないが、何かが胸につかえるようで健斗は最初の言葉が言い出せない。
まさか、蛍が恋を知ったのだろうか。
つまるところ、健斗の不安は、それに尽きる。
蛍は正直な人間だから、自分の心がたとえ恋に傾こうと、健斗に義理を通すだろう。
最悪、相手に走るにしても、自分の想いを必ず健斗に告げるはずだ。
が、健斗は蛍から、そんな告白を聞きたくない。
蛍が一人で頑張り、気持ちを抑え、恋を想い切ってくれることを願うだけだ。
その後、自分は何も気づかなかった振りをし、優しく蛍を慰めるのだ。
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