3.イタイのはだれか、

 ――で、なんでこんな事になってるんだろう。


 午後四時二八分、図書館にて。

 四方八方に飛び散った本と、倒れてしまった何台もの棚を見て、くらりと眩暈を覚えた。

 物陰に隠れる私の傍らには、先ほど放たれた妖圧で壁に激突し、気絶してしまった片瀬桐人かたせきりと。見たところ怪我は無いので大丈夫だとは思うが、脳震盪を起こしている可能性もあるので安心はできない。


(なんだか、申し訳ない……)


 意識のない片瀬を脇目に、込みあげる苦い想いを飲み込んだ。

 ――片瀬がこうなってしまった原因の半分は、私にあった。

 というのが、偶々タイミング悪く、妖絡みの事件が起こる現場に私が居合わせてしまい、それに気づいた片瀬桐人が咄嗟に私を庇おうとして、吹き飛ばされてしまったのだ。


(ごめんね……)


 見ず知らずの人間を守ろうとした少年の頭を、そっと撫でる。

 咄嗟の判断で誰かを身を挺して庇おうとした人間を見るのは久しぶりだった。

 勇敢な少年にほんの少しの感動を覚えながら、再度この事件の渦中の人物たちへと視線を戻す。


 図書館の中心では、土御門が円形の結界を張って相手の攻撃を防いでおり、そのかたわらでは沢良宜を庇う赤木が居た。そしてもう一人、確か合同会議のために来訪していた他校の教師が、結界内で気を失って、倒れていた。


 沢良宜は襲いかかる相手――朽木くちきという同級生に何やら必死に呼びかけているが、彼女が攻めの手を止める気配はない。むしろ、爛々と好機を探っているように見える。


「朽木さん……! お願い、今すぐにやめて! このままじゃ朽木さんの身体が持たないよ!」


 ――随分と、お優しいことだ。

 懸命に暴れる同級生を説得しようとする少女を、私はしらけたように眺めた。

 止めて、と言ったぐらいで止まるものなら、最初からあの『朽木』という女子生徒は妖に憑かれてこんな騒ぎを起こしはしなかっただろう。止めたいのなら、実力行使で押さえつければいいものを、沢良宜花耶は一体なにをしたいのだろうか。

 どこか冷めた気持ちで事の流れを傍観する自身に気づきながら、『ワケも分からず巻き込まれてしまった一般人』を装って、私は目の前で繰り広げられる茶番劇を見守った。


 ――三年の土御門とはクラスメイト故、沢良宜に対する評価は私も何度か耳にしている。

 曰く、彼女は『どうしようもないお人好し』らしい。怜悧狡猾、冷酷無情と名高い土御門が優しげに苦笑したあの瞬間の顔は気持ち悪いほどに柔らかく、砂を吐きそうになったことは記憶に新しいが、あれは一体どういう意味を込めて口にしたのだろうか。知りたいような、知りたくないような心境でそっと口元を手で押える。

 そうこうしている間に、妖に憑りつかれていた朽木の身体に異変が起きた。

 ぼこりと少女の華奢な背中から、槍のように盛り上がって生えかかる『何か』を目にして、沢良宜が無謀にも土御門の結界から飛び出す。


「――沢良宜!」


 制止しようと土御門が声を荒げた瞬間、沢良宜の正面の床から突き出た針金のような触手が彼女を捕らえようと迫る。

 ついでにタイミングが良いのか悪いのか、ちょうど私の横で眠っていた片瀬桐人も意識を取り戻したようで、沢良宜へと伸びる触手を目にした途端、顔を真っ青にして叫んだ。


「花耶!」


 鉄のような色を帯びて硬質化した触手の鋭利な先端が、少女の柔らかな肌を刺突したようとした――その刹那。

 叩きつけるような圧力を持って、豪風がどこからか吹き荒れた。真っ赤な粒子が火の粉のように人の視界を埋める。純度の高い霊子と違い、禍々しさと烈しさを練りこまれたような赤赤としたそれは――妖気の塊、妖圧だ。


「――阿魂あごん!」


 震える沢良宜の唇から紡がれる名を耳にした瞬間、ピクリと無意識に反応する自分が居た。

 目を凝らせば、渦巻く焔のように迸る妖気の中心に、血のような真っ赤な頭が見える。

 気圧で靡く、絹糸のような紅く長い髪。人間に化けている時とは比べものにならない程の気迫と覇気。鍛えぬかれたしなやかな巨躯と、切り裂かれた上着から覗く火傷の痕。

 其処には変化を解いた赤木——否、が静かに佇んでいた。

 今まで抑え込まれていた凄まじい妖気が強風のように迸り、私たちの頬を叩く。

 それは身体に沁みこむような、懐かしい妖気だった。


 天を刺すような一対の角は、私の過去の記憶と違って、まるで焼け焦げたような黒い痕があった。けど、それ以外は二百年前と何も変わらない。

 ほんの少しだけ、胸がざわついた。


(あほらし……)


 いつまで経っても変わらない何かに馬鹿馬鹿しさを覚え、溜息を吐く。隣の桐人も息を溢しているが、恐らくそれは安堵の息だろう。鬼の背中に隠れた少女に、見たところ怪我は見当たらない。

 つくづく愛されたお姫様だと、笑ってしまいそうになった。


(知ってはいたけど……本当に、生きてたんだな)


 人に化けていた時よりも一回り大きくなった背中を見て、以前に聞いた噂の真実を改めて再確認した。酒呑童子――阿魂あごんは生きている。

 二百三十余年前、一人の女性を懸けてかの陰陽師と相討ちにあった酒呑童子は死んだとされていたが、事実は違う。

 実際には、『封印』されていたのだ。土御門の力の全てを持って、ある社の祠に。

 そうして二百年以上の時が経ち、かの陰陽師と酒呑童子が果たし合う理由となった『神の欠片』が再びこの世に生まれ落ち、運命のように社に迷い込んだことによって酒呑童子の封印は――偶然にも解かれてしまい、隠り世は一時期大騒ぎになった。

 伝説の再開だと狂喜乱舞する者も居れば、土御門との決闘をさんざん面白おかしく吹聴した鉄拳制裁が下ると恐怖した者も居た。

 しかし、当の本人はというと、噂なぞどうでもよいとばかりに、前世のことも覚えていない『神の欠片』を今度こそ手に入れるため、毎日毎日飽きもせず彼女に付きまとっているようだ。

 全てを目の当たりにした瞬間、なんともベタでロマンチックな星の巡り合わせだ、と私は鼻白んだ。

 

(しっかし、まあ……まさか、ここまで一途だとは思わなかったなぁ)


 まさか、酒呑童子が二百年経っても同じ人の尻を追いかけるとは私だけでなく、彼を知る者なら誰も思っていなかったはずだ。

 ただ――正直な話。私はこの沢良宜花耶という女性があまり好きではない。

 前世の『彼女』とは面識も何もなかったので、実際にどんな女性だったのかは知らないが、今世は木刀を振り回すような男女である。やたらと正義感が強いことで有名だが、その正義感を振りかざす様は、偶に鬱陶しく感じるものがある。


(――さわらぎ、かや)


 今も、必死に噛みつくように敵に語りかけ続けている少女を、じっと注視してみた。

 いつも事件を解決しようとむやみやたらに首を突っ込んでいるが、あれは当事者らの気持ちを考えたことはあるのだろうか、と疑問を抱く。

 ――一度でも、『助けてくれ』と求められたことはあるのだろうか。

 至極個人的な感想ではあるが、その無駄な正義感は、時に押しつけがましく感じる時がある。

 人や妖が、なぜ彼女の元へ集うのか、私には未だに分からない。

 その凛とした花の如く咲き誇る容姿故か、文武両道なところか、或いは、膨大な力を持つ『神の欠片』だからか。


(いや……私がひねくれているだけか)


 ふと我に返って真剣に思い悩む自身に気づき、なんだか可笑しくなって小さく笑ってしまった。

 自分の心のなんとまあ、薄汚れて、捻くれたものか――。


(――だから、フラれるんだろうなぁ……直す気はないけど)


 と、暢気にもそんな自身に内心で開き直ったときだった。


「――うるさい!!」


 朽木の怒声によって意識が現実へと引き戻される。見ると、朽木の右半身の原型を崩れかかっていた。血管が膨張して肌に浮き、腕が膨らみあがりはじめている。

 変形する右半身が痛いのだろう。ふっふっと必死に呼吸を整えようとする少女の顔はひどく歪んでいた。

 般若のような形相は憎々しげに沢良宜——いや、未だ気絶したままの教師へと向けられ、悲壮感で満ち溢れている。


「お願い、朽木さんもうやめて。駄目だよ、復讐なんて……それで、人を殺すなんて間違ってる! 朽木さん間違ってるよ!」

「うるさいうるさいうるさい! 貴方には関係ないでしょう!? さっさと、先生をこっちに渡して! なんで、邪魔するのよ!?」


 明らかに、した妖の手によって異形の者へと化そうとしている彼女を見て焦ったのか、沢良宜が必死に彼女を説得しようと試みている。だけど朽木は全く聞く耳を持たず——というか、怒りを見せているわけだが、沢良宜が引く気配はない。

 むしろ彼女を止めようと必死になって、『復讐は憎しみしか生まない』だの、『家族が悲しむ』だのと、余計に彼女を煽るような発言を繰り返していた。


 ひやりと、心のどこかが凍てつくような悪感情が、胸の奥底から湧きあがった。


 別に放っておけよ、と思う私は冷たいのだろうか。

 言い訳のようだが、朽木自身が復讐を望んでいるのなら、しょうがないではないか。自分の妹を虐めて、辱めて陥れ、死に追いやった最低男に復讐したくなるのはしかたがない。

 警察に通報して逮捕してもらおうにも、相手の教師はどこぞの政治家の三男とかで、証拠も証言も全て握りつぶされ、事件は闇の中。おまけに妹の死因は紛れもない自殺。それで簡単に片づけられてしまう案件だ。


 法に頼れないなら、直接自分で手を下すしかないだろう。妖などというあやふやな存在に助けを求めるほど、藁にすがる思いで朽木はまで来たのだ。

 確かに殺人は正当な行為とは言えないし、この先のことを考えれば、朽木のためにもならないのだろう。だがそれでも朽木は構わないようだし、あの教師にも非がある。

 それに朽木は以前から、あちらこちらで罠をしかけたり、暗殺に失敗して器物損壊などの問題を起こしてはいたが、それはあの教師だけを狙ったもので、誰かを巻き込んだことはない。

 ここ最近、新宿内で起きている他の事件と比べて、あまりにも不自然な点だらけだったこともあって、ふと気になり調べたので、彼女の裏での努力は知っている。

 そこまで思考がいきついて、はた、と我に返ってみた。


(……あれ、私。朽木さんに賛同してない?)


 まさかの事態に、額を抑えた。段々と悪役みたいな思考をしはじめている自分に少し悲しい感情を覚える。

 しかし、そうこうしている間にも戦いは激化していて、いつのまにか沢良宜が傷を負っていた。


「花耶!」「沢良宜!」


 傷、と言っても腕にちょっと相手の攻撃が掠って血が出た程度なのだが、土御門たちが焦ったように声を上げた。土御門は即座に陣を展開させると、朽木の動きを封じようと、式神を使って彼女の身体から生える羽のような何かを削いだ。

 朽木が怯む。その一瞬の隙に、膝をついていた隣の片瀬が突然に立ちあがって沢良宜の元へと駆け出そうとしたので、足をひっかけて転ばせてみた。


「っへぶ!」


 まだあどけない感じのちょっと凛々しい少年の顔面が、床とキスをして、呻き声を上げる。「何を……」と震えながらこちらを睨む彼を、知らんぷりしながら至極真っ当な指摘をしてみた。


「行っても、足手纏いになるだけだから」

「……っ」


 図星を突かれた彼が傷ついたような顔をした。それに『あ、可愛いかも』なんてちょっとキュンとしてしまったが、知らないふりをして、重くなった腰を上げる。


「……っ、朽木さん。もうやめようよ。こんなことしたって意味ないよ。朽木さんが傷つくだけだよ」


 傷口を抑えながら沢良宜が説得を続ける。そんな彼女を見て、うっすらと苛立ちが沸いた。


 呻き声が聞こえる。朽木だ。

 恐らく、彼女に寄生している妖が彼女を侵食しはじめているのだろう。魂を蝕まれる感覚というのは味わったことはないが、相当なものらしい。

 それでも攻撃の手を休めず、ただただ、あの教師に復讐をするためだけに、朽木は理性を保っていた。大した執念だ。

 しかし。そんなギリギリの狭間で、必死に理性の糸を引き寄せていた朽木に。いよいよ彼女の全身が黒ずみはじめたのを見て焦ったのか、沢良宜が『とどめの一言』をのたまってくれた。


「お願い、朽木さん! もうやめて! 復讐なんて『虚しいだけ』! そんなことしたって、絶対に後悔するだけだよ!」


 ――ああ、こいつ、馬鹿だ。


 『虚しいだけ』だと、全否定された。その言葉を引き金に朽木の怒りが爆発したのか、今までと比べものにならない妖気が放出された。それをいち早く察知した土御門が透明な函のような結界で沢良宜を囲い、阿魂は降り注ぐ触手の刃を腕の一振りで薙ぎ払った。

 こちらにも幾つか取りこぼしが襲い掛かり、私も棚を盾にすることで片瀬と自分の身を守る。

 そうして攻撃の雨が止むと、説得することを諦めたのか、沢良宜が悲痛な感情を耐えた表情で、問いかける。


「朽木さん、どうして……」


 ——あ、もう駄目だ。


 それを見て自分の米神が、ぴくりと反応したのが分かった。湧き上がっていた悪感情がじわりと心を覆いつくそうと膨れ上がる。

 紅く染まった瞳で朽木は沢良宜を睨み上げ、もう一度、と暗示するかのように触手を構えた。

 風切り音を立てながら、刃が飛び出す。その瞬間——気がつけば私は、地面を蹴っていた。


「え、」


 背後で沢良宜花耶たちが息を飲み、驚然とこちらを凝視しているのがなんとなく分かった。ぱらりと、掴んだ触手が手の中で崩れ落ちる。


「だ、だれ……」


 戸惑ったようにこちらを見つめる沢良宜の気配がして、私は酒呑童子の腕に抱かれる彼女へと振り向いた。

 突然現れた私に、さぞ混乱していることだろう。

 自然と、口元が吊り上がったように歪む。


「——キレイごと言ってんじゃないわよ、偽善者ビッチが」


 ――カチンと、空気が凍った気がした。


 彼女自身はもちろん、阿魂も土御門も、ちらりと視線を向けてみた片瀬も、気絶した教師以外、全員が全員、同じ表情をしていた。


「あ、え、あの……」

「さっきから黙って聞いてれば、ぎゃーぎゃーわーわーとキレイごとばかり。正義の味方ぶって自分の意見を他人に押し付けてんじゃないわよ、八方美人」

「は、はっぽ……」


 パクパクと、金魚のように喘ぐ彼女を見て、胸がすくような感覚を覚えたが、同時にやってしまったな、とどこかで我が事ながら呆れる自分がいた。一般人として身を隠すつもりが、今ので私が妖だとバレてしまった。今まで部外者面をしていたくせに、今になって厚い面でしゃしゃり出た私は、『いや、誰だこの人』的なことになっているに違いない。

 しかし、やってしまったものはしょうがない。

 乗りかかった船だ。

 この際、後のことは後で考えて、溜まりに溜まっていた毒を全て吐き出してやろうと腹を括って、ぶちまけた。


 復讐なんて、間違っている? 後で後悔する? 家族が悲しむ? 


 だから、どうした。そんなこと朽木自身が一番わかっている。常人が誰かを殺そうと思った時、最初に覚えるのは不安と恐怖だ。後先考えず、人を殺そうなんて普通の人間には出来ない。

 私の知っている朽木文子は普通の女子高生だった。家族がいて、友達がいて、普通と変わらない価値観も、論理感も持っている。

 復讐へと踏み込む前に、たくさん迷っただろう。何度も踏み止まろうとしただろう。だけど、こんなことは間違っていると、復讐をしたって何も得られないと理解はしていても、彼女はそのまま止まることが出来なかったのだ。


 どうしようもない憎しみを抱いてしまったから――。


 憎悪という感情が消えることは永遠にない。己の大切な者を奪った相手が苦しむ様を見るまで、その感情が収まることはないのだ。

 憎しみの対象があの教師だったなら、尚更だ。度々、部活の対抗試合のためにこの校に来る奴をよく見かけるが、朽木の妹の件で明らかに反省していないことは知っていた。


 復讐したら後悔する? 復讐しなくても後悔するに決まっているだろう。自分の妹は苦しみの中、死んでいったというのに、その原因である教師がのうのうと生きているところを見れば、『殺しておけば良かった』と、どの道、最後に後悔することを朽木は悟ったのだ。


 だから踏み出した、この狂気の道へと。


 全てを分かった上で、のちに自分がどうなるのかを理解した上で、彼女は復讐することを決断した。

 どれほど妹のことを思い、悩み、考え、苦しんだだろう。

 長い長い問答の末、彼女は決めたのだ。復讐するために、人を殺すための『勇気』を振り絞ったのだ。それを――。


「自分の勝手な正義感で推し量る奴があるか。誰にも、彼女の想いを否定する権利など無い」

「な、なにを言って……復讐なんて、否定するに決まってるじゃない!? それで人を殺して良いわけがないでしょう!?」


 馬鹿か、と言葉が溢れそうになった。

 いつ、私が人を殺しても良いと言った。私は勝手に自分の物差しで他人の想いを推し量って、否定するなと言ったのだ。

  誰かを説得しようとするなら、まず相手を理解しようとしろ。朽木の心情を考えようともしないから、相手の神経を逆撫でするようなことになるのだ。そもそも、この女はあの教師が何をしたのか、本当に理解しているのか。

 私からしてみればこの女の方が、自分の正義感を他人に押しつけているにしかすぎない暴君に見えた。


「彼女にはあの教師を殺したい、どうしようもない理由がある」

「そんなの無茶苦茶だわ!」


 墨色の瞳を吊り上げてこちらを睨みつける彼女に、自然と眼差しが冷める。


「キレイごとで回れる程、この世界は単純じゃない」

「そんなこと……!」


 髪を振り乱しながら沢良宜が声を上げた。

 そんな今にも食って掛かりそうな彼女を抑え、酒呑童子こと阿魂が、彼女を守るように下がらせた。


「落ち着け、花耶」

「阿魂!」


 紅い双眸が私を射抜く。気だるげに垂れた瞳ではあるが、不思議と『動くことを許さない』力を感じた。

 後ろで呆気に取られていた土御門もいつの間にか我に返っていたようで、警戒するように愛用の呪装銃を構えている。

 男の背中で納得できない顔をする沢良宜。そんな彼女を宥めるように、阿魂は意外な一言を口にした。


「あながち間違ってねぇだろ」

「阿魂……!?」

「あの女の言ってることは解からなくもない」


 信じられない、と疑うような気持ちを、現に顔で彼女は表すが、酒呑童子の同意はさほど驚くほどのものではなかった。

 沢良宜のことをどれほど好ましく思っていたとしても、奴は所詮、妖だ。殺生など日常茶飯事。人の生き死になど、阿魂にとってはどうでもいい事で。誰が殺そうとも誰を殺されようとも、何も感じやしない。

 長い時を生きる中で、何千何百と人の生き死にを目にしてきたのだ。しかも奴は酒呑童子――最低最悪の戦闘狂。一体どれだけの屍の山を、その手で積み上げてきたのか。誰よりも死に対して無関心でありながらも、誰よりも死と共にあった鬼は、もしかしたら『この世の在り方』というやつを誰よりも理解しているのかもしれない。


(まあ、だからと言ってこっちの味方するなんてことはないだろうけど……)


 諦めに似た感情を心の片隅で抱いた。

 相対する阿魂はにやりと八重歯を覗かせながら笑うと、沢良宜に問いかける。


「だが。それでも、お前はあの女を止めるんだろう?」


 その言葉に軽く目を見張らせると、強い光を瞳に宿らせて彼女は力強く頷いた。


「うん! 確かに、先生は許されないことをしたけど……それでも、どうしてもこれで良いとは思えない。私、朽木さんを止めたい!」

(……なに、この茶番)


 何かよく分からないが、『絶対に負けないんだから』とデカデカと顔に書いてこちらを見る彼女に、胸焼けしそうになった。

 この女は、止めることが朽木のためだと思っているのだろう。復讐すれば朽木は傷つき、後悔し、苦しむ、と思い込んでいるのだろう。ありありと見て取れるその浅慮な思考に、眉を顰めそうになる。


(まあ、いいか)


 どうせ彼女に……いや、彼女に限らず、この『どうしようもない激情』を味わったことのない者からすれば、私の言っていることは、支離滅裂にしか聞こえないのかもしれない。

 初めからそんなことは解りきっていた。だが、それでも言わずにはいれなかったのだ。


 ――に、私の何が解る?


 己の背後に佇む朽木の殺気が肌を刺す。先程の触手から『時』を吸ったはずみで彼女の感情が流れ込んできたので、どれくらい苛ついているのかは伝わってきた。


 私も、朽木と同感だ。私は、私から全てを奪ったあの黒幕たちを一生許すことは出来ないし、八つ裂きにするまで、この激情が収まらない。

 間違っていると解ってはいるが、どんなに長い時を過ごそうとも、この憎しみは消えてくれやしないのだ。


「朽木さん」


 目の前の沢良宜らを無視して、朽木へと振り返った。本人はこちらを警戒しているようで、どこか困惑しているようにも見える。

 突然現れた見知らぬ女に、間違っていると分かっている自分の行為を肯定されて戸惑っているのだろう。そんな彼女に私は苦笑した。


 私にも彼女の想いを否定する権利は無いし、する気もない。むしろ、大いに賛同する。

 けれど――悪いが、今回は水を差させていただく。


 ほんの一瞬。朽木の気が緩んだその瞬間、たった一歩の跳躍で彼女に接近し、その鳩尾に拳を叩きこんだ。

 重い衝撃によって彼女の身体が軽く浮きあがり、背後で沢良宜たちが息を飲んだのがわかった。


「ちょっと、あなた何を……!?」


 耳障りな声を意識から遮断して、目の前の朽木に集中する。

 強い一撃を喰らった朽木の意識が遠のく瞬間、弾みで彼女の身体から『ぶれて』現れそうになった妖を左手で素早く掴んだ。


(捕まえた)


 小さな悲鳴を漏らしたむしが恐怖に満ちた目でこちらを見る。蟲のくせに良い顔をする。


(いただきます……)


 きっと、私は猛攻な笑みを浮かべているに違いない。久しぶりの『御馳走』に口角が上がるのが分かった。

 プリっとした芋虫のようだった蟲は見る見る萎びてゆく。『時』を根こそぎ吸い尽くせば、蟲も、朽木から生えていた異形の触手も全て崩れ落ちた。

 それを目にした阿魂の口から感嘆の息が漏れる。


「ほう」

「……っ、」


 ほんの数秒。不意打ちのような出来事に反応できずに固まっていた者たちが動き出す。一人は戸惑ったように、一人は驚いたように、そして一人は怒声を私に浴びせた。


「朽木さんに何をしたの!?」

「……」


 あまりにも喧しい声に、眉を顰めて耳を塞ぐ。

 振り向いてみると案の上、沢良宜がこちらを強い眼光で睨んでいた。隣の土御門も攻撃はしてこないが、銃を構えたままだった。

 そして唯一落ち着いている酒呑童子は、仕事は終わったとばかりに、呑気に肩を揉み解している。


「朽木さんから離れて!」

(……馬鹿か)


 離れて、と言われて離れる敵がどこにいる。真の阿呆だな、と苛立ち通り越して呆れを覚えた。

 今にも取り乱しそうな沢良宜を宥めるように、鬼士様が彼女の肩を叩いた。


「落ち着け。んな怒んなくても、朽木って女は死んでねーよ」

「でも……!」


 本当に阿魂たちはこの女の何が良いのだろうか。人の話聞かないし、うるさいし、鬱陶しいだけなのだが。

 彼女を『優しくて、芯の通った女性』と周囲は評するが、正直私には理解できない。


「阿魂の言う通りだよ、沢良宜」


 流石、というべきか。土御門家の時期ご当主さまは、冷静だった。

 先程の驚然とした様子は消え、今の彼にはいつもどおりの理知的な光が宿っていた。

 だが、それを分かっていない沢良宜は納得のいっていない顔をしている。


「土御門、先輩……?」

「朽木さんなら、大丈夫だ。憑りついていた『蟲』の気配も消えている、恐らく彼女が滅したんだろう……どういう心境の変化かは分からないが」


 そう言ってこちらに視線を寄越す土御門だが、下手にコチラに手を出すことはしない。けれど油断はできない。


「佐々木さん……だよね?」

「ええ、そうだけど。どうかしましたか? 土御門くん?」


 我ながら白々しい。

 小首を傾げながら、からかい交じりに食えない笑みを送ってみるが、土御門の瞳は依然と冷たいままだった。


「妖であるキミが、何故ここに居る?」

「偶々よ。偶々、図書館に本を返しに来たら、不覚にも巻き込まれてしまったのよ」


 嘘偽りなく、淡々と答えてやる。

 お互いがお互い、探りあうようにその瞳の奥を覗こうとしていた。妙な緊張感が漂い、沢良宜は逡巡したように押し黙る。


「この高校に通っている理由は? 何が目的だ?」

「社会見学」


 嘘にも誠にも聞こえる返答に、土御門は目を細めた。


「……そうか。分かった」

「先輩!?」


 納得したように頷く彼に沢良宜が責めるように問い詰めた。正気かだの、明らかに嘘だろ、だのと失礼極まりないことをのたまう彼女を宥めるように、土御門が彼女の肩に手を添える。


「大丈夫だよ。『蟲喰むしくい』は寄生種ような小さな妖や死骸しか食えない、下級の妖だ。人間に害は無い」

「……蟲、喰い?」


 その名を聞いて、沢良宜が訝しげに首を傾げる。

 対して私は、やっぱりそう思うか、と諦めにも似た感情を覚えた。


 『蟲喰い』は土御門が説明したように下級の妖だ。しかも、妖怪の死骸を喰らうことで忌嫌われている下賤の者として知られている。


 妖の油断を誘うために人間の姿をしており、おまけに逃げ足が早く、小賢しい奴らは食事の仕方も私たち『不可叉』と似ているので、しょっちゅうというか、いつも私たちは奴らと間違われていた。まあ、そのお陰で存在を認識も警戒もされることなく、平穏な毎日を送れているのだが。


 私もこの世界に堕ちた当初は周囲からの指摘で、自分も『蟲喰い』なのかと思い込んでいたが……とんだ間違いだった。私たちはアレらほど意地汚くない。とんだ屈辱だ。

 けど背に腹は代えられない。揉め事を避けるためにも、ここは黙秘するべきだ。


「けど、そうだな……陰察庁の者としては、不審な妖を見逃すことは出来ない」

「……え?」


 予期せぬ切りかえしに、呆けるのも束の間。「あ、まずい」と思った時には既に白い陣で囲われていた。しかもいつの間にか呪銃を構えているし。


(……というか、ちょっと待て。不審って、そこのロリコンストーカー予備軍の赤鬼はどうなんだ? 確かに人間に危害を加えてはいないが、そこの少女に手を出そうとしているぞ?)


 なんて下らないことを考えている間にも、淡い光が足元の陣から競り上がり、土御門の阿呆が銃の引き金を引こうとしていた。殺されることはないだろうが、呪縛する気満々だ。

 流石にまずい、と逃げ出そうとするがここで奴の呪縛を破れば、間違いなく組織のブラックリストに刻まれることになると気付き、咄嗟に躊躇してしまう。そんなことになれば、自由に動けなくなる。

 どうしようかと一瞬のうちに思考するが、最後には迷いを振り切るように自身を囲む陣を破壊しようと淡白い紋様へと腕を伸ばした。


(もう、この際。しょうがない)


 そうして指先があと少しでソレに触れようとした刹那、「やめろ」と誰かの怒号が轟いた。


「桐人?」

「……え?」


 意外なことに、怒鳴り声を上げたのは今まで蚊帳の外にいた片瀬桐人だった。その顔はどこか厳しげで、怒っているようにも見える。


「やめて、ください……お願いします。土御門先輩」

「ちょっ、ちょっと桐人? なにを言って……」

「……幾ら怪しいからっていきなり、危害も加えられてないのに呪縛するのはどうかと思います。それに、俺たちは結果的に彼女に助けられています」


 その言葉に私は少なからず驚いた。まさか、今ので助けたと思われていたとは。

 必死の形相で懇願された土御門は、強い眼光で己を射抜く桐人を見て、次に私を観察するように視線を寄越すと、思考するように指を顎に添えた。


「お願いします。彼女を、放してあげてください」

「……桐人」


 厳しい顔で同じ台詞を繰り返す片瀬を、眉尻を下げながら見つめる沢良宜。その顔はどこか戸惑っているようにも見えた。

 なぜか頑固として反対の意を示す片瀬に、賛同するかのように阿魂も口を開く。


「別にいいんじゃねぇか? 放っといても」

「阿魂まで……?」


 動揺する沢良宜に、どこか諦めたような顔をする土御門。

 こういうことには面倒臭がって首をつっこまなさそうな男が、私を助けるような発言をしたことに、私も少なからず吃驚してしまった。

 だがそんな自分らの様子などお構いなしに、相変わらず自由な鬼は後押しするように言葉を続ける。


「土御門の糞ガキが言ったように、こいつは蟲喰いだ。何か企んでいようにも、出来やしねーよ。見逃しても大した問題にはならねーだろ……面倒くせーから、もう放っておけ」


 侮るような口調に少しムッとするが、そのまま大人しく彼に弁護をされる。

 私が誰か気付いていないのか、忘れているのかは知らないが、声を大にして言ってやりたい。その蟲喰いをのはどこの誰だ。


「……しかたないな」

(え……)


 疲れたように溜息を吐く土御門。気だるげに濡れ羽色の髪をかき上げながら、私を囲っていた陣を解いた。とりあえず庇ってくれた片瀬に礼を言うが、……これは見逃してくれるということなのだろうか。


 いや。何にせよ隙ができた今、これ以上なにかをされる前に、いち早く退散した方が良いだろう。

 そう思って一歩足を後退させた瞬間、目敏くも土御門が、その眼鏡の奥に潜む鋭い眼光をこちらへと向けてきた。


「……一応、言っておくが。次、少しでも可笑しな動きを見せれば、」


 肌を突き刺すような殺気が、室内の温度を下げた気がした。奴の隣に立つ沢良宜も、一瞬怯えたような顔をしたのが見えた。


「その場で滅する」


 流石は名門土御門家と言えばいいのだろうか。それとも陰察庁などという随分と物騒な職場に勤めているからだろうか。放たれる殺気と眼光は子供とは思えないほど鋭く、冷たい。

 最初は刺々しかった子供が、最近少女に絆されて随分と柔らかくなったと思っていたが、こういう容赦のなさはそのままかと思わず口元が引き攣りそうになる。

 だがその対応は、陰陽師としては正常なものなのかもしれない。


(……感情になんて、身を任せるもんじゃないな)


 ほんの少しの後悔が今更滲んできても、後の祭り。

 こうしてワケも分からぬまま、あれよあれよという間に忠告付きで解放され、長い一日が終わりを告げた。


 ――この日の私は、本当にどうかしていた。

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