手錠、
0.夢現
「――わっちに何か御用でありんすか?」
窓枠に凭れ掛かりながら、外の情景を眺める男に、女は問いかけた。
闇のような紺天の下。夜が深まり、異形の者たちが活気づく。
破落戸のいさかい。やまさんの荒声。
初心な旅人衆の溜息。それをたぶらかす朋輩。
甘えた声。男女のおしげり。
耳元を掠める雑音を生むのは人にあらず。笑いも、怒号も、喘ぎ声も、全ては魑魅魍魎のもの。
有象無象が蔓延る景色。橙色の泡が照らす赤屋根の世界――裏吉原。
此処は人ならざる者が色に狂う場所だ。
どんなに美しくとも、煌びやかな光景の下に潜むのは色欲と刹那的な快楽、それが後に生む依存と虚無。
外観も真理も、この街の在り方を理解してしまった今、女の胸に生まれるのは達観という名の諦めだ。否、興味さえも失せたというべきか――。
そんな世界の何が面白いのか、凪いだ瞳でそれを見つめる男は口元に微笑を湛えていた。
(いや。この人が笑っているのは、いつものことか)
ニコニコとも、ニヤニヤとも、形容できない、音の無い笑み。
静かで、自然で。柔らかくもなく、鋭くもなく。ただ悠然と其処に浮かぶ笑み。その歪んだ口元は、男の顔の造形の一部として存在しているのだろう。彼にとって笑顔は感情を伝える術ではなく、意味もなく常に飾る装備なのかもしれない。
己のいい人と相反する人でありながらも、どことなく似た所を持つ男。『あの人』がなにものにも縛られない獣だとするならば、この男は何者にも掴めない雲、或いは霧だろうか。
いつも『あの人』と共にひょっこりとこの廓に顔を出すのに、今日は珍しくも一人。しかも過去に一度とて指名したことのない己を呼んだことに、女は首を傾げた。何か、あったのだろうか。否。問わずともこれが男の気まぐれであることは、彼をよく知らない女でも察せる。
淡い光に照らされた、混じり気のない白。雪のように柔らかそうな白い髪。長い絹糸に隠れる秀麗な面差し。――月色の双眸がこちらへと向く。
其処には白皙の美貌が在った。
酒呑童子と並ぶ曲者――妖狐の『オサキ』。それは女が知る限り、酒呑童子の数少ない友人のような、そうでないような人物の名であり、今、自分の目の前に坐する男の名前だった。
掴みのどころのない、自由な所は酒呑童子とよく似ているのだろう。だがそれ以外は全く似ていない。酒呑童子に欠けた紳士的な態度と、柔らかくも洗練された美しい動作。その男の色香と気まぐれに、一体何人の遊女が泣かされたことか。どんな海千山千の娼婦もこの男を前にすれば初な小娘へと変わる。白銀の睫毛に縁取られた金の瞳に、その艶のある深い声に、相対する者は全て支配されてしまうのだ。そんな奇妙な
だが、男の相手を務める女は、既に別の男に支配されていた。焔のような双眸を持った男以外に、彼女が心を委ねることはない。
女は問うた。「自分に何用が?」。それは当然の疑問だった。廓ですれ違い、不意に視線が合うことはあれども、この男が己を呼ぶことは一度とてなかった。唯の気まぐれだと分かっていても彼女は思う。何故。
その問いに答えるかのように、『光源氏』とまで揶揄された天性の女誑しが、またこちらに微笑みかけた。かどわかすような笑みに女は溜息を吐きそうになりながら、酒瓶を手に取る。そうすれば、男は手にしていた杯を此方へと差し出した。
瓶を傾ければ、とくりと音を立てて、色のない酒が流れ落ちる。
「わっちを指名するとは。どねえな気まぐれで?」
女はもう一度、問いかけた。くつりと、男の喉が鳴る。
「未だ言葉に慣れぬ女子の声というのは、中々に愛らしいものだな」
返された言葉は己の疑問に対する答えではない。女は男を咎めるように伏せていた視線を上げた。だが男は相変わらず悠然と微笑んでいる。
「はて」
吐息のような笑いが男の薄唇から漏れた。
相対する女の口元に弧は描かれていない。その双眸にあるのは疑心という名の色。
男は笑い交じりに言葉を操りながら、杯を弄ぶ。
「そうさな」
揺らぐ杯の水面へと注がれていた視線が、ふと上向いた。白銀色の睫毛に縁どられた金色の瞳が、悪戯気に細まる。
形の良い唇から、赤い舌が覗いた。
「なんとなく、だよ。
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