42 音
蛍が健斗と暮らす賃貸マンションという名のアパートに帰ってきたのが午後八時前。
買い物をし、家に着き、お弁当を食べ、物思いに耽り、やがて家を飛び出す。
時刻は現在、午後九時半に近い。
蛍は喫茶店『一日』でホットコーヒーを飲んでいる。
雑誌を眺める振りをしているが、実際に蛍が見ているのは喫茶店の窓の外だ。
山口翔が通り過ぎるのを待っている。
けれども翔は通り過ぎない。
蛍が顔を知らない見知らぬ男女が行き交うだけだ。
翔が何時に家に帰って来るのかを蛍は知らない。
中村葵から、本日は残業で遅い、と聞かされたのみ。
だからもう家に帰っているかもしれない、と蛍は諦めきれずに考える。
仮にそうだとしたら、わたしはバカだ、と蛍は思う。
けれども翔はまだ家に帰って来る途中なのではないか、とすぐに思い返す。
すると蛍の胸がキュンと鳴る。
あと何分待とう。
今夜、健斗は友だちと飲みに行っている。
が、帰る時間はわからない。
自分の家に帰り、先に家に帰ったはずの妻が家に居なければ不審に思うに違いない。
勢い余って警察に連絡を入れることも考えられる。
そうなったら大事だ。
仮にそこまで行かなくとも健斗より後に家に帰ることになれば、少なくとも家を留守にした理由を健斗に説明しなければならないだろう。
山口翔に告白する機会もないまま、健斗に自分の翔に対する恋心を話すのか。
それはできない、と蛍は思う。
健斗に話したら、それこそ、すぐにでも翔くんに告げたい。
そうでなければ自分が居たたまれない。
勢いでそこまで考え、蛍はハッと驚いてしまう。
わたしは、どこまで自分勝手なのだろう、と……。
健斗とのことを何も考えていない。
わたしが考えるのは自分自身の都合だけだ。
不意に自分の心に気づき、蛍はとにかく唖然とする。
帰ろう、と強く蛍は思う。
こんなことをしていても虚しいだけだ。
けれどもカップにはコーヒーがまだ少し残っている。
それを飲み終えるまで、ここにいよう。
蛍はそう決め、溜息を吐く。
わたし、何やってんだ。
蛍が情けなく自分に呆れているとコンコン という音がする。
まさかと思い、蛍が窓の外を見ると、そこには……。
山口翔の顔がある。
腰を折り曲げ、蛍の方を見つめている。
蛍は目を丸くし、翔を見つめ返す。
それからすぐに内心で思う。
マズイ、このシチュエーションは想定外だ。
一旦その場を離れると翔が躊躇うことなく喫茶店『一日』の中に入ってくる。
飲み物のオーダーはカウンターの所でしたようだ。
込んでもいない店なので翔が蛍と対面に座る。
「どうしたの、こんなところで……」
翔から蛍への当然の質問だ。
蛍には答える言葉がない。
それに翔に告白することもできない。
まだ健斗に自分の心を話していないから……。
「あの、翔くん……」
蛍は、それだけ言うと黙ってしまう。
すると何故だか、目に涙が溢れる。
翔が目を丸くし、蛍を見る。
心配して……というより純粋に驚いたようだ。
「蛍さん……」
翔も蛍に何と声をかけたら良いのかわからないようだ。
すると、またしても窓にコンコンという音が聞こえる。
蛍が音のした方を見ると、そこには綺麗な女性の顔がある。
ついさっきの翔のように腰を折り曲げ、蛍を見ている。
音には当然、翔も気づいたので窓の方に振り返る。
ついで驚いた顔をする。
それから蛍には見えなかったが二人の間で何らかの意思疎通があったようだ。
翔に首肯くと綺麗な女性はまるで何事もなかったかのように店の前から去って行く。
蛍はポカンとし、泣いていたことを忘れてしまう。
つまり泣き止んだのだ。
「蛍さん、ごめん。余計なことを訊いた」
いきなり翔がそんな言葉を口にする。
「女の子にはいろいろあるんだよね。それなのに、オレは友だちだと思って土足で蛍さんの心の中に踏み込んでしまった。ねえ、この通り謝るから許してください。済みません、蛍さん」
続けて翔が言い、頭を言下げ、頭を上げ、蛍の顔を心配そうに窺う。
そんな翔の顔を見、蛍の胸がキュンと鳴る。
いつものキュンより大きなキュンだ。
が、それ以上に蛍には気になることがある。
あの女性は翔といったいどのような関係なのだろう。
まさか、翔くんの奥さん……。
もしそうだったら、わたしじゃ、敵わない。
そう考えてしまい、蛍はハッとする。
この期に及んでも、わたしは……。
翔くんのことを諦めていない。
可能性は低いと知りつつ翔くんとともに歩む未来を夢見ている。
自分勝手なわたし。
翔くんへの想いを少しも捨てていない。
それどころか、かえって膨らませるばかりだ。
蛍が自分の翔への気持ちを顧みたそのとき、やっと翔のオーダーしたホットコーヒーが運ばれてくる。
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