8.
「……セ。ヵ……セ」
暗闇の中。自分を呼ぶ誰かの声が聞こえた。
微睡から引きずりあげられるように身体を揺さぶられ、意識が覚醒してゆく。
頭が痛い。目の前が真っ暗だ。背中から柔らかい感触が伝わってくる、布団だろうか。
(俺は、どうしたんだっけ……)
スウ、と桐人は息を吸い込んだ。
消毒薬の匂いがする。この匂いは桐人も知っている。
これは、確か――。
(びょういんの、匂いだ……)
上手く回らない頭でぼんやりと思考する。
まず、目を開けようとした。重い瞼が震えながら開く。徐々に開けてゆく視界。そこに最初に映ったのは、白衣の天使……。
「片瀬殿ぉぉ!!」
「……うわぁあああ!?」
ではなく、涙と鼻水を豪快に流す奇妙な傘だった。
目を開けたら唐傘の鼻下と唇が間近にあって、桐人は思わず震え上がった。
「おい、此処は病院だ。騒ぐなら……」
騒ぎを聞きつけたのか病室の扉が開かれる。春一だ。
恐らく注意を足そうとしたのだろうが何故か口を噤んでいる。
胸にしがみつこうとする傘と抵抗する少年。ベッドの上で押問答をする二人を前にして春一は言葉を選んだ。
「邪魔したな……」
「なにが!?」
唐突に意味不明なボケをかましてくれた春一に桐人は思わずツッコんだ。
「具合は?」
「……上々ス。腹が少し痛みますけど」
着せられていた病衣の前を裸せて腹を確かめる。見ると其処には包帯が巻かれていた。
「軽く抉られていたからな」
「……まじですか?」
「結構痛かったな」とは思ったが、まさかそんな深刻な状態になっていたとは予測できず、言葉を失う。
確かに激痛は走ったがどちらかというと身体を襲う熱の方が強く、それどころでは無かったのである。
気を失う直前、身体の全身が鈍く傷んでいたのだ。わかるはずもない。
「……花耶たちは!?」
自分の怪我のことを考えれば自然と思考が彼女たちのことへと行き着き、桐人は焦ったように声を上げた。
それに春一は眉一つ動かさず答えた。
「まだ見つかっていない。今、情報官が探索してくれている」
「見つかってないって……」
あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。窓を見れば空は既に暗くなっている。
桐人は焦燥感に見舞われながら春一を見た。
「赤鬼が、沢良宜が奴のシャツを身に纏っていると言っていた。蟲などの下級の妖は奴のような鬼の匂いを嫌うから、喰いはしないだろう」
「けどデッカイ口にバク、って」
「あそこの監視カメラを確認したが、あれは喰われたんじゃない。捕獲されたんだ。蟲はあのような食事の仕方をしない」
「赤鬼の匂いを嫌がって彼女を後に吐き出す可能性もある」と言葉を繋げると春一は靴底を鳴らしながら戸口から少し離れて、壁に寄りかかった。
「そもそもアレらは寄生して妖や人間を
「つまり花耶は食われないってこと、ですか?」
「呪いで霊力を抑えていたとしても、『神の欠片』だ……微弱ではあるが彼女の霊力も『印』を通して今も感じてる。まだ無事だ。結界の張り方も教えている。数刻ぐらいは自分の身を守れるだろう」
その言葉に桐人は肩の力を抜いた。
「先輩……あの、蟲に取り憑かれた人のことなんですけど」
「君の知り合いか」
ひたりと色の無い双眸と視線がかち合い、思わずゴクリと喉を鳴らす。
「風間菜々美」
「……!」
「着信が二つとメッセージが一通、風間裕二から来ていた」
かたりと春一が掲げた手には桐人の携帯が握られていた。
「見たんですか!?」
「業務上、癖だ。と言っても、通知画面しか見てないから心配しなくていい」
さらりと悪びれもなく携帯を投げ渡され、慌ててそれをキャッチする。
「なんで、それでアレが彼女って……」
「譫言で同じ名前を零してたからな」
なるほど。それで大体の察しをつけたのだろうと、桐人は納得した。
「それで、あの。彼女は……」
「蟲ごと駆除するしかない」
なんの躊躇も無く返された答えは無情なものだった。突きつけられた現実を上手く飲み込めず、桐人は言葉を探す。
「蟲喰いは」
「不可能だ。君も見ただろう……身体が異常なほどに変形していた。あれは完全に侵食されてしまっている。僅かに自我が残っていたとしても蟲だけを取り除くことはもう出来ない。あれはもう、『蟲』そのものだ」
彼女の姿が脳裏に蘇る。刑務所で見た異形の姿は今も瞼の裏に焼き付いていた。
膨れ上がったように、長い、大蛇のような巨体。浮かびあがっていた血管はどれも今にも破裂しそうな程、ぱんぱんに脹れあがっていて、吐き気を誘われるような光景だった。
骨格が原型を失う程、変形しているのだ。身体も無事ではないのだろう。顔だけは原型を留めていたが、そのうち其処も膨張してゆくのかもしれない。
桐人は耐えきれず口を開いた。
「あれは」
「たとえ蟲を取り除けたとしても、あれはもう駄目だ。朽木文子の時とはわけが違う。肉体が元の形状に戻るとは到底思えない」
――そんな。
目の前が真っ暗になったような気がした。
春一は嘘を言っていない。冷然とした瞳が真っ直ぐにこちらを射抜き、桐人は思わずベッドのシーツを握りしめた。
「諦めろ、片瀬。彼女は救えない。化け物のまま生かすより、死なせてやった方が彼女のためだろう」
無条理な言葉だ。
桐人はそれが現実だと理解はしていたが、受け入れることが出来ずにいた。
可愛らしく笑っていた少女の姿が頭の中でちらつく。ぶすくれたように兄を睨み上げ、無邪気にも笑った顔は、幸せそうな、普通の少女のものだった。
虚ろな目で泣くあの顔とは比べものにならないほどに輝いていたのだ。――それが。
「事件に収拾がついた後、風間菜々美に関しては他の寄生主同様、後で警察庁に事件か、或いは事故として、処理してもらう」
あまりの言葉に桐人は拳を握りしめた。
こんなことって、あるのか。……いや、あるのだろう。
彼女のように事件に巻き込まれて死んだ者は
風間菜々美は、犠牲者の一人にしか過ぎない。
(それでも……)
追い縋るように桐人は春一を見た。
「先輩。他に方法は」
「いい加減にしろ、片瀬」
淡々と向けられた言葉は桐人を咎めるものだった。
視界に映る春一は怒っているようには見えない。その整った面差しには喜怒哀楽の感情は映っていなかった。けれど、内心、煩わしいことばかりを言う桐人のことを、腹正しく思っているのかもしれない。
能面を被ったような表情で、男は言う。
「あのような姿で生かしておくより、殺した方が彼女のためだ……あの時。止めはしたが今回ばかりは流石に俺も赤鬼に賛同している。といっても、あの鬼は逆ギレしただけなのだろうが」
ふっと、息を吐くと春一は続けた。
「沢良宜にも言っているが、現実は君が思うほど優しくはない」。そう前置きして今迄溜めこんでいたのか、春一は次から次へと桐人の問題点を並べていった。
「時偶に沢良宜が起こす失敗を見て、君も理解しているのだろう。破天荒な彼女と違って君は今まで事件に首を突っ込もうとせず大人しくしていてくれたから、君が何をしようと俺は目を瞑っていた。だが、今回はそうはいかない」
春一が言わんとしていることが分かって、桐人は口を噤んだ。
阿魂の邪魔をしたことを指摘しているのだろう。
「片瀬桐人。君は何故あの現場にいたんだ?」
「そ、れは」「わたくしめです!」
質問に困った桐人がなんとか答えようと口を開けば、横からからかさが唐突に割り込んできた。
「わ、私が片瀬殿に沢良宜殿に会いにゆけと申し上げたのです!」
陰陽師が怖いのだろう。ビクビクと震えながらも春一を睨み上げるからかさ小僧。桐人を庇うように真正面から、春一と対峙をする。
だが春一は気を害した風もなく、ただ静かに目を細めた。
「それだよ」
「へ?」
それ、とは何か。脈絡のない言葉を投げかけられて、二人が怪しげに眉を顰める。
「君は何かと事件に巻き込まれる性質のようだが、それにしたって霊力もない。では事件に巻き込まるのは何故か?」
すっと視線を桐人から切り離し、目の前の唐傘を見た。
「答えはそれだ」
びくりと唐傘が震えあがった。桐人が咄嗟に寝台から降りるように前のめりに動こうと試みた。それを咎めるように、春一は言葉を重ねる。
「片瀬桐人。君は妖怪に関わり過ぎている」
ぎくりと、背中が鳴った。
桐人は自分の中にあるやましい気持ちを見抜かれたような気がして、身を竦ませた。
「そ、それは我々が勝手に!」
「事件に巻き込まれないようにしたいのなら、何を言われようが妖怪との関わりを一切絶てば良い。身を危険にさらすより、あえて関わらない方がましだろう?」
最もな言葉だ。とても酷なことを言ってはいるが、間違ってはいない。
からかさは自分にも非がある気がして、身を萎ませた。
「それをわかっているくせに、しないのは何故だ? 片瀬桐人」
「っ……」
言えるわけが無い。こんな自分の中にある浅ましい気持ちなど。
妖たちに頼られることで自身のちっぽけな自重心を保っていたなどと。なんだかんだ言って、結局からかさたちの願いを聞いている本当の理由を、桐人は春一を前に、晒したくはなかった。
だんまりを決め込む桐人に、春一は再度溜息を漏らした。
「沢良宜も君と似たような……いや、君より事件に首を突っ込む節があるし、事を大袈裟にしてくれたこともあった。だがその分、彼女は責任を伴うように力を付けつつある。けど君の場合は違う。霊力も身を守る術を持っていない分、足手纏いだ」
最後の言葉がぐさりと胸を突き刺した。正論すぎてぐうの音も出ない。
確かに最近の花耶は春一から力の使い方、結界などの術を習い始めて、自分で戦って問題を解決できるようになりつつあった。護衛を離せないではいるが、彼女は着実に力をつけ始めている。
それに比べて自分は自衛どころか、なにも出来ていない。
改めて自分の無力さを痛感させられて、桐人は唇を噛みしめた。
「俺は陰察官だ。人間を妖から守る義務がある」
本来、陰察官でなければ土御門春一は、片瀬桐人にこのような責めるような言葉を口にはしなかっただろう。
事件に巻き込まれていようが、妖にたぶらかされそうになろうが、放っておくところだ。こんな余計なお世話などしない。
だが、土御門春一は陰陽師だ。陰察官なのだ。
一人の陰陽師として、市民が『陰』の世界に巻き込まれぬよう、目を光らせる義務がある。
片瀬桐人は普通の少年だ。いくら妖と関わろうが、結局は唯の人間なのだ。特殊な力を持つ沢良宜花耶とは違う。
「行動を慎め。事件に首を突っ込むな、それが出来ないのならもう妖怪に関わるな。君は妖怪と慣れ親しむ節がある。それを咎めるつもりはない。だが君はあまりにも警戒心に欠けすぎている」
忠告をする春一。有無を言わせぬ口調が室内に重い空気を漂わせる。
からかさが桐人の弁護をしようと必死に口を開いた。
「で、ですがソレとコレとは問題が違います! ま、巻き込まれた被害者は片瀬殿の知り合いだというではありませんか! 助けてやりたいと思うのは普通の道理! 今回のことは誰に責められますか!?」
ばっさばっさと傘が開いては閉じる音がする。
差されたその別問題に春一は息を零した。
「話を聞いていなかったのか? ……あと、彼女はもう助からない」
「あ、あああなた! 陰察官でしょう!? なんとかしなさいな!」
吼える唐傘。だが春一は冷徹に言い捨てた。
「あの蟲を放っておけば被害が広がる」
「だから、何か他に方法を!」
「そんな暇はない。あるかも分からない方法を探すにしても、それに時間をかけている間に被害は増大し続ける。犠牲が増えるぐらいなら、蟲を滅する。被害を最小限に抑えるためにね」
あるかも分からない可能性よりも、最も安全で最良の選択を選ぶ。迷っている暇などない。少しの時間も命取りになるのだ。
春一は冷然と居住まいを正しながら、言葉を口にした。
「たった一つの命のために複数の命を犠牲にすることは許されない」
反論の余地もない。
陰察官として当然のことを口にする春一に、桐人は目を合わせることさえも出来なかった。
少年の俯いた面差しははっきりと確認はできないが、悔しそうに歯軋りをしているであろうことは春一にも分かる。膝の上に握られた拳が、震えていた。
何も言い返せないのは桐人自身、春一の言ってることを一番理解しているからだ。
春一はふと目を伏せると、達観したように呟いた。
「全ての人を救うなんていうのは、ただの夢物語だ……いつだって犠牲はついてくる」
本当に小さな小さな呟きだった。
それを拾い上げられたのはからかさだけ。不意に気になってちろりと視線を上げれば其処には相変わらずのように冷たい顔をした土御門春一。
先程の声からは諦めのような、悲しい感情を感じ取れたのだが、あれは気のせいだったのだろうか。
「風間菜々美のことは残念に思うし、君には同情する。だが実際に、どうすることもできない。彼女は沢良宜を救助した後、このまま始末する」
言いたいことは全て言えたのか、春一は、「用はコレで終わった」とばかりに扉へと向かいだした。
そして廊下へと踏み出す瞬間、そっと言葉を零していった。
「――すまない」
カタンと病室の扉が閉まった。
残ったのは、桐人とからかさ小僧だけ。
「か、片瀬殿……」
「わるい、からかさ。ちょっと一人にしてくれ」
寝台の上に座ってぼんやりと俯いたまま、桐人は唐傘の退室を願った。
こんな悲しげな背中を一人にしていいのかと、からかさは逡巡しながらも頷いた。
萎れた花のように傘をたたみながら、病室を後にする。
廊下へと出れば、そこは静かで、余計な物悲しさが腹の底から湧き上がってきた――。
♢ ♢
「……」
病室に残された桐人。
一人にしてもらってから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
何も考えられなくて、足元の床を見つめていた。
――このまま、全てが終わるのを待つのか。
諦めにも似た感情が脳を浸水していく。
何も考えられない。今、頭にあるのは己の無力さに対する悲痛な気持ち、周囲の足を引っ張った罪悪感と申し訳なさ、そして自分に対する羞恥心。
「あーあ……」
どさりと、身を寝台の上に投げ出した。
天井のライトが直接、目に当たり、眩しかったので腕でそれを遮る。
「菜々美ちゃん……」
――『化け物のまま生かすより、死なせてやった方が彼女のためだろう』
土御門春一の言葉が、頭の中で何度も再生される。
(そう、かもしれない……)
いや、その通りなのだろう。
桐人だって本当は気づいていたのだ。彼女を元に戻してやれる方法は恐らく、ない。朽木文子の時とは比べものにならないほどに、彼女は変異してしまっていた。
風間菜々美は、もう二度と、人間には戻れない。
ならば化け物として、蟲の依代として、あの姿のまま生かすより、殺してやった方が良いのだろう。
殺すことで解放する。そんなやり方もあるのだなと桐人は自嘲した。
さかさまになった視界に、窓が映る。
外は暗く、並び立つ高層ビルのせいか星が見えない。
「ごめん、風間……」
掠れた声が出た。
震える喉が、やっとの思いで発した言葉はあまりにも情けないもので――泣きそうになった。
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