9.

 病室前。

 室内に戻れず、かと言ってこのまま家にも帰れず。からかさは、呆然と廊下に突っ立っていた。


「片瀬殿……」


 知らず溜息が漏れる。

 先程の会話が脳裏を過り、からかさは萎れた花のように項垂れた。


 ――『事件に巻き込まれないようにしたいのなら、何を言われようが妖怪との関わりを一切絶てば良い。身を危険にさらすより、あえて関わらない方がましだろう?』


 やはり、自分は桐人と関わらない方が良いのだろうか。

 頻繁に事件に巻き込まれる桐人。その騒動の元を辿れば、殆どはからかさたちの頼み事から始まるものだった。


 くだらないこと、ちっぽけなこと。桐人の押しの弱さを良い事に、毎日押しかけては世話をやいてもらった。

 それが、いけなかったのだろう。 

 しかし、からかさは言い訳をするように、誰にともなく心の中で呟いた。


 ――けど、居心地が良かったのだ。


 瞼の裏に映るは日常の光景。からかさだけでなく、他の妖怪たちも桐人を巻き込み、彼をよく困らせていた。

 だけど皆どこか楽しそうで、生き生きとしていたのだ。

 桐人にはよく怒られた。怒鳴られた。叱られた。小言もしょっちゅう貰った。だけど、最後には仕方なさそうに笑ってくれた。それを良い事に、皆がまた調子に乗ってしまうわけだが。


 それが、楽しかった。

 だけど、それは、いけないことで――。


(……片瀬殿)


 からかさは、目の前の扉をじっと見つめる。

 室内からは何も聞こえてこない。桐人は、一体これからどうするつもりなのだろうか。

 思い悩むが、考えたところで結局からかさには何もできない。ひっかきまわすだけで終わるのがオチだろう。


 あの陰陽師も言っていたではないか。これ以上は何もできない。してはいけない。自分も、桐人も――。


 はあ、と大きな溜息を漏らしながら、からかさは足を一歩踏み出した。

 もう、帰ろう。

 もやもやとした気持ちを傘の奥に仕舞って、ケンケンと跳ねだす。

 そうやって、帰路を辿ろうとした時だった――。


「あいたっ!」

「え゛?」


 廊下の曲がり角。何かとぶつかってしまい、目を白黒させる。

 見ると老人が車椅子から転がり落ちていた。横倒しになった車椅子と足元に転がる大きな荷物。

 からかさは慌てて膝を着いた。

 急いで老人を支え、その腰を椅子に戻す。次いで落とした大きなボストンバッグを手渡した。


「す、すすすみませんでした! 大丈夫ですかご老体!?」

「いえいえ。大丈夫です……て、あれ?」


 かちり。目尻の下がった双眸と目が合い、からかさは硬直した。


(し、しまったあああああ!!)


 頭上に雷が落ちる。

 人間の前に姿を曝してしまった。

 己の失態にあたふたとしながら、どうすれば良いのか分からず唐傘は頭を抱える。


「周防さーん! 今、倒れたような音が聞えたんですけど大丈夫ですかー?」

(ひィィィ!!)


 そうこうしている間にも音を聞きつけた看護師がこちらに向かってきているのが見え、更なる悲鳴を脳内で上げる。

 どうしようどうしようどうしよう。

 逃げるか? いや、だが今動けば、確実にあの看護師もからかさに気づくだろう。

 かと言って唯の傘のふりをしようにも目の前の老人には、既に普通の傘ではないことがバレている。八方塞がりだ。


(ぜ、絶対絶命のピンチ……!)


 「か、片瀬殿ぉ!」と情けなくも無意識に叫びそうになった。今さきほど距離を置こうと決意したにも関わらず、だ……。


 腰幅の良い女性が段々とからかさへと近づいてきている。

 終わった。気がつけば看護師が目の前で仁王立ちしており、唐傘は灰と化しそうになった。


 ――ごめんなさい、片瀬殿。雨の中、私が貴方の肉体を包み込む日はもう来ないでしょう……。


 なんて、哀愁漂う顔で遠い目をすれば、「るーるーるー」と切ないメロディがバックに流れた。


 「あら、この傘は?」とからかさを怪しげに見る看護師。そして、その赤い傘へと手を伸ばす老人。


  ――ああ、きっと私は死ぬんだわ。平紙を「あーれー」とクルクル剥されて裸にされて、そして……。

 見える。三途の川が見える。と、そんなふざけたことを心中でのたまいながら、唐傘が覚悟を決めた時だった。


「あー、これね。珍しいでしょう? 帰りに見つけたもんでね。デザインも面白いし、ついつい買ってしまったんだ」

「まあ……随分と大きいんですね。私、こんなの初めて見ました」

「ふふふ」


 ――あれ?


 想像していたものとは違う会話が流れ、目を瞬かせる。


(これは、一体どういう?)

「あれ……今、動いたような」


 ぎくり。驚いたようにこちらを見つめる看護師に、唐傘は冷汗を垂らした。


「ああ、からくりだよ。随分と手が込んでいるだろう?」

「え……」


 これはもう確実に終わった。そう思った唐傘だったが、朗らかに笑い飛ばす老人の言葉に助けられ、困惑する。

 もしかして、この老人は自分を庇ってくれているのだろうか?

 そんな疑心を抱いていると、誰かが女性を呼ぶ声が響き、看護師が反応するように後ろを振り返る。


「山口さん! 手が空いたらこっちもお願い!」

「あ、はい!」


 「すみません。周防さん! 行きましょう」。そう言って慌てたように車椅子へと手を伸ばした看護師に老人は首を振った。


「良いよ。此処まで送ってもらえれば十分だ。病室ぐらい自分で戻れるさ」

「でも、荷物が」

「二日分の着替えだ。軽い軽い。この傘もそんなに重くないしね」

「いえ、でも」

「急患がたくさん来ているんだろう? そっちを優先しておくれ」


 頑なに手を拒む老人に看護師は申し訳なさそうに頷くと、急いで元来た道を走りだした。


「すみません、周防さん。後でまた様子を見に来ます!」

「はいはい。待ってるよ」


 目尻を緩ましながら老人は手を振った。

 白い後ろ姿が廊下の向こう側へと遠ざかってゆく。奥からは、騒がしい声がからかさたちの元まで轟いてくる。

 もしかしたら、蟲事件に巻き込まれた被害者が搬送されてきたのかもしれない。


(これは、いったい……)


 兎にも角にもあの看護師が去り、廊下に残されたのはからかさと老人だけだった。


 これは逃げていいのだろうか。


 どうすれば良いのか分からず棒立ちする唐傘。

 そんな奴へと振り返ると、老人は茶目っ気たっぷりにウィンクをした。

 それを見て僅かに瞠目すると、「何か言わねば」と焦燥感に駆られて、からかさは口を開く。


「あ、あの……ありがとうございます?」

「いえいえ、どういたしまして。凄く困ってたようだけど、これで良かったのかな?」

「あ、はい。それはもう」


 やはり助けてくれたらしい。

 予想外の出来事に戸惑いを覚え、からかさは疑問を抱いた。


「お、驚かれないんですか?」

「うーん。どうだろうねー」


 なんとも抽象的な表現である。

 掴みどころのない口調を持つ老人にからかさは目を瞬かせた。見たところ、普通の人間だが呪術関係者だろうか。

 にしたって霊力はあまり持っていないように見える。


「こういう不思議な目にあったのは初めてじゃないからね」


 朗らかに笑う老人。どうやら妖怪を見るのはこれが初めてではないらしい。

 それに「おや」と眉を上げながら問いかける。


「以前にも妖を見たことが?」

「さあねぇ……桜の精じゃないかって今は思っているよ」

「ほう……桜の精ですか?」


 ふふふと笑みを零す老人にからかさは首を傾げ、なかなか興味深そうな話だと更に質問を重ねようとした。

 だがその前に「ぐうぅ」と腹の虫が鳴ってしまい、思わず沈黙する。そういえば今日のバタバタのせいで夕飯をまだ食べていなかった。

 今になってその事実に気づいたからかさ小僧。目を丸くした老人は、くすりと笑うと、「良かったら饅頭食べていくかい?」とからかさを誘った――。





「ほう。栗饅頭ですか……」

「うん。口に合うと良いんだけどねぇ。あ、お茶は?」

「いただきます」


 先程の廊下から少し歩いた所の病室。

 個室となっているそこで、からかさは栗饅頭を幸せそうに味わっていた。

 寝台の上に座る老人と相対するように、客椅子に座ってお茶を啜る。

 美味い。しっとりとしてて、栗もずしりと存在を強調している。実に上品な味をしたそれに満足げに頷く。


「随分と大きな荷物を持っていらっしゃったが……周防すおう殿は旅行にでも行かれていたのですか?」

「実家にね。桜を見に毎年、一年に一回は必ず帰省しているんだよ」

「ほう……」


 その言葉にからかさは首を傾げた。今はまだ夏のはずだが。


「桜ですか?」

「うん……季節外れの桜さ。気まぐれに毎年、咲く時期を変えるんだよ」


 それはまた珍妙な。妖か何かが悪戯しているのだろうか。

 そういえば先程も桜の精がどうとか言っていたな、とからかさはふと思い出しながら、老人の話を聞いた。


「集落の山裏に咲く大きな桜の木でね。何故か皆は気味悪がって近づかなかったけど、僕はよく其処で遊んでいたんだ」

「それはそれは」

「従兄との秘密の遊び場だったんだよ」


 楽しそうに話す老人にふんふんと興味津々に耳を傾けるからかさ。自然と話が弾み、口も滑る滑る。


「従兄がいらっしゃるのですか?」

「いや、表向きはそういうことになっていたけど。正確には異母兄弟」

「え゛……」


 まさかの事実。とても複雑な家庭のようで、からかさはたらりと冷汗を垂らした。

 この話には触れない方が良いだろう。とりあえず話題を変えねばと更に質問を重ねる。


「こ、今回もその秘密の遊び場へと従兄殿と一緒に?」


 話題を変えようとして、何故か結局、従兄のことに触れているからかさ。馬鹿である。

 そして案の定、地雷を踏んでしまった。


「いや……病気で、高校の時に亡くなっちゃってね」

「それは……」


 まだそんなに若いうちに亡くなっていたとは思わず、からかさは申し訳ない事を聞いてしまったと謝罪した。老人は気にした様子もなく、静かに首を振る。


 また、失敗してしまった。からかさは落ち込んだようにしゅんと身体を萎ませた。それを見て老人は先程の楽しい雰囲気を取り戻すように口を弾ませる。


「だから、あの木には色んな思い出があるんだよ」


 懐かしそうに目を細めながら、過去を振り返った。


「本当に素敵な所だったよ。昆虫がいっぱい居て。木に登ったり、川辺で遊んだり……あと、美人も居たな」

「ほっ、美人ですか? もしや例の桜の……」


 美人という言葉にからかさが食いつき、わくわくと老人に質問を重ねた。


「うん。結局、桜の精ではなかったけど……見間違うほどの美人だったよ。一回、熊と遭遇したところを助けられてね。いや、見事な拳だった」

「ゴリラ系マッチョですな。かなり凛々しそうな美女だ」

「いや。華奢な体系をしていたよ」


 ふんふんと想像を膨らますからかさに、軽く訂正が入れられた。


「不思議な人だったなぁ。一見たおやかで、凄く優しそうだったんだけど。中身は結構冷たくて、詐欺とか脅しとか凄く得意にしてたよ……子供には優しかったけど、よく山に入った大人が顔を青くしながら逃げかえっていってね……いや、子供で良かったよ!」

「ほう! 仮面と鞭が似合いそうな女性ですな!」


 「ふふふ」と昔の不穏な思い出をなんてことのないように笑い飛ばす老人と、何やら可笑しな発言をしている唐傘。微妙に何かが噛み違っているが、それを二人が気にした様子はない。


「しかし、何故そのような美女がそんな所に? 集落の方ですかな?」

「いや、外から来たみたいでね。探し物をしてるんだって」

「探し物ですか?」


 そんな田舎に探し物とは。一体その美女は何を探していたのだろうか。

 目を瞬かせるからかさにちょいちょいと耳を貸すように老人が手招いた。従うように耳を傾ければこっそりと囁かれる。


「不老不死の心臓だってさ」

「ほう?」


 それは聞いたことのない代物だ。

 不老不死というのはどういうことだろうか? それを手に入れれば不老不死になるのか、それともその心臓の主が不老不死なのか。

 どの道、妖が悪戯に作り上げた迷信だな、とからかさは心の片隅で思った。とても非現実的な話である。


「信じてないね? その顔は」

「え、いや……」


 ぎくり。図星だ。

 罰が悪そうに視線を泳がすからかさを、老人はふふふと笑った。


「今は季節を選ぶようになってしまったけど、昔はあの桜も一年中咲いていたんだよ」

「ほっ! 一年中ですか?」


 それでは毎日が花見日和ですな。

 きらきらと目を輝かせる唐傘に、老人は懐かしそうに目を細めながら故郷の話を聞かせた。


「そんな不思議な木だったから、きっと皆は気味悪がっていたんだろうね」

「そんな、もったいない……あれ? ってことは、不老不死の心臓は」


 「まさか、本当に?」と大きな期待を抱くからかさ小僧。だが老人は困ったように、眉尻を下げながら笑う。


「いや、結局違ったよ。あれはね、僕の従兄が咲かせてたみたいなんだ」

「え!?」


 驚愕の事実。まさか人間がその桜を咲かせてたと言うのか。

 からかさはポカリと間抜けにも顎を落とし、己の耳を疑った。


「母親が特殊体質だったみたいでね。その体質を受け継いでたんだ。元々煙たがれてたんだけど……一度だけ花を咲かせる瞬間を見られてしまって……それ以来、親戚だけじゃなく、村中に気味悪がられてしまった。素敵な能力だったのに……親に“あいつとは関わるな”ってよく叱られたよ。妖の子だ、なんて言ってね」

「それは……」


 昔の田舎だ。しかも、集落となると妖怪の存在はそれとなく悪しきものとして信じられているし、村人は思い込みが強い。ちょっとしたことで事を誤解することは多いが……。


「あの、唐突な話ですが……従兄殿は身体が弱かったりは?」

「ああ。元気に走り回ってたけど……本当は心臓が弱かったらしい。中学に上がる頃、発作を起こして直ぐに都会の大きな病院へと移されてたよ」


 瞼を伏せた老人は、どことなく悲しげな顔をしていた。

 からかさは老人の言葉を聞いて確信する。


(半妖……)


 妖と人の間にだって子供は出来る。

 だが種族の違い故か、遺伝子が上手く融合せず。生まれてくる胎児は病弱であったり、異形の姿をしていることが多い。

 稀に丈夫な体で正常に生まれてくる者は居るが、それは本当に稀だ。

 恐らく村人の見解は間違っていない。その老人の従兄は妖の母親から生まれたのだ。ならば周囲に煙たがれていたことも納得できる。


「それで従兄殿は?」


 ついつい気になってしまい、からかさは恐る恐る問いかけた。


「その発作で病院に送られて、それっきり。見舞いに行こうにもことごとく反対されて、どこの病院かも教えてもらえなかった。会いたくても会えなかったんだ」


 喉が渇いたのか、湯呑みへと手を伸ばし、老人が喉を潤す。


「あいつが居なくなってから桜は短い間にしか咲かなくなって、いつの間にかあの美女も見なくなって。そうなれば、自然と学校の友達と遊ぶようになってあっという間に三年。高校受験で、薄情にもあいつのことは頭からすっぽ抜けてたよ」


 はは、と空笑いをする老人をからかさは痛ましげに見た。

 なんと言えば良いのか分からず、ただ黙って老人の話に耳を傾ける。


「高校なんか東京の全寮制に絞っちゃってね。何故か親だけじゃなくて、親戚中から期待を向けられてしまった。うちから『エリート』が出るかもしれないってさ。村人の注目もそりゃあ浴びた浴びた」


 「高校の一つに随分と大袈裟な反応だったよ」と、あの頃のことを思い出しては苦笑した。

 そして一つ間を開けると、静かに言葉を落とす。


「あの頃はどうしても東京へ行きたくて一心不乱に勉強したよ。でも試験の前日、僕の見送りのために家に来ていた親戚のおばさんと母の話を聞いてしまったんだ。『あいつ』が危篤状態だって、さ」


 からかさが息を飲む。

 「もう、一日も持たないだろう、って聞いたときは、本当に頭が真っ白になったな」。そう呟いた老人の口角は上がってはいるが、その実、瞳は悲しみで揺れていた。


「会いに、行かれたのですか?」


 からかさが問う。だが老人は困ったように笑った。


「大事な試験があったからね。そんな簡単には行けないよ。でも、勉強をしようにも集中できなかった」


 自分には大事な試験がある。之は人生の分かれ道だ。そう自分に言い聞かせて、まだ子供だった老人は机に向かった。

 東京へ持っていく荷物は用意できている。あとは復習を繰り返すだけだ。だけどノートの文字を追っても内容は頭に入ってこずに素通りし、従兄のことが何度も頭を巡った。


「……そうやって、あいつのことが頭から離れなくて。悩んて悩んで。その末に、家を飛び出した」


 ――試験を投げ出すことは出来ない。自分は家族の期待を背負っているんだ。


 それを裏切ることなんてしたくないし、自分も高校には行きたかった。

 だけど、このまま従兄に会えなくなるのは嫌だった。せめて『あいつ』が死ぬ前に、もう一度だけ会いたい。


 二つの感情がせめぎ合い、少年は堪らずに外へと飛び出した。


 頭を空っぽにしたくて、雪の中を走った。こうすれば迷いや余計な感情は消えるのではないかと、そう思ったのだ。


 あの桜の木の元へ行こう。


 三年も足を向けなかった其処へ行けば何か答えが出るんじゃないか。根拠もなくそう思った。半分は希望的観測だ。


 走って走って走って。獣道を進み、山の頂上へと辿りついた頃には汗だくになっていた。


 はあはあ。

 荒れた呼吸を必死に整えようと膝に手を置く。足はガクガクと震えていた。こんなに走ったのは久しぶりだ。


 汗で濡れた前髪を風が揺らす。同時に視界の端で桜の花弁が舞ったがして、少年は顔を上げた。途端、息を飲む。

 はっと、目の前の情景に目を奪われたのだ。


 ――天女がいる。


 風が彼女の黒髪を弄び、月に照らされた琥珀色の瞳が、少年を射抜いた。


 ――随分と、成長したわね。


 そういう彼女は変わっていない。

 透き通るような白い肌に、艶やかな黒髪。『彼女』は三年前と寸分も変わらぬ姿で、其処に立っていた。


 白いブラウスに、黒いロングスカート。随分と寒そうな格好をしているのに、顔色も変えず平然としている。

 桜が咲いていない今、雪景色の中に立つ彼女は冬に舞い降りた天女のように見えた。

 雪女と形容しても良いのかもしれないが、少年は天女の方が彼女に近いと思ったのだ。ただし、中身はどうかは分からないが……。


 ――あの子は?


 女が首を傾げる。

 さらりと濡れ羽色の髪が白い首筋へと流れるのをどこか上の空で見つめながら、少年は吸い寄せられるように全てを話した。

 従兄が居なくなってからのこと。受験のこと。そして奴が今、危険な状態にあること。自分の想いも、苦しみも全て。


 何故かは分からない。

 それほど追い詰められていたのか、或いは彼女に不思議な力があるのか。気付けば、胸の奥に渦巻いていた感情を全て吐き出していた。


 ――どうすればいいか分からないんだ。


 従兄に会いたい。一日も持たないのなら今すぐ会いに行きたい。だけどそんなことをすれば試験には間に合わない。

 試験を投げ出せば家族を裏切ることになる。そんなことはしたくないし自分も高校には行きたい。

 だけどこのまま一目も会えず従兄に死なれたら、自分は後悔をしてしまう。


 ――じゃあ、会いに行けばいいじゃない


 当たり前のように零す彼女に「だから、それは出来ないんだ」と叫んだ。


 此処から東京の試験会場まで六時間。明日の自分の到着予定は、早くても昼の一時だ。試験はその一時間後に始まる。

 さきほど盗み聞きした母たちの会話から、従兄が何処に入院しているのかは分かっている。其処は会場からまた離れた場所にあった。奴の所へと向かえば試験に間に合わなくなる。それは出来ない。そんな、家族を裏切るような真似をするなんて無理だ。


 ――じゃあ試験、受ければいいじゃない


 先程と同じトーンで実に投げやりに答える彼女。

 いつの間にか桜の木の枝に座っており、膝に頬杖を着くその姿に少年は苛立ちを覚えた。

 感情のない瞳を睨みつけながら、理不尽にも彼女を責めてしまいそうになる。


 ――だって、やらなかったら後悔するんでしょう?


 ああ、そうだ。試験を投げ出せば後悔するし、従兄にも会いに行かなかったら後悔する。

 どっちもやらなければ後で後悔するのは分かっている。


 ――じゃあ、やれば?


 その言葉を聞いて、疲れたように溜息を吐く。

 そうだな。まず試験を受けて、それからあいつに会いに行こう。試験は遅れたら確実に落ちる。従兄の方は試験を受けた後でも、会えるかもしれない。


 そんな選択をしようとした時だった。


 ――馬鹿?


 疑問形で失礼な事を言われた。

 むっとして彼女を睨み上げる。では、どうすれば良いのだ。


 ――危篤なんでしょう? 一日も持たないって……君。明日試験が終わる頃には確実に死んでいるわよ。あまり希望的な観測は持たない方が良い。明日の午後まで持つ可能性は限りなく低い。


 僅かな望みも打ち砕く彼女にぐっと息が詰まる。

 ならば、諦めるしかないのかと歯を食いしばった。このまま、会えずに終わってしまうのだろうか……。


 ――そんなの嫌だ。


 駄々をこねる子供に、女が溜息を吐く。


 ――だから、行けばいいじゃない。


 行くって。このまま試験を投げ捨てて?


 ――私がいつ、そんなことを言った。両方行けばいいじゃないって言ったでしょうが。ほら、今すぐに。


 しっしっと手を振る女に、少年は眉を顰めた。


 今はもう既に夜の九時を過ぎている。こんなに遅くまで動いている電車などこの田舎には無い。車など運転できないし、大人に頼んでも反対されるのは目に見えている。

 頑張って新幹線の駅まで自転車で走っても、最終には間に合わない。

 此処から東京まで今から向かうなんて無理だ。


 ――ここから三駅分歩いた所のバス停。


 ぴたり。その言葉を聞いた瞬間、少年はハッと我に返った。

 そうだ、その手があった。


 ――確か十一時発の夜行バスが無かったかしら?


 何故、気付かなかったのだろうと少年は思った。

 新幹線と違って、確か夜行バスは十二時間も東京まで時間がかかるはずだ。

 新幹線よりも時間はかかるがそのバスに乗れば朝の十一時には東京に着く。そしたら当初の予定よりも時間ができ、病院にも行けるようになる。


 もしかしたら、間に合うかもしれない。


 光明が差した気がして、少年はがばりと勢いよく女に頭を下げた。


 有難うございます。そう言って顔を上げた少年の目に暗澹とした色はもはや見えず、其処には強い意志が宿っているように見えた。

 先程まで渦巻いていたはずの混沌とした感情はもう何処にもない。


 其処からは無我夢中。少年は、荷物を取るために自宅へと走り出した――。


 ♢  ♢


「そ、それで間に合ったんですか?」


 老人の話に聞き入っていたからかさがハラハラと問いかける。

 それに対して老人はその少年時代へと思いを馳せるように、胸に手を当てた。


「うん。試験には間に合ったけど……結局、彼の死に目には会えなかったよ」

「そんな……」


 まさかの結末にからかさは衝撃を受けた。目ん玉を落っことしそうなほどに瞼を限界まで上げ、ヨロヨロとよろめく。

 「ソコは試験には間に合わなかったけど、死に目には間に合ったことにして欲しかった」と、身勝手な希望的観測を思考する。


「……朝には息を引き取っていたらしい。どの道、間に合わなかったんだ」


 続く言葉にしょんぼりとからかさは落ち込んだ。まるで自分のことのように話を受け止めるからかさに苦笑しながら、老人は言葉を続ける。


「でもね。行って良かったと今は思ってるよ」


 そう言った顔には嘘は無い。晴れやかな笑顔で老人は言った。


「間に合わなかった、と知って最初に我が耳を疑ったけどね」


 「あまりにも穏やかな顔で眠っていたからさ」と老人は笑う。

 思い出すのは従弟の担当を務めていた看護師が、自分へと差し出してきた段ボール箱。


「俺宛ての手紙を毎日、日記のように書いてたって知ったときは本当に驚いたなぁ」


 自分の元に、届くことのなかった手紙。

 紙一杯になった箱を見て少年は泣いた。

 何故、一枚も手紙を送らなかったのだと自分を罵った。何故、無理をしてでも、親の反対を押し切って会いに行かなかったと悔やんだ。許せなかった、自分が。悲しかった、二度と彼に何もしてやれない事が。


 その声を聞きたかった。その手を取ってやりたかった。


 ――お前に出会えて、良かった。


 伝えたい言葉はもう届かない。


 残ったのは手から零れ落ちるほどの大量の手紙。

 たくさん泣いた。癇癪も起した。周りには本当に迷惑をかけた。

 それでも優しく背中を撫でてくれる看護師たちを前に、感謝をした。村にいた時と違って、きっと穏やかで優しい毎日を此処で『あいつ』は送れたのだろう。でなければ、あんな安らかな顔をして眠ったりはしない。

 それだけは良かった、と少年は泣きながら思った。


「誰からか。僕の受験のことも聞いてたみたいで、応援のエールとか手紙に書かれててね。もうねぇ……複雑な気持ちだったよ。悲しみと喜びがごっちゃまぜになって」


 どばー。涙が滝のように唐傘の目から零れ落ちる。

 なんだ、この切ない話は。


「あの日は本当に散々だったよ。近道しようと獣道を歩いたら転んで怪我してボロボロになって、途中で財布は落すし、道には迷うし。試験も間に合ったは間に合ったけど、危うく落ちるところだったよ。ああ、あと勝手に家を抜け出したものだから村が随分と大騒ぎになっててね。家に帰ったら凄い雷が落ちてきたな」


 でも、後悔はしていないと老人は言う。

 あの道程も無茶も全て、結局、彼の死に目に間に合わなかったことで無駄になってしまったが、頑張って良かったと老人は笑った。


「きっとね。あのままどっちか一つだけを選んでいたら、僕は一生後悔したままでいたと思う。それこそ今と比べならない程にね」


 ほんの少しの後悔はある。だが、あの日あの選択をしていなかったら老人はきっと更にもっと後悔をしていた。それこそ一人では背負いきれない程に。


「最善を尽くしたとはいえない。その気になれば前にもっと沢山のことが出来たはずだからね。でもほんの少しでも、何もしなかったよりは良いんだ。たとえ、それが唯の自己満足だとしてもね」


 朗らかに笑う老人に、からかさは「そういうものなのか」と難しい顔をした。


 頭に浮かぶのはからかさが最も懇意にしている人間――片瀬桐人のことだ。

 彼も、そして自分もまた思い悩んでいた。自分たちにはやりたいことがある。それをやらなければきっと後悔すると、心のどこかで理解していた。


 だけど、からかさは思う。そのやりたいことは誰かに迷惑をかけるのではないか? 誰かを傷つけるのではないか? 


 からかさは桐人を。そして、桐人は少女を救いたい。

 それはとても良い事に聞こえる。だけどその良い事は、響きが良いだけで、結果的に誰かを傷つける行為ではないのか?


「自己満足は時に人を傷つける」

「え……」


 まるで人の思考を読んだように、的確な言葉を向けられ、からかさは一瞬戸惑った。


「君も何かを悩んでいるんだね」


 苦笑する老人に唐傘は俯く。どうやら顔に全て出ていたらしい。自分はつくづく間抜けな妖怪である。


「誰しも、生きていれば他人を傷つけることなんて必ずあるさ。いつだって、誰も傷つけずに何かを成し遂げることなんて出来ないんだから……」


 達観したように老人が口を開く。だけど最後にそっと、その言葉だけは大事なことのように付け足した。


「だけど、傷つけるのはとても悪いことだ」


 老人もたくさん、色々な経験をしてきたのだろう。それは従兄のことだけではない。きっと色んなことを知り、色んな結末を迎えたのだ。


「大事なのは、どうしたら誰も傷つけずに済むかを考えることじゃないかな?」

「どうしたら……?」


 誰も傷つかない方法なんて、ありはしない。皆が皆、それぞれ目的と意思を持って動いているのだ。

 自分のやりたいことを優先させれば、自然と誰かの邪魔をすることはある。

 だけど、だからと言って思考することをやめてはいけない。誰かを傷つけないで済む方法なんて、見つかるまでは「無い」としか言いようがないのだから。


 老人は言った。


「出来るか出来ないかの問題じゃない。あとで、後悔するからやるんだ」


 それはからかさが求めていた答えだったのかもしれない。

 老人の言葉が溶け込むように、頭の中に入ってくる。


「君のそのやりたいことも、そうなんじゃないのかい?」


 投げかけられた質問に、からかさは俯いた。

 いやはやと頭を振る。


 ――ああ、全く、


「まいった……周防殿には、適わないな」


 ――片瀬殿、片瀬殿。どうやら諦めるにはまだ早いらしいですぞ。


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