30.新人作家と担当編集のプロローグ

「おぉ、登戸先生。どこ行ってたんですか……?」

「ちょっと、ジュースでも買いに行ってた」


 編集部に戻ると、山野がいた。

 警察の聞き取り調査はもう終わったらしい。


「今日はお疲れ様です、先生」

「いえ、働いたのは、山野さんですよ……」


 編集部の一室で、静かに時間が流れ……。

 チクタクという時計の音だけが、この部屋に響いた。

 その音がなければ、時間が止まっているといわれても、納得してしまうような……そんな気持ちだった。


……」


 山野の声は、静寂を一瞬だけ破ったが、すぐにもとに戻った。

 再びの沈黙……それは、僕に山野の言葉の意味を考えてしまう時間を与えた。


――終わった……本当に何もかも終わってしまった。


 『俺オレ』が出版できない。

 そのことは、僕が依頼された『ゴーストライト』の話が消滅したこと……僕の新人賞受賞作の出版中止が確定したこと……そして、


――幽霊の『未練』を果たせなかったことを意味する。


 このままでは、幽霊は『悪霊』となってしまうかもしれない。

 何か別のことを……どうにかして、彼女を救わなければ。


 そう思うけれど、どうにもできない。

 できることって……せめて、いい思い出を残してあげることくらいだろうか。


「でも……編集長を捕まえられたんだから、ちょっとは、よかったのかなぁ」


 ふと、口をついて出た言葉。

 

 ただ、その犯人? である編集長を捕まえられたから、少しは……せめてもの救いになっただろうか……。


「その話なんやけど……先生……」


 申し訳なさそうな声を聞いて顔を上げた僕は、山野が苦虫を噛み潰したような、苦虫と一緒に自分の舌を噛んだ時のような顔をしているのをみた。

 何度も浅く長い呼吸を繰り返して……山野は、


「……

「……………………えっ?」

「さっき、警察からそう教えてもらった。死亡推定時刻に編集長はアリバイがあるんだと……」


 頭が回らない……事件現場にあったじゃないか。編集長の名刺が。

 前に山野は、こう言っていた。


――編集長は、気の許した相手にしか名刺を渡さない。


 だからなのか、僕は名刺を持っていない。

 幽霊も編集長と直接会ったことはないらしいし、山野や幽霊の元担当編集に話を聞いても、それはどうやら正しいようで……。


 そういえば、幽霊の元担当編集は、今回の事件解決に大きく貢献していた。

 山野が編集長のキナ臭い影を見つけたのも、僕がこの前炎上したときも、いち早く情報を察知して、山野に知らせていたという。

 幽霊の元担当は、サキサキの『筆を折る』メールに対する編集長の対処に、どこか違和感を覚え、それ以来いち早く動き出していたそうだ。


 僕が山野と二人三脚を組んで頑張っていると思っていたら、山野は別の奴とすでに……どんだ、ヤリチン野郎だ。山野は。

 僕はさっき、幽霊の元担当がデスクで仕事に忙殺されているところを見たけど、僕と目が合うと、サムズアップを決め顔でキメたので、結構いいやつだと思った。主観的だけど。


 とまぁ、幽霊は編集長の名刺を確実に持っていない。


 それなら、編集長の名刺は誰が……


「編集長以外で、なおかつ編集長の名刺を持つ誰かが、事件現場のあの家に……サキサキさんの家に入っていたようだ。警察も、今回の事件を踏まえて、サキサキさんのことをもう一度調査するって決めたらしい。『自殺』っていう判断も覆るかもしれない」


 僕は、幽霊が自殺したとは思ってない。

 あの『筆を折る』メールの文章……というかそこにあった誤字は、確実に他人が書いたものと言い切れるモノだった。

 しかし、そんなことがわかったからと言って、その先が……全く、わからない。


――何て、ことだ。これじゃ……


「これじゃ、幽霊の『未練』も『後悔』も……何一つ解決してないじゃないか……」


 僕は、何をしていたんだ。

 僕のせいで、僕が何もできなかったせいで……彼女は。


――こんなの……こんな結末はいくらなんでも、ひど過ぎる。


「幽霊って……サキサキさんのことか?」


 無言になった僕に山野は、やさしい口調でそう言った。


「そうです……僕は、彼女に何もしてあげられなかった……何も、本当に何も残すことができなかった」

「……でも、頑張ったんやろ。それで、ダメやっただけや…………」

……僕が。。許せないんです……」


 山野の言う通り、幽霊はきっと僕を責めないだろう。

 きっと、怒らないだろう。

 だけど……だけど、

 別に幽霊がやりたかったことじゃないんだ。


――幽霊の『未練』を晴らしたい。


 これは、僕が決めたことだ。

 僕が勝手にやろうとしていることなんだ。

 他人の声なんて聞かない。

 僕のことは、僕が一番わかっているんだ。

 だから、山野だろうと、幽霊だろうと……無知な奴らが口を出せる世界じゃないんだ。


――僕がどれだけ幽霊のことが好きかなんて。僕が彼女にどれだけ惚れているかなんて、あいつらは知らないだろう。


 天井に設置されたいくつもの照明が、僕の影を何重にも作り出す。

 やっぱり、僕は……


――あの頃、僕が好きだったweb小説の作者、『聖じん』さんを救えなかった時と変わってないんだろうか……。


 『救いたい』


 口にするのは簡単だが、実行するのはどれだけ難しいことなんだろうか。

 これじゃ、ただの……口だけが達者な『プロワナビ』と同じだ。


「登戸先生……」


 山野が心配するような声を出した。


 ふと、気づくと、右頬に冷たい感触。五月十七日、編集部の一室で僕は涙を流した。幽霊がいなくてよかった。涙は、僕の意思と関係なく流れる。歪む視界が悪く、涙を流す僕のことを、幽霊は心配しそうだし、悲しい雰囲気で泣き出した彼女の姿を直視することができないからな。


「一旦、飲み物でも買ってきますね」


 山野がそう、この部屋のドアを開けたとき、


「うっお、ビックリした」

「うわっ、」


 ……現れた影にぶつかった。


 何事か、僕も近づくと……


「あっ君は……」

「ははっ、こんばんは。登戸先生。さっきは、忙しくて、ロクに挨拶できず、すみませんでした」


 そう笑った幽霊の元担当編集は、


「さっき、ちょっと聞き耳立てちゃったんですが……あれですか。とにかく『本を出す』ことができたら、登戸先生の好きな彼女の『未練』を果たすことができるんですよね」

「ちょっと、お前、先生の今の気持ち考えてだな……」

「考えてます、……っていうか、時間ないですよ」

「なんの時間のことや?」

「だから、今は山野じゃなくて、登戸先生に話しているんだから、黙ってろって」


――それで、どうなんですか。登戸先生?


 幽霊の元担当編集の問いかけに、僕は数秒考え……


「はい、とにかく『本を出せたら』いいと思います。どんな形であれ、彼女は『俺オレ』が本になることを望んでいた。そして、ファンの方に形あるモノを……手に取って残せるものを……と」


――でも、


「『俺オレ』の出版は中止になったじゃないですか……今更、本を出す何て、できるんですか?」


 僕の純粋な疑問に、


……!」


 幽霊の元担当編集は、僕と山野に説明を開始し……


「『文マケ』に出しましょう……山野の出版業界のツテと、登戸先生の炎上アカを使えば、行けるはずです!」


――またしても、サムズアップを決めた。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 文学マーケットとは、端的に言うと、同人サークルがそれぞれの『文学』であると決めたものを持ち合う場である。

 同人誌即売会として有名な、東京のビックな所で開かれる『コミマ』の文学バージョンみたいなもので、幽霊の元担当はそこで『俺オレ』を発売することを提案した。


「来場者数とかは、『コミマ』と比べるもんじゃないくらいのイベント何ですけど……同人という形で、我々が直接出版すれば、出版までの『時間』の問題は解決できます」

「あとは、その『場所』ってちゅうことで、『文マケ』ってことか」


 著作権の問題などは、今回の編集長逮捕を受けて、山野が事前にライジン文庫の親会社に相談して、クリアしているそうだ。


――編集長みてぇなクズがいる会社に、作品を自由に使わせたくねぇだろ……


 山野は自分の所属する会社のことを、自虐気味に笑って、言っていた。


 二人の話を頭で整理していると、一つ疑問が生じた……


「『時間』の問題って、その『文マケ』って今月末にあるんですよね」

「あぁ、そうやんな」

「そうですね。だから、提案して……」

「……それって、今から参加できるんですか? あと、印刷って何日でできるのかしらないですけど……」


 イベントなら、前もって参加のエントリーが必要だと思うし、いくら同人の形をとったとしても、出版するには時間がかかる。

 僕は、『俺オレ』のイラスト担当のそるてぃーさんがよく『コミマ』だけじゃなく、『文マケ』にも参加しているってことで、『文マケ』の名前だけは知っている程度なので、イベントの詳細については詳しくない。


 しかし、幽霊の元担当は、僕の疑問を見越していたように、頬をにやりと曲げた。


「そこで、山野の出番ですよ」

「……えっ、オレ? できることなら、何でもやるで」


 胸を張って、拳を固める山野の姿は頼り強く――


「山野には、すでに『文マケ』に参加が決まっているサークルに頼んで、場所をちょっと貸してもらうことと、ムリ聞いてくれる印刷会社のツテを紹介してもらいたいです」


 ――幽霊の元担当の山野頼みは、とても、人任せ感にあふれていた。

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