19.

「……なんだよ、これ」


 歩道橋の上。迫りくる蟲から避難するように其処へと移動していた桐人は、眼前に広がる光景に唖然とした。

 群がる蟲たちに、其れを喰らう蚯蚓ミミズ。余りの光景に頭が真っ白に塗りつぶされそうだった。


『恐らく、君の探している菜々美ちゃんを取り込んだ蟲ね』

「は……? いや、だってアレはもっと、小さかっ……」

『成長したんでしょう。微かにだけど、君の幼馴染の匂いもするし、アレがそうで間違いないんじゃない?』


 なにげなく落とされた発言に、桐人は食いつくように切っ先を持ちあげた。


「生きてるのか……!?」

『多分ね。死んでたらあんな所から、ここまで匂いは香ってこないわよ』


 その『匂い』は桐人には分からないが、だが、少なくとも彼女が生きていると知って安堵した。

 興奮したように、刀身へと語り掛ける。


「な、菜々美ちゃんは……?」

『さあ……私は彼女の匂いも霊気もよく知らないし。こればっかりは分からないわ……色んな気配は感じるけどね』

「気配って……」

『人間と蟲』


 それは桐人の推測が真実だと肯定する言葉だった。


『君の推理は、本当に当たってたみたいだね……死んではいない。吐き気がするほどに、うじゃうじゃと人があの中で生きてるのが解るわ』

「……っ」


 苦々しく落とされた声色は、桐人に希望を抱かせるには十分な力を持っていた。

 柄を強く握りしめながら、少年は問いかける。見えた光明に、心臓が早鐘を打ちだした。


「じゃあ、まだ助か……」『ないわね』


 まだ助かる。見えた微かな可能性に桐人は喜色を覚えそうになったが、すっぱりと万葉に否定をされて、再び道を閉ざされた気がした。


「な、なんで……」

『前言ったみたいに生きてるって解ってても、実際に取り込まれた人間がどうなっているのなんて解らない。それに、どれだけの人があの中に居ると思っているの? あの中から菜々美ちゃんを見つけて助け出すなんて芸当、私には出来ないわよ』

「あ、あの蚯蚓の蟲を喰って……全員まとめて引き出す、とか」


 随分と大雑把な提案をする少年に、万葉は深い溜息を吐いた。


『あのねぇ……私は万能じゃないの。あの化け物から人を助け出すことはおろか、化け物を倒すことだって出来ないのよ?』


 絆すように一つ一つ説明してゆき、そして「あの蚯蚓を見ろ」と現状を理解させようとした。


『攻撃を喰らっても、喰らった霊力を糧に自己回復する蟲よ。戦っても体力だけを消耗することは分かっている』


 不死に近い其れは、どう足掻いたって桐人には倒すことはおろか、動きを止めることさえも出来ない。


『あの蚯蚓から人を解放させるには、まずあのデカい器の何処かにある小さな『本体』をヤる必要がある。だけど、随分と深く潜り込んでいるだろうから、この刃では届かない』

「その本体は……どこに?」

『……多分、中央部分。正確な位置は掴めないけど』


 万葉が指し示す先は蚯蚓の中央。確かに細長い体形の中心部には、僅かに膨らんだ部位があった。そして其処を守るかのように幾つもの触手が蠢いている。


「あれごと破壊すれば……」

『何故、陰察官たちがそれをやらないと思う?』


 あの部位ごと滅すれば良いのではないだろうか。そう思った桐人だったが、万葉の質問によって即座に断念される。

 言われたことを少し噛み砕けば、自ずと理由は掴めた。


「……まさか」

『あそこには陰察庁指定の《保護対象》も居るからよ』


 吐息を震わす桐人に、万葉は事実を淡々と述べる。


『蟲も《彼女》も、何処に居るのかも正確に解らないのに無駄な鉄砲玉を撃ってみなさい……どこに当たるか、わかりゃしない。それにもしかしたら菜々美ちゃんはアソコかもしれないわよ?』

「……っ」


 闇雲に攻撃をしてしまえば、沢良宜花耶を殺してしまう可能性だってある。それを考慮して陰察官たちは動けずにいたのだ。

 それは、きっとも同じなのだろう。

 視界に映る男の紅い髪が、風に舞う。


 静観したように、頭上から蟲を見下ろす鬼の面差しに焦りはなく、怒りもない。唯、静粛に敵を観察していた。

 いつもなら周囲に構わず、力だけで敵を捩じ伏せる鬼が、今日は随分と大人しい。たとえ不死に近い蟲だとしても、天下の酒呑童子ならば、一瞬で、跡形もなく、あの巨体を消し去れるだろうに、それをしないのは愛しい女が人質に取られている故か。


 ざまぁないな、と万葉は皮肉気に笑った。


 蟲の触手が舞い、ビルの上に佇む赤い影を追う。

 地に降り注ぐ雨の如く、鬼を射抜かんと何本もの黒い槍が奴を追いかける。空を跳躍することで鬼はそれを躱し、鬼気を纏わずに腕力だけで其れを吹き飛ばす。だが、自己再生という能力を得ることで無敵に近い存在となった蚯蚓には、そんな攻撃は通用しなかった。

 舌打ちしながら、鬼は自分を捕えようと蠢く『化け物』から手を引き、近くの歩道橋へと後退する。


 すとんと突然、目の前の手摺の上に着地した阿魂あごんに、桐人は驚いたように声をあげた。


「阿魂!」

「……あ?」


 鬼が胡乱そうに振り向く。そしてボロ雑巾のような姿をした子供を目にすると、僅かに表情を解いた。


「お前……」


 今の今まで少年の存在に気づかなかったのだろう。

 しばしの間、ボロボロの姿を凝視して、阿魂が口を開こうとした。だが、一寸先に黒い鞭が歩道橋へと襲い掛かり、阿魂は再度宙を跳ねた。

 飛び交う触手を足場に変えて、本体へと駆け抜ける。


 脚に集中させた気を爆発させ、一気に加速した。ほんの瞬きで蟲の懐へと飛び込んだ阿魂は、牙のように尖った爪を立てた。

 紅い三日月型の直線が三本、蟲の腹の上を走る。


「……っあ!?」


 刃が深く大きく、その肉を抉った瞬間、開いた空洞の中に囚われた大勢の人を見つけて、桐人が声を上げた。

 しかし、空いた空洞は瞬く間に塞がってゆく。


「……いま、」


 開けられる風穴、轟く打撃音。それらを確認しながら桐人は思考した。そして数拍の黙視の末、己の手に収まる大太刀に語り掛ける。


「佐々木先輩」

『なに?』

「本当に正確な位置を掴むことって出来ないんですか?」

『……あれの本体は他の蟲が多すぎて解らない、けど『神の欠片』の匂いを辿れば行けるかもね』

「花耶を……?」

『蟲にだって頭脳はある。多分だけど、身の安全のために彼女を傍に置いている可能性がある』


 そうすれば、誰も下手に蟲を攻撃できないから。万葉と同じように、それに勘付いて、あの鬼も、下手な手出しが出来ずにいるのだろう。


(まあ、それだけじゃないだろうけどね……)


 ふと、万葉が阿魂の腕へと視線を向ければ、刺青のように根を張る呪が見えた――あれは、土御門の呪いだ。

 封印が解かれたといっても、阿魂は完全に解放されたわけではない。あの呪によって、未だに動きを制限されているのだ。


(しっかし、あの女……)


 問題の渦中にいる少女を思い出して、万葉は疲れたように息を吐いた。

 毎度毎度よく事体を悪化させているが、今回に関しては彼女が居なければ、もしかしたら陰察庁は形振り構わず蟲を滅していたかもしれないので、結果的に自分たちにとっては好都合だったのかもしれない。


 そんな彼女へと万葉が呆れを通り越して感心を抱き始めていると、隣の少年が更なる質問を重ねてきた。


「あの蟲の中に人が居るんですよね……」

『まあね、人のまんまでいるかも怪しいけど』

「怪我しても自己回復って出来ますか?」


 その問いかけを噛み砕いて、万葉は蚯蚓の分析をしてみた。見た所どんな傷も直ぐに塞がっているようだが、あそこに居る者は既に『人として生きてる』ようには見えなかった。生きているものは居るのだろうが、大半は戻れない所まで行っている気がする。


『多分ね……同じ蟲が寄生しているのなら、蟲を取り除かれなければ再生するんじゃないの?』

「……」

『だけど、私も正直こんなのは初めてだから、保証は出来ない……というか、蟲が寄生している時点でもう無事じゃないかもしれないし』

「……」


 そう答える万葉に桐人はだんまりと耳を傾け、何かを模索するように、眼前の光景をじっと見つめた。

 すると、触手を捌いていた阿魂が、何やら不穏な気配を纏い始めた。


「……阿魂?」


 桐人にでさえも視覚できるほどの妖気が鬼の右腕から迸る。

 それは炎のような強烈な妖圧となり、激しく燃えさかりはじめた。


『成る程ね、上半身を吹っ飛ばす気か』

「吹っ飛ばすって……」

『沢良宜花耶の位置を大体掴めたんでしょう。しばらく余計な動きをさせないために、大ダメージを喰らわせるつもりよ』

「そんなことしたら、取り込まれてる人たちは……!?」

『再生能力があったって、肉体事体が消えてしまえば出来るものも出来なくなる……確実に死ぬわね』


 あの蟲の巨体は、恐らく取り込んだ人間の栄養を糧に形成されているものだ。その人間事体が跡形もなく滅されれば能力も低下する。

 幾ら再生能力があれども、身体の半分も滅されれば回復にも相当の時間がかかるだろう。阿魂はその間に沢良宜花耶だけを引きずり出して、残りの半身を抹消するつもりなのだ。


「……っ」


 赤鬼の無情な企みを察した途端、桐人が駆け出す。

 不慣れな動作で、少ない霊力を操りながら宙を飛躍する。足に集中させた霊力で大気中の霊気を瞬間的に刺激しては固め、足場を作りながら跳ねる。


 一歩一歩、跳躍を繰り返し、紅い妖気オーラを右腕に纏うその男へと接近した。


 黒い刺青が蔓延る腕を、阿魂は業火を纏いながら振りかぶった。

 左足を踏み出し、電柱の上から飛び降りた。落ちる先は、地上の蟲たちを喰らう巨体。的を絞って、火の粉を散らす。


 その一弾指――黒い閃光が視界を横切った。


「……っあ˝?」

「……っ待った、阿魂」


 ぎちぎちと交差する紅い爪と黒い刀身が、悲鳴を上げる。ゆらゆらと紅い焔が視界にちらついた。

 膨大な妖気を纏う腕を受け止める少年に、阿魂は目を細める。


「……これは、何の真似だ。糞餓鬼」

「……っ頼むから、それを今あれに振りかぶるのは待ってくれ」


 凶悪な腕力。殺気を放つその眼光。目だけで射殺されるのではないかと、桐人は錯覚しそうになった。だがそんな臆病な自分を叱咤して、必死に相手の爪を押し返そうと足掻く。

 しかし実力差はやはり歴然としており、容易に圧されてしまう。

 気のせいか、紅い爪を受け止める刀身が震えていた。


 己の手を阻む大太刀を視界に収めながら、阿魂は口を開く。


「……なるほどな。何処で手に入れたのかは知らんが、随分と面白い刀だな」

「……っ」


 するりと弄ぶように、阿魂の指先が刀身を滑り、撫でる。

 どこか余裕気なその動作に、桐人は顔を顰めた。


「だが……邪魔だ」


 煩わしげに阿魂が腕を振り払った。

 少年の身体が呆気なく傾く。霊力で固めていたはずの足場は意図も容易く割れ、今迄なんとか保っていた重心のバランスが崩れる。

 背中から地上へと桐人が落ちる瞬間、下から蟲の触手が伸びてきた。


「……っ!?」


 反応する暇も無かった。半径二メートルはあるそれが桐人の身体を包み、閉じ込める。

 視界が一瞬で遮られ、暗闇が広がった。


(……息がっ)


 一切の隙間も残さず、触手が幾重にも桐人に絡みつく。足掻こうにも腕や閉じた足の自由を奪われ、ギュウギュウに締めつけられた。

 黒い壁が肺を圧迫し、呼吸をするための空気さえも遮断される。手に握る大太刀が、顔を覆う触手の壁に空気孔を作ってくれる、唯一の助け綱だった。


「……っの」


 必死に触手を抜けようともがくが、余計に締りがきつくなるだけで、動けない。

 こんなことをしている場合ではないのに、足止めされている現状を桐人は悔しく思った。


(早くしない、と……)


 もう時間が無いのだ。風間菜々美が蟲に取り込まれてからかなりの時間が経っている。こうしている間にも着々と事態は悪化しているのだ。

 菜々美の顔が、刑務所での騒動が、脳裏を過る。沢良宜花耶だってどうなっているか分からない。

 一刻も早く、あの蟲を何とかしなければならないというのに。それを、


 ――ふざけるなよ。


 みしり。柄を握る手と、絡む触手を押し返す足が不穏な音を立てた。

 それに反応した万葉は、戸惑ったように声を上げる。


『片瀬、くん……?』


 柄を握る手が異様に強まり、一体どうしたのかと少年を見上げた。

 視線を移せば、黒髪に隠れる双眸は見えないが、ぎりぎりと己の歯を砕かんばかりに軋ませる口元が見えた。


(う、わ……意外)


 予想外のそれに万葉は僅かに驚愕する。

 暗闇の中でも、微かに伺えるその般若のような形相からは、憤怒の感情がありありと見て取れた。

 異様な怒気が、密閉した空間に立籠る。みしみしと徐々に腕と足を広げてゆく少年。その鬱憤で震える唇からは、悪態が漏れた。


「っざ、けん、なよ……!」


 ――この時、桐人は人生最大の怒りを覚えていた。


 疲れていたのかもしれない。今までのストレスが溜まっていたのかもしれない。阿魂の暴挙が過ぎたのかもしれない。或いは、最初から苛立ちを感じていたのかもしれない。

 何に対しての怒りかは分からない。いずれにしても、片瀬桐人は怒っていたのだ。


 花耶や土御門。阿魂と、上手く進まない今のこの現状。そして、情けない自分。今まで抑えていた不穏な感情はぽつぽつと長い間に蓄積し、『忍耐』という名のダムに収まりきらないほどに溜まり、そして決壊しようとしていた――。


「っの……くそ、へん、たい野郎がっっっ!!」


 ――まさに火事場の馬鹿力。

 万葉の手も借りず、ほんの一時だけ己を締め付ける触手を押し返した瞬間、闇に紛れていた黒い刀身を振り落す。





♢  ♢ 


 ――一方、少年を閉じこめる黒い檻の外。


 蠢く巨体の頭上で、紅い影が再び腕を構えはじめた。

 眼下を見れば、巨体とは別の、少年を捕らえた小さな黒玉が見える。


 少年を捕獲するように円形状を模ったそれがギリギリと力むように震えた。

 ぎゅっぎゅっぎゅ。肌が擦れ合い潰し合う音が響く。

 それを無感動に傍観しながら、ぽきりと、鬼は指を鳴らした。


 ――あれはもう確実に死んでいるだろう。


 殺す気はなかったのだが、こうなってしまったら仕方がない。後で様々な人間にどやされそうだが、こうなるまえに確かにあの少年には忠告をしたのだ。

 なので、阿魂は誰からもとやかく言われる気は無かった。


「――あばよ」


 それは桐人にではなく、地上に貪る巨体へと向けた言葉だ。

 阿魂の意識に、彼のことは最早残っていない。思考するのは、目の前の害虫駆除と、少女の奪還についてだけだ。

 紅い焔を纏わしながら、もう一度腕を振りかぶった。瞬間、


「あ……?」


 ――檻玉が破裂した。


 黒い壁がバラバラに切り裂かれ、まるで爆発したかのような風圧が起きた。

 肉塊を吹き飛ばしながら器に収まりきらない程の霊気が循環し、へと吸収される。取り残された他の触手たちが、怯えるように身を引いた。


 この時、阿魂は珍しくも、眼前の光景に瞠目していた。


 灰のように、ボロボロと朽ち落ちる触手。その中央に佇む影。

 見える背中は薄汚れており、手に握る大太刀が少年を小さく見せる。

 だが、その実。使い古した雑巾のような背中は、堂々としていた。


 感情の色も何も見えない。落ち着いた声色が空気を震わす。


「――阿魂」


 名を呼ばれた阿魂は、黙って相手の出方を待った。


「……俺が邪魔臭いのは分かる。俺もお前の邪魔する気はないし、したくもない」


 口ではそう言っているが、抑えきれない殺気が、少年から徐々に滲みでていた。その口調が、態度が、背中が、彼の静かな怒りを物語っている。


「……けど、花耶を助けたいっつうなら、」


 ゆらり。少年が動いた。

 ぱさぱさの短い髪が風に靡き、擦り傷だらけの頬が、上空に立つ鬼の視界に映る。


「俺の話を聞け、」


 一際強い爆風が地上で巻き起こる。恐らく陰察官たちの仕業だろう。だが、下の派手な戦闘など気にした様子もなく、少年は振り返った。

 黒髪が風に揺れながら、隠れていた、その激しい感情を宿した双眸を顕わにする。


「――後で幾らでもぶん殴られてやるから、手を貸せ! 耳を貸せ! この糞鬼がっっっ!!」


 ぎらつく刀身の切っ先を奴へと向ける。

 頼みごとをしているようで、その実、乱暴な命令口調は明らかに喧嘩を売っていた。


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