10.

 寂たる病室の中――桐人は何をするわけでもなく、唯、呆然と天井を眺めていた。


 何も考えられない。いや、考えたくない。

 グルグルと胸に疼きまわる感情に蓋をして、頭を空っぽにしようとした。


(……動く気になれない)


 フラッシュバックしそうな光景から必死に意識を逸らそうと寝返りをうつ。

 だけど落ち着かなくて、結局最後には胴体を起こした。そんな時だった。


 ドドドドドと不審な音が聞えてきて、びくりと桐人の肩が揺れた。


(なんだ? まさか……敵襲!?)


 蟲がついに此処まで来たのか、と驚愕しながらも咄嗟に立ちあがり、外の様子を伺おうと足を踏み出した。瞬間。


「片瀬、どのぉぉぉぉおおおおお!!」

「ぐっは……!」


 ズドン。《ミサイル》が扉をこじ開けて、此方へと突進してきた。

 腹が痛い。思いっきり鳩尾に入った。


「片瀬殿! 片瀬殿! こんなことをしている場合ではないですぞ!! 何時まで蹲っているつもりですか!?」


 ――いや、お前のせいだよ。


 痛みに呻きながら寝台の上へと逆戻りする。


 こんなこととは何だ。いきなり人の急所に突っ込んできて。傷口絶対に開いたぞ、コレ。と、桐人は怒鳴り返したかったが、あまりの痛みに口を開けなかった。

 冷や汗がだらだらと、額を伝う。


「ほらほらほら!」


 ぐいぐいと人の服を引っ張るからかさ。

 その強引さと理不尽さに怒りを覚えて、桐人は文句を返した。


「阿保か! この腹で外に出られるわけねぇだろ! 馬鹿かお前!? てか、どこに行く気だよ!?」

「片瀬殿はこのままで良いのですか!?」


 外へと連れ出そうと、ギリギリと悲鳴をあげる病衣をひっぱる唐傘と、寝台に必死にへばりつく桐人。

 その攻防は口喧嘩をしている間にも続いた。


「良いって何が!?」

「菜々美さまとやらのことです!!」


 叫ぶからかさに、桐人はひゅっと息を飲んだ。


「片瀬殿。本当は助けたいのでしょう? お友達のためにどうにかしてやりたいのでしょう?」

「……っ」


 スバスバと核心を突かれ、なんて返せば良いのか分からず桐人は唇を噛んだ。

 だけど寝台にしがみつく手は緩むどころか、何かを耐えるようにギュッと更に強くマットレスを握りしめた。


「私の知っている片瀬殿は誰かを見捨てられるような方ではありません」

「……」

「何時だって誰かのために必死になるお人好しです」


 一体、何を根拠にしているのか、力説する声に桐人はボソリと呟いた。


「……テに……」

「片瀬殿?」


 落とされた呟きを上手く拾うことが出来ず。からかさは、もう一度と、伺うように桐人の名を呼んだ。


「勝手に、押し付けるなよ……」

「かたせ」「俺は、お前が思っているような人間じゃない!」


 耐えきれない、と言ったように桐人は声を荒げた。


「俺はお前が思っているほど綺麗な人間じゃない!」

「片瀬殿」


 見るな。そんな期待した目で俺を見るな。そんな目を向けられても、俺には何も出来ない。

 口から洪水のように溢れ出そうになった言葉を、桐人は必死に押し止めようとしたが、上手くいかずに、漏れ出す。

 それは心からの悲痛の声だった。


「俺がお前らを助けてたのは、頼られたかったからだ! 頼られることで自信を得たかったからだ!」


 寝台から、桐人の手はもう既に離れていた。


 真っ赤な瞳で、振り返りながらからかさに怒鳴りつける姿は、迷子の子供のようだった。

 今まで溜めこんでいたもの。隠し続けていた本心。全てを諦めたようにぶちまけた。


「お前らに頼られることで俺は自分の方が上だと、どこかで思ってたんだ。お前らを勝手に弱いものにして、自分を上に置いて……それで安心してた。誰かのためなんかじゃない。俺は、自分のために皆の頼みを聞いてたんだよ。助けたんじゃない。お人好しなんじゃない。俺のあれは、唯の自己満足だ」


 ずっと蓋をしていた気持ち。目を逸らし続けていた本心。

 それが次から次へと吐露される。

 軽蔑してくれればいい。嫌いなってくれればいい。そのような期待した目で見られなければ、それでもう良い。


 桐人は思う。


 自分が子妖怪たちの頼みを聞いていたのも、周りを助けていたのも、全部真実から目を逸らすための行動だったのだ。


 桐人は否定したかった。自分がどうしようもないほどに無力だという事実を。


 妖たちに頼られることで自身のちっぽけな自重心を保っていたのだ。

 なのにそのくせ、小さな手助けは出来ても肝心なところでは役に立てない。どころか周りの足を引っ張っている。


「最低だろう? 結局お前らのことを大事に思うふりをしていて、実際は心のどこかで馬鹿にしていたんだ……馬鹿は俺だってのにさ」


 ぐしゃりと顔を歪めながら、少年は喉を震わせた。


 自分でも何を言っているのか分からない。

 何が何だか分からなくて、桐人は泣きそうだった。男のくせして本当に自分はなんて情けないのだろう。


 悲観的になる桐人を唐傘はただ黙って見つめ、そして静かに口を開いた。


「片瀬殿は我々のことを見下してたのですか?」

「ああ、そうだよ」

「本当に?」


 からかさは確認するようにもう一度問いかけた。


「あれほどたぬま殿の料理を絶賛していたのに? 子鬼たちの創作に目をきらきらさせていたのに? 長冠殿の頭の良さに感銘を受けて、教えを何度か請うていたのに? あれでも、貴方は我々を馬鹿にしていたのですか?」

「それは……」

「私には貴方がそれを言い訳にすることで、逃げているように見えます」


 その言葉に、桐人の瞳子が揺れた。

 唐傘は仕方がなさそうに、困った子を見るように笑う。


「いけませんぞ、片瀬殿。自分を卑下することで、それを建前にやりたいことから逃げるなど」


 からかさは知っている。たとえ今、晒した言葉の数々が本当だったとしても、それが片瀬桐人の全てではないことを。


 まるでこれが自分の本心だ、というかのように桐人が吐露した言葉をからかさは動揺することなく、受け止めた。

 そりゃあ、確かに驚いたかもしれない。それでもそんなもの、桐人のことを知っているからかさには通用しやしない。

 からかさは身を持って、知っている。片瀬桐人という人間の優しさを。


 事件に巻き込まれても何もしない? 

 確かにそうだ。危険なことになると、片瀬桐人は何時もじっと物陰に隠れて全てが終わるのを待っていた。怯える被害者を腕に庇って影に隠れて、じっと待っては様子が気になって、戦っている者たちの状況を確認して。そして誰かが怪我をすると、思わず飛び出してしまいそうになって、陰陽師の忠告を思い出し、必死に自分を抑える。


 片瀬桐人はいつだって最後まで現場に残って、逃げたりすることは決してしなかった。自分に出来る最善を尽くしていた。

 なんだかんだ言って、この人間はいつもそうなのだ。


「片瀬殿。自己満足はいけないことですか?」


 からかさは問うた。


「頼られて喜ぶのは、いけないことですか?」


 別に喜んだって、面倒に思ったって良いではないか。何を想おうが、人の自由だ。それで他人に迷惑をかけていないのなら、それでいい。


「私は片瀬殿に頼られたら、それこそ天に舞い上がるほど、嬉しいです」


 からかさは語る。そんなことが起きたなら、本当にどんなに素敵なことだろう。

 いつも迷惑をかけてきた自分が、彼に頼りきりだった自分が、初めて頼られるのだ。

 これほど素敵なことはない。

 大好きな人間に肩を貸せと言われて、貸さない馬鹿がどこにいる?


「それで助けられたら、もっと嬉しいです」


 少年が戸惑ったように顔を上げた。

 その顔を見て、からかさは苦笑しそうになった。


 やれやれ。この少年は、なぜ我々が、沢良宜花耶でもなく、土御門春一でもなく、他の誰でもない、片瀬桐人にばかり頼み事をしていると思っているのだろうか。


「確かに貴方は弱い。そして、今回の貴方のその行動は他人を傷つける結果を招き、誰かの足を引っ張ったかもしれない」


 それは、周防と言う老人に出会って、初めて気づかされたことだった。

 からかさに出来ることはこんなことしかないけれど、やらないよりはマシだ。

 伝えよう、あの老人に教えてもらったことを。今度は自分が、


「だけど、片瀬殿。貴方はこのまま諦めきれるのですか?」


 からかさはこの少年を助けたい。その曇った顔を晴らしたい。


「このまま、何もせずに終われるのですか?」


 ぐらぐらぐら。昏い光を堪えていた少年の瞳が揺れた。

 その迷いを切り捨てるように、その背中を押すように、からかさは言ってやる。


「貴方様がどうこうしたところで事態が変わるほど、現実はあまくありませんよ」


 それは辛辣な言葉だ。

 少年がどんなに頑張ったところで、状況は変わらないかもしれない。

 そして、どんなに動いても、土御門春一が言った『余計な問題』とやらは、起きないかもしれない。

 実際にやってみなければ、事がどう運ぶかなんて誰にも分からないのだ。


「行きましょう、片瀬殿。諦めるにはまだ早い。我々は、まだ何もしていないのだから」


 挑むように、真っ直ぐに自分を見つめる大きな一つ目に、桐人は意識を吸い寄せられた。

 そして、呆気に取られながらも、不意に気がついた。


(……そういえば、俺。本当に何もしてない)


 いや、した気でいた。阿魂の腕を引っ張って奴の攻撃を止めはしたが、それだけだ。

 風間菜々美を救いたいと言いながら、桐人は春一や阿魂に頼ろうとしたばかりで、実際には何もしていない。しようとしていなかった。


(おれ……本当に全然。何もしてない)


 ――本当に、自分で何かをしようとしたか?

 ――誰かを助けたいと思うばかりで。誰かに頼ろうとしていないか?


 ぐしゃりと手元のベッドシーツを握りしめた。

 からかさに言われた言葉を脳内で反復する。まいった。これでは自分も花耶のことを言えない。

 桐人は自問自答をした。自分はこのままで良いのだろうか。


 ――本当にもう駄目だ、と思ったところまで頑張ってもいないのにこのまま諦めきれるのか?


 ぐるぐると先程までとは少し違う疑問が思考を占めた。胸に渦巻く迷いと――自分に対する疑心と向き合おうとしている間にも、からかさは続けた。


「出来るか出来ないかの問題ではありませんぞ、片瀬殿。問題はやるかやらないかです」


 かたりと、からかさは、いつのまにか床に転がっていた携帯端末を拾い上げた。桐人のものだ。

 通知画面を確認すれば風間裕二からの着信が二つとメッセージが一つ、あった。


 静かにそれを桐人へと手渡す。

 差し出された携帯の画面を、桐人はおそるおそる覗いた。


 メッセージの文面はとても簡素なものだった。そこから、風間の焦りがよく見てとれる。


 「菜々美が消えた。彼女を見ていないか」。唯、それだけしか書いていない。


 風間の今の心情を読み取って、桐人はぎゅっと端末を握りしめた。

 今も必死に菜々美を探し回っているであろう彼のことを考えると、胸が痛い。


 寝台に腰を下ろしたまま、桐人は俯く。

 それをからかさはハラハラと不安そうに見守った。

 途端、桐人の携帯が震えはじめた。着信だ。


 考えるまでもなく、なんとなくその相手が分かって、桐人は何も考えずに通話ボタンを押した。

 すると、街中を走り回って息切れしたのか、呼吸の荒い声が鼓膜を震わす。その声に紛れて車道の音も聞えてくる。


『片瀬! 悪い、いま妹の菜々美を探してるんだけど見てないか!? あいつ熱まだあんのに何時の間にか消えてて全然連絡がつかないんだ! 頼む! 出来たら探すのを手伝ってくれ!』


 一息に口を捲し立てる少年。

 声だけでもその必死さが伝わってきて、桐人は唇を噛んだ。

 携帯に耳を当てていない唐傘にでさえも、大きな声は届いている。必死の嘆きを黙って聞きながら、からかさは桐人の様子を見守った。


 桐人の顔は俯いており、前髪に隠れて表情を伺えない。


「片瀬殿……」


 からかさは祈るように彼の名を呼んだ。

 少年は、静かに唇を震わせる。


「ごめん、風間。本当に、ごめん。妹さんな……」

「片瀬殿!」


 何も知らない友人に、何を言うつもりだ。

 胸が不安でいっぱいになって、からかさは衝動的に声を上げた。咎めるように奴の名を叫ぶ。

 だが少年が言葉を止める気配は無い。その発言によって、二人しか居ない空間にぽつりと波紋が広がる。


「今、俺と一緒に居る」


 静寂が空間を支配した。

 からかさは唖然と言葉を失う。


「家に帰ってる途中で見つけてさ。今ドタバタしてるし、夜も遅いから明日、家まで送ってくよ。大丈夫、風邪も治ってたみたいでピンピンしてるから」


 パクパク。金魚のように口を仰いだ。言葉が出てこず、蒼然としながら目の前の少年の奇行を見守った。

 待て。お前は何を言っている。そんなことを言えば、


「だから、お前はそのまま家に帰って休め。良いな」


 だが少年は続ける。すくりと立ち上がりながら客椅子の上に置かれていたボロボロの制服を手に取った。


「必ず、俺が連れて帰るから」


 とても力強い声だった。

 黒髪の隙間から覗いた双眸には真っ直ぐな光が宿っている。

 最後にそんな頼もしい言葉を残して少年が通話を切った途端、からかさは引っくり返った声で叫んだ。


「ちょっと、片瀬殿!? そんなことを言ったら……」

「うん。それで連れ帰れなかったら最低だな」


 なんてことのないように桐人はさらりと言いのけた。けど実際には、自身でもその罪の重さをよく理解している。


 友人にこれだけ言っておいて、後で失敗したらもう最悪だ。

 相手を安心させた分、期待をさせた分、「連れ帰れませんでした」と言った時の反動は大きい。嘘を吐いた分、風間は余計に傷つくのだ。

 最低な行為だ。最低で最悪で反吐の出る、最も忌むべき手口だ。

 自分でも最低だと、桐人は心底そう思った。


「だ、だったら……!」


 先程の勝気な様子と転じて焦ったように口を挟むからかさに、桐人は困ったように笑った。


「でもどの道。菜々美ちゃんが帰ってこなかったら風間は泣くよ」


 嘘を吐いたことを知ったら、風間は自分を一生恨むだろう。悲しみだけでなく、大きな怒りを自分に向けることになる。絶交されることは確実だ。

 だけど、それでも良い。自分に残された道は、もう。


「――連れ帰るしかないだろう」


 もう、後戻りはできない。

 土御門には彼女を助けるのは無理だと言われた。きっとその通りなのだろう。けど、可能性はゼロじゃない。


 土御門春一は言った。彼女を救う方法を探す暇など、そんなものはないと。そうしている間にも被害は増大し続けているのだから。

 なら、そちらは被害を最小限に抑えるために最善を尽くせば良い。その間に、元から戦力外として見られている自分は彼女を救う方法を模索するから。


 迷惑はかけない。自分一人でやる。それで被害が起きても、怪我をするのは自分一人だ。他人は絶対に巻き込まない。


 友人が助けを求めてきたのだ。ならコレは最早、桐人の問題でもある。他人だと、もうあの鬼達にとやかく言われる筋合いはない。


「先輩は蟲が彼方此方で発生しているって言ってた。だったら風間をこれ以上外でウロウロさせるわけにはいかない。あいつまで巻き込まれたら身も蓋も無いからな」


 そうやって口を動かしている間にも支度を始める。

 腹が少々痛むが問題はない。病衣を抜いで、制服へと着替える。「キャッ」と後ろでからかさの恥じらうような、気色の悪い悲鳴が聞えた気がしたが、気にせずシャツのボタンを占める。


「し、しかし。それでも連れて帰るなど……」


 先ほどまで、あれほど説教めいたことをしておきながら、からかさは心配になってしまった。

 本当にあの少女を救えるのだろうか。陰察官でさえ匙を投げたのだ。時間も無い。そんな深刻な問題、唯の人間にはとても――。


「無理かもしれない、なんて思ってたら本当に出来なくなる」


 そう言って桐人は寝台の横の荷物を漁った。

 見ればあの折れた刀さえも御丁寧に拾ってくれていたようで、荷物を届けてくれた陰察官に感謝をする。

 これはこれで一応護身用の武器になるので、助かった。


「お前が言ったんだろう? やるしかないんだ……やらなければ全て終わる」


 たった一人の少女を救えなかったことで全てが終わるなど、大袈裟な言い方だ。

 だが少なくとも桐人にはそう思えた。

 あの少女が死んでしまえば、桐人は自分の中で何かが終わってしまう気がしたのだ。


 からかさは桐人に問うた。


 やる前から、諦めていいのか? 後悔はしないのか?


 ――桐人の答えは、否だ。


 風間菜々美の顔がフラッシュバックする。

 泣いていた彼女。辛い思いをしている彼女。そしてそんな彼女を必死に探している風間を、自分は放っておけるのか?


 嫌だ。絶対に嫌だ。


 自分は死なせたくない。あの子をあのままになんてさせたくない。

 助けたい。救いたい。


 ――あの子を死なせたら、俺は一生後悔をする。


 心は決まった。迷いはない。あのウジウジとした自分がまるで嘘だったかのようだ。

 あまりの豹変ぶりに、桐人は自分でも苦笑してしまいそうになった。


 まったく。土御門春一にあれほど言われておきながら、反省も何も、あったものではない。

 だが、不思議と今の自分はそれほど嫌いじゃない。


 こんなに晴れた気持ちでいられるのはきっと、この目の前の唐傘のお蔭なのだろう。

 今日は珍しくもピンヒールではなく唯のサンダルを履いているが、相変わらずその顔にはつけ睫毛に紅い口紅を着用している。


「ありがとな、からかさ」

「……へ?」


 ふっ、と笑みがこぼれた。

 そして思う。からかさが居てくれて良かった、と。


 突然のお礼にからかさが呆然としている間にも、着々と身支度を終える桐人。

 折れた刀を布で包んで隠して、片手に持つ。制服を再び着用した少年は申し訳なさそうに、からかさに謝罪をした。


「あと、これ。ごめんな……折角、くれたのに」


 ひょいと折れた刀を掲げる奴に、からかさは呆然と「いえ」とだけ小さく零した。


 ――今、初めてお礼を言われた?


 不意打ちのそれに、からかさの思考がショートした。

 体がふわふわと宙に浮いているような心地がした。


 あまりの嬉しさに身を震わせ、唇を結ぶ。そうでもしなければ、喜色満面の笑みで、からかさは奇声を発っしてしまいそうだったのだ。


 しかし、そうこうしている間にも桐人は思い立ったように行動を起こしており――。


「じゃあな。俺、ちょっと他の妖怪を当たってくる」


 本当にさっきとは違って、別人のようだ。

 暗澹とした空気を背負っていた、あの弱気な少年は何処へ行った。


 がらりと扉を開いて廊下へと消える背中を、からかさは慌てて追う。


「お待ちください片瀬殿! 当てなら私にあります! 待ってください! お願い待ってぇぇ!」


 ――男に捨てられた女のような声が、廊下に響き渡った。






♢  ♢


 数時間後。深夜、午前一時〇〇分。

 裏新宿三丁目、阿神谷あがみや通り。


 どんちゃんどんちゃん。物の怪たちのはしゃぎ声が四方八方から、鼓膜を襲ってくる。

 河童、一つ目、猫娘。動物と人間が混じった姿があれば、一つ目の大男も居る。

 まさに異形の者たちが跋扈するその大通りを、一人の人間と二体の妖が進んでいた。


東八町亭ひがしはっちょうてい?」

「さようでございます」


 人間とバレぬように大きなフードを頭から被る桐人。妖の匂いが染みついたそれを身に纏うことで、己の体臭を誤魔化していた。


 擦れ違う妖の群れが桐人に注目することはない。それに満足そうに頷きながら、先へと跳ねるからかさが振り返り、隣を歩く化け狸が口を開く。


「東八町亭は妖の大きな溜まり場の一つなんでさぁ。任侠者から真っ当な職につく妖、偶に式神も顔を出すことがあれば、稀に『A級呪術犯罪者』も顔を出すことがあるという噂がありやす。色んな妖が集まれば色んな情報も集まる。其処はいわば情報の釣り場。情報屋がよく足を運ぶ溜まり場なんでさぁ」

「それは……」


 もしかしたら、桐人の求める情報が其処にあるかもしれない。

 微かな希望が見えた気がして、桐人は気合を入れなおすかのように、刀を握りなおした。


「けど、何か知っていそうな大物は大抵、料亭の奥。其処に並ぶ個室に居るようでして……金以前に通行証が必要なんですよ」


 はあ、と溜息を吐くからかさに、桐人は首を傾げた。


「通行証?」

「東八町亭のお得意様にだけ配られる、個室への特別招待券です。それがないと奥には入れないんですよ」

「個室を使う奴に、情報を持っていそうなのが居るのか?」

「わかりません。多くの妖は飲み場に集まるので。そこでも情報は幾らでも入りますが……」

「意外と奥に居るかもしれない、と」


 こくりと頷き、からかさは肯定した。

 それを横目に、桐人は難しい顔で思案する。その奥へと入る方法は何かないだろうか。何処か裏から忍び込めたら……と脳内で模索していると、からかさがにぱりと口角を上げた。


「ですが、ご安心ください! 何故なら通行証は、この、たぬま殿が持っていますので!」


 ぱっぱらりらー。紙吹雪を降らせながら、からかさが効果音を歌う。

 「これでさぁ」と鬼灯の紋が彫られた木製の通行証を、たぬまから差し出され、桐人は目を丸くした。

 手渡された通行証をまじまじと見つめ、感嘆の声を上げる。


「え、たぬまさん、凄い!」

「いえいえ。唯の飯好き料理好きが功を成しただけでさぁ」


 照れくさそうに苦笑しながら頬を掻くたぬまに、桐人は首を振った。


「いや、そんなことねぇよ。本当にありがとな、たぬまさん。ごめん、結局手伝わせちゃって……」


 誰も巻き込まないと言っておきながら結局たぬまとからかさを頼ってしまっている。その殊に情けなさと申し訳なさを感じながら桐人は謝った。

 それに対してたぬまは「とんでもない!」と、慌てたように手を振った。


「こんなのお安い御用でさぁ。片瀬さんには本当に世話になりっぱなしで、いつか恩を返さないと思ってたんで、お役に立ててあっしは嬉しい限りです」

「そうそう。片瀬殿はいちいち気にしすぎですぞ。あまり気を使っているとストレスで頭が剥げますよ」

「からかささん。それは幾らなんでも、ありやせん」

「いやいや。片瀬殿は案外……」


 穏やかに笑うたぬまと茶化すからかさ小僧。

 自分の腰元でわいわいと騒ぐ二人に、桐人は胸が暖かくなるような心地を覚えた。


(……絶対に、助ける)


 ぎゅっと、手の中の通行証を握りしめながら、決意を改めて固める桐人。

 だが、足元を見続けていたせいか不意に誰かと肩がぶつかってしまい、慌てて頭を下げた。


「す、すみません!」


 謝罪の言葉を口にし、顔を上げる。

 すると、ふとある事に気づいた。


(あれ……からかさは?)


 からかさだけではない。たぬまの姿も見当たらず、目の前の通りを歩く妖の群れ以外、誰も見当たらなくなっていた。


(まさか……)


 ひくりと口元が引き攣る。


 ――はぐれた?


 と、嫌な予感を覚えた時だった。がしりと誰かに頭を掴まれる。


「おい、ぼうず」


 背後から大きな影に視界を覆われ、桐人はゴクリと唾を飲みこんだ。

 恐る恐る。このまま逃げ出したい気持ちを必死に抑えながら、後ろを振り返る。


 目の前には派手な紅い浴衣に青い肌。その分厚い胸板から徐々に視線を上げてゆけば――大きな牙を下唇から覗かせる鬼の顔が見えた。

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