50 過
山口翔がキリシマ・インスツルメンツ本社のエントランスに入るのと蛍と葵がエレベーターに乗り込むのがほぼ同時。
翔は約束通り蛍に声をかけようするが間に合わない。
エレベーターの扉が閉まり上階に向かう。
その間、翔の胸に不確かな想いが宿り来る。
が、翔はそれに気づかない。
ただ、残念だ、と思っただけだ。
昨夜起こった蛍の告白に翔は正直、驚かされる。
駅のホームで蛍を見送った後、翔は、この先、蛍さんはどう過ごすのだろうか、と気を揉んでいる。
もちろん蛍が自分の家に帰った後のことだ。
夫と向き合って話せるだろうか、と心配したのだ。
翔から見た蛍はいつも元気だ。
何にでも興味を示すし、一生懸命、事に当たる。
だから感情の起伏も大きいのだろう。
ふとしたことで泣いてしまうのも、そのせいかもしれない。
翔はそんなふうに考えている。
だから蛍のことが心配なのだ。
夫の前で泣かねばいいが、と願ってしまう。
蛍の夫のことを翔は知らない。
実は中学の頃の友人だと気づくはずもない。
けれども男として立派な人間だと感じている。
自分の妻が他の男が好きと告白することを赦したのだ。
妻の感情を優先し……。
更に告白する妻の肩まで押している。
世の中にいる多くの男には取れない態度だろう。
だから翔が感心する。
翻って、自分ならば、と考えてみる。
妻の夏海は翔の初恋相手だ。
翔が中学二年生、夏海が高校二年生の頃の話……。
幼い子供の恋を別にすれば、相沢夏海の初恋相手も山口翔だ。
だから二人は相思相愛……。
一度の波風もなく付き合い続ける。
やがて結婚へと辿り着く。
が、それは翔からの見え方だ。
夏海からの見え方は少し違う。
何故かといえば、翔が昔からモテ過ぎたからだ。
けれども山口翔の場合、感情面が子供のままだから、女性を恋愛対象として見たことがない。
だから誰とも付き合わない。
告白をされても断り続ける。
『ごめん。オレ、今、そういった心境にないから……』
そんな言葉を相手に向け、一見クールな表情で……。
それが中学生になるまで続く。
正確に言えば相沢夏海と出会うまでだ。
当時、シングルマザーだった夏海の母が結婚したいと夏海に告げる。
小学校五年のとき、膵臓癌で父親を亡くし、それ以来ずっと夏海は片親で育っている。
だから高校生になっても、この先ずっとこのままかな、と思っている。
早く、母に楽をさせたい、とも感じ続ける。
それが、まさかの母の結婚だ。
夏海の精神がパニックに陥る。
母の結婚は祝福したい、けれども母を取られるのは厭だ、と二つに乱れる。
そんな心の状態のとき、夏海は翔と出会ったのだ。
忘れもしない、あの秋の日に……。
「オレの顔に何かついてますか……」
公園で、夏海が思わず少年の顔に見入っていると当の少年が夏海に問う。
「あっ、ごめーん。実は今わたしが書いている小説の登場人物にきみの顔がそっくりだったから……」
少年の背は夏海より僅かに低い。
が、翌週には抜かれそうな差に思える。
「お姉さんは小説家なんですか」
「自称ね……」
「ふうん」
「でも将来は自称ではなく、本物の小説家になりたいと思ってる」
「頑張ってください」
「あのさ、きみのイメージを貰ってもいい」
「オレので良かったら、いくらでも使っていいですよ」
「助かるな。缶コーヒーでも奢ろうか」
「イメージ料は出世払いで……」
「そう言ってくれると、ありがたいけど……。だけど、いつになるかわからないよ」
「じゃ、待ちます」
「もしかしたら、一生待たせることになるかもしれない」
「弱音ですか」
「ああ、そうか。前を向かなくちゃね。頑張らないと……」
あのとき、わたしの目に涙が溢れる。
さすがに中学生の翔が、わたしの涙に驚いてしまう。
「お姉さん、大丈夫ですか」
それまで立っていたブランコの傍から一目散に、わたしに駆け寄る。
「ちょっと家でいろいろあって……」
「オレ、何て声をかけたらいいのかわかりません」
「きみは正直なのね。名前を聞いても良いかな」
「山口翔」
「漢字は……」
「あっ、そうか。ええと、山口県の『山口』に飛翔の『翔』……」
「翔くんか。いい名前ね」
「ありがとうございます。でも自分でつけたわけじゃないので……」
「あはは……。そりゃそうだ。わたしの名前も自分でつけたわけじゃないけど、相沢夏海。相棒の『相』に沢山の『沢』、名前は普通の『夏』に普通の『海』……」
「普通の……って何ですか、それ、笑える。夏海さんは本当に作家志望なんですか」
「あら、ムカつくことを言ってくれるじゃない。じゃ、言い直すから……。夏侯拾芥(かこうしゅうかい)の『夏』に海内殷富(かいだいいんぷ)の『海』よ」
「特に好きとは言えませんが、勉強はサボっていませんよ(夏侯拾芥は学問を修めることは大切であるという意)。それに夏海さんは、きっと世の中に出ます(滄海遺珠は世に知られずに埋もれている立派な人物や有能な人材の意)。少なくとオレはそう信じます」
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