2.

 馴染みの万屋である土竜から、万葉がそれなりの情報を得た翌日。

 まだ其れほど日は経っていないので完全に安心はできないが、今の所、土御門春一から万葉に接触を図る気配は無かった。

 教室で、時偶に彼の視線を感じることはあったが、接近するどころか監視している様子も無い。


 それが万葉にとっては少し拍子抜けで、けど、「これはこれで良いだろう」と一人、納得していた。

 どうせその内、取り調べのようなものを受けることになるのだろうが、心配する必要はない。実際、蟲との関わりを一切持っていないので直ぐに疑いも晴れるはずだ。


 しばらくは行動も控えた方が良いだろうと、『心臓』についての情報収集もおざなりに、変哲のない日常を過ごす。


「にしたって、暇だ……」


 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、部活や帰宅へと勤しむ生徒たちの声で賑わう中、万葉は一人、図書館へと足を運んでいた。


(何か読むもの無いかな……)


 図書委員でもある万葉は本日の受付・整理当番なこともあり、館内を周っていたのだが、共に務めるはずの後輩が未だ到着しておらず、人も居ないので「まだ時間があるから」と暇をつぶすための本を探し始めた。


(……と言っても、ここら辺りの本、殆ど読み終わっちゃってるしなぁ)


 本の背表紙をなぞりながら、棚の間を進んでゆく。

 日の光が良い具合に館内に差し込んでおり、読書には持って来いの環境と化していた。それが嬉しくて胸を少し弾ませるのだが、肝心の本が見つからないと万葉は軽く肩を落とす。


「無いかね、読んでない本」


 歴史書やエッセイなどの類は御免だ。歴史は嫌と言うほどにその身で体感しているし、エッセイは他人の意見など興味ないので読む気にもなれない。

 懐かしい古本を読み返してみるのも手だが、今は新しいものを読みたい気分だ。


(……何か、て。あ)


 あった。

 館内の隅。追いやられたかのように、ひっそりと其処に挟まれた何冊もの書物たち。


「……」


 子供の学び舎に置くべきではない『ソレ』に、万葉は眉を顰めるが、数秒の黙思の末、手を伸ばした。


「……偶にはこういうのも良いか」


 長らく触れてこなかった『ジャンル』に、好奇心がくすぐられる。

 正直、此処に置いて良いのかと些か考えさせられる作品ではあるが、それでも敢えてこの場で読み上げるのも一興。

 万葉はほくほくと何冊かの本を腕に抱えて、カウンター席へと軽やかなステップを踏んだ。





 ♢  ♢


 一方、同時刻。二年A組、教室。

 周囲が身支度を整えて部活や寄り道へと浮足立つ中、片瀬かたせ桐人きりとはどんよりとした重い空気を携わせながら、深い溜息を落としていた。


「片瀬ー……って、うわ! どうした? 目の下のクマ、凄いぞ」


 眉尻を下げながら、友人の風間かざまが問いかける。

 それに答えるように軽く手を翻すと、鬱々とした面持ちで桐人は声を絞り出した。


「……酒くさ野郎に布団、奪われた」

「酒……? なんだ、沢良宜さんのことじゃないのか」


 桐人の脳裏を過るのは、横暴な鬼。

 飲むだけ飲んで、人の布団を占領して爆睡した奴を、何度部屋から蹴りだしてやろうと思ったことか。

 お蔭で碌な睡眠も取れず、酒臭い部屋の中でそのまま朝日を迎えてしまった。

 痛む米神を抑えながら、桐人は暗澹とした気持ちで答える。


「あいつには、相変わらず避けられっぱなしだよ」

「あー……みたいだな」


 沢良宜花耶に関しては、依然と変わらずギクシャクとした関係が維持されている。ほとぼりがさめる気配も未だ無し。

 今朝、廊下で遭遇した際も、何故か回れ右で、何の挨拶も無しに桐人から逃げていた。

 その現場を丁度目撃していた風間は、苦笑交じりに桐人の言葉に納得した。


「それより、風間。お前、妹さん大丈夫なのかよ? さっき、貧血で倒れたって聞いたけど」

「ああ、いや。それが風邪ひいてたみたいでさ、今保健室で寝てる。倒れた割には、大した熱じゃないらしいけどな」

「親御さんは?」

「仕事で迎えに来れそうにないって」


 風間の両親は共働きで殆ど家を留守にしている。二人とも随分と多忙の様で、中々帰ってこれないらしい。

 先程、倒れたと言う妹は大丈夫なのだろうか。例え大した容体でなくとも、一度病院で診てもらわなくてはならないだろう。


 風間は確か部活か、参加している委員会の用事があったはずだ。部活はともかく、図書委員会は在籍している人数の割に、学校が管理している蔵書の数が多いせいか、普通より仕事も多くて大変だとよく聞く。


「今日、部活だっけ? それとも図書当番?」

「図書。誰かに代わってもらいたいところだけど、捕まらなくてさ。かと言って、もう一人当番やってる先輩に、仕事全部押し付けんのも申し訳ないし……」

「そっか……」


 どうやら、代わってくれる図書委員はいなかったらしい。皆、何かと忙しいようだ。


 今、風間の妹が一人で自宅に戻れたとして、看てくれる家族は誰も居ない。

 がらんとした自宅より、保険医の居る学校に残った方が得策ではあるが、それでもやはり良く知る家の方が個人的には落ち着くし、療養には一番だろう。


 この様子だと風間の用事が終わるまで、彼女が家に戻ることは難しそうで、桐人は少し心配になった。


「代わろうか?」

「え?」

「図書の仕事はやったことねーけど、雑用なら幾らでも出来るから」


 「マジで?」と呟く風間に軽く頷いてやると、パッと花が咲いたような笑顔を向けられた。


「有難う、片瀬! お前、マジ良い奴! 救世主!」

「へいへい」


 バシバシと背中を叩く風間をあしらいながら、桐人は教科書を鞄の中に詰めていった。


「じゃあ、そうと決まれば行こうぜ! 先輩に紹介しとくから」

「おー」


 はりきったように、教室の扉口で手招きする風間の後を追うように、桐人も足を踏み出した――が、これが後に後悔を呼ぶことになる。


「えーと、先輩はっと……」


 図書館内。

 小宮高校は他校と比べると随分と立派な書庫を保持しており、この館内も他所と比べると広く、壮大だ。

 出入り口も両開きの扉のせいか、厳格な佇まいをしている。

 その入口近くで、風間はキョロキョロと、例の先輩を探すように首を回した。すると、カウンター席に人影を見つけ、声を上げる。


「あ、いた」

「え……」


 風間の視線の先。

 白いカウンターテーブルの内側で、本を手にする女性に桐人は疎外感を抱いた。


 ピンと伸びた背筋に、膝の上で広げる書物を覗きこむ横顔。白い肌にかかる黒髪は、背景に溶け込んでしまいそうな、大人しい雰囲気を漂わす彼女に、強い存在感を与えていた。

 細いフレーム眼鏡で目元が隠れていても、その通った鼻筋と紅い唇から、彼女の面立ちが整っていることが分かる。

 控え目ではあるが、空間にぽつりと位置する彼女は、確かに洗練された美しさを伴っていた。


 綺麗な人だ、と桐人は思う。だが一見静やかな動作を持つ彼女が、実際には強烈な中身を内包していることを桐人は嫌と言うほどに知っていた。

 たらり、と冷汗が少年の額から垂れた。


 ――まさか、


 嫌な予感がする。

 まさかの事態に石造のように硬直した桐人はどうすることも出来ず、事をただ黙って見守ることしか出来なかった。


「佐々木先輩!」


 風間が彼女の名を呼ぶ。

 その瞬間、思わず奇声を発してしまいそうになった。望まぬ事態に、思考が暴れ出す。


「いや、まて。かざっ……」


 思わず役目を辞退しそうになる桐人。だが彼のそんな行動も虚しく、その前に『佐々木先輩』こと万葉が顔を上げてしまった。


 桐人たちへと視線を向ける彼女は僅かに驚いたような顔をすると、次に立ち上がる。同時に風間も彼女の元へと小走りに駆け寄った。そうとなればもう風間の背中を追いかけるしかなく、桐人は項垂れた。


 まさかの事態に桐人が項垂れる一方で、万葉は二人の様子を見て、鋭くも「何かあったな」と察した様だ。


 「遅れてすみません」と頭を下げる風間に、気にしてないと軽く頭を振って、どうしたのかと尋ねる。すると、風間がバッと勢いよく万葉へと詰め寄り、慌てたように口を捲し立てた。


「……と、いうわけでスミマセン、佐々木先輩。今日だけ、受付当番こいつに任せていくんで」


 立て板に水。口を挟む隙も与えることなく、弁明する後輩に万葉は黙って耳を傾けた。

 ちろりと横に視線を逸らせば、其処には居心地悪そうに棒立ちをしている片瀬桐人。


 またか、と呆れの意を覚えると同時に哀愁の念を抱いた。視界の端で口を固く引き結ぶ少年の顔には、「気まずい」と一言の文字が描かれていた。


「それじゃあ、すみません! 片瀬、後頼んだ!」


 無責任にも走り去ってゆく後輩を見送りながら、万葉はカウンターの内側から外へと周る。


 カウンターの上には返却された本の山。既に大体の確認と修繕は終わっており、あとは棚に戻すだけだ。が、その前に司書に確認しなくてはならないことがある。

 確か今の時間帯は小休憩で食堂まで珈琲を求めて出ているはずだ、と思考した万葉は背後で話しかけづらそうにしている桐人へと振り返った。


「直ぐに戻ってくるから……申し訳ないけど、そこの整理だけお願いね」

「あ、はい」


 片付けるべき本を指さして、万葉は廊下へと歩き出す。

 長い毛先を揺らしながら扉の向こうへと消える後ろ姿を眺め、桐人は深い溜息を吐きだした。その刹那、ピタリと彼女が立ち止まる。


「あ、そうだわ……ついでに、其処の読書スペースに置きっぱなしにされている本、全部戻しといてね」

「え゛……?」

「私との仕事、早く終わらせて、帰りたい、でしょう?」


 爽やかな笑顔。ちらりと彼女が目配せする先は窓際の机。その上に山積する、軽く五十冊は超えているだろう、本の塔。


(今、さりげなく嫌味のように仕事押し付けられた!?)


 先程の発言からして、桐人の余所余所しい態度に不満を覚えていたようだ。言葉の端々に棘を感じた桐人は、口を引き攣らせた。

 そして、そんな少年の様子にご満悦したように頷くと、万葉はそのまま図書館を後にした。


(……マジか)


 彼女の姿が見えなくなった途端、桐人は脱力したように息を吐き出した。

 ダラダラと額から零れ落ちる汗を拭いながら、肩の力を抜く。


 佐々木万葉との接触は出来れば避けたかった。

 先日の一件以来、彼女に対して何処となく苦い気持ちと、自論を聞かせた申し訳なさが募って、顔を合わせづらかったのだ。


(ああ……俺の馬鹿野郎)


 過去の自分に、桐人は毒吐きたくなった。

 風間が病気の妹を家に一人に出来ない事は分かっているし、それで自分から手伝いを申し出たことも仕方がないとも思う。というよりは、「これで良かった」と納得している。


 だが、それでもだ。「何故、よりにもよって彼女との図書当番なんだ」と愚痴を溢さずにはいられない。

 話を聞いた当初は良かれと思って仕事を代わることを提案したが、今では万葉と一緒だと知り、桐人は早くも後悔をし始めていた。


 だが、いつまでもうじうじ悩んでても仕方がない。こんな態度を取るのは万葉にも失礼だ。

 情けない自分を叱咤して、桐人は頼まれた仕事を随行することにした。


「おっも……」


 ヨロヨロと今にも崩れ落ちそうな本の山を溢さないように抱え、覚束ない足取りで歩く。

 腕の中でぐらぐらと揺れる塔のせいで、正面が碌に見えない。横の壁を頼りに、桐人はカウンターへと進んだ。


「誰だよ、こんなに本置いてった奴……」


 傍迷惑な誰かに苛立ちながら「とりあえずこの荷物を片付けよう」と、カウンターの上にどさりと山を乗せる。


「これで、よし……」


 たったの数分。何キロあるかも分からない何十冊もの本を抱えていた所為か、凝ってしまった肩を揉み解した。


「……つか、本当に誰も居ねぇ」


 風間との普段の雑談を聞いていた限り、読書や勉強をする人間が居ることを想定していたのだが、今日はあまり見当たらない。多くて四、五人ぐらいだろうかと館内を見渡す。


(これ、どうすれば良いんだろう……あの先輩も、まだ戻ってきそうにないし)


 「そういえば図書館にはあまり顔を出したことが無かったな」と気付き、ちょっとした探求心で館内を見て回ることにした。

 ではなく、である此処は、他校のものと比べて異様に広く、管理されている蔵書の数もかなりありそうだった。

 ずらりと並ぶ幾つもの本棚に、桐人は何処から入ろうかと迷いながら散策を始める。


(うっへェ……多すぎて逆に読む気力も削がれそうだわ)


 本の虫でなければ勤勉でもない桐人にとって、その光景は何処か苦痛に思えるものだった。

 ずらりと並ぶ蔵書は壮観で、僅かにたじろぎそうになる。


「……そろそろ、戻るかな、って。あ」


 見てるのも飽きてきたし、万葉もそろそろ戻ってくるはずだ。散策を十分に満喫した桐人がカウンターの座席へと腰掛け、山のように積まれた本を確認しようとした時だった。


 ガタリと机に脚をぶつけてしまい、その上に積まれていた本がばらけ落ちた。


「やばっ……!」


 慌てて乱雑に散らばった本を拾い上げ、ページが折れていないか、中身を確認する。


「あ、良かった……特に、問題なさ――」


 ダメージ一つ無いそれにホッとするも、数秒。

 衝撃のあまり、桐人の思考は真っ白に塗りつぶされた。


 石化したように、白目を向く彼が凝視する先は、手の中の一冊。特に何の変哲もない普通の文庫本に見えるソレは、だが、異質な題名を掲げていた。


 『SとMの禁断の蜜畑! 〜乙女は嗜好に目覚める〜』。 


 ――問題なさげどころか、タイトル的にも内容的にも、アウトな本、来たぁ……!!


 頭上に雷が落ちた。

 喉を詰まらせた桐人は硬直が解けたその瞬間、心の中で叫ぶ。


(え、待て。え、何これ? は? ちょっと待て。秘密の花園ならぬ蜜畑って……え? SとMの嗜好って、つまりアレだよね? 完全にアウト・オブ・健全なアレですよね?)


 余りの事態に、興奮よりも戸惑いが勝る。

 ピンク色のカバーにデカデカと描かれた煌びやかなタイトルは、見れば見るほどいかがわしい何かに見え、桐人は己の目を疑った。


(え、ちょっ、え……どうしよう、え、どうしよう。え、てかコレ誰の? あれ、図書館のじゃないよね?)


 グルグルと混沌とした思考が脳内を埋め尽くす。

 とりあえずどうしようか、と本を注視する。

 誰かが外から持ち出して、こっそりと此処に隠したのだろうか。いや、だが何故そこで図書館? 

 駄目だ、混乱しすぎて頭が働かない。


「と、とりあえず、元の場所に……って、どこだ?」


 元の位置に戻そうにも、この本が何処から出てきたのか分からない。自分が運んできた本の山に紛れ込んでいたのだろうか、それともこのカウンターの上に……。


 と、途方もないことを床の上に座り込んで、桐人が思い悩んでいた時だった。


「……き、桐人?」


 誰かに呼ばれた瞬間、咄嗟に本を見られぬよう、抱きしめるように腕で覆い隠す。

 慣れ親しんだ声が耳元に流れ着き、桐人は顔を上げた。

 背後をそっと覗き見た先には、気遣わしげにこちらを見つめる少女。


 万葉と同じ黒髪ではあるが、紅い髪紐で髪を一房括る彼女は華やかな雰囲気を醸し出していた。

 だが、その可憐な面差しは物憂げに曇っている。常に凛とした態度と反して、その顔は頼りなげに見えた。


「か、花耶……」


 どうやら本を借りに来たらしい。彼女の腕の中から見え隠れする歴史書を見るに、課題のためだと推定できる。だが傍に土御門や赤木、基、阿魂の姿が見当たらない。珍しくも、一人の様だ。


「だ、大丈夫? 具合、悪いの……?」


 整った眉毛を八の字にさせながら首を傾げる彼女が、困惑したように伺う。

 それに対して、桐人は焦ったように答えた。


「い、いや、全然。まったく!」

「そう」


 何ともない事が分かったのか、胸を撫で下ろすと、花耶は追ってソワソワと身動ぎをしだした。

 何とも微妙な空気が流れ始める。それに耐えきれず、桐人は誤魔化すように質問を重ねた。


「か、課題か……?」

「あ、うん……そういう桐人は? 図書館に居るなんて、あんたにしては珍しいじゃない」


 口数が増えつつあるそれは、まるで以前の二人の会話のようで、桐人は安堵した。花耶も話しやすくなったのか、喧嘩したことなど忘れたように少しずつ軽口をたたき始める。

 だが、ふと思い出したように、彼女は口を開いた。


「あのさ、桐人……前の、朽木さんの時のことなんだけど」


 それに不意を突かれた桐人は、躊躇うように一瞬で口を噤ぐんだ。


「確かに桐人の言う通りだったかもしれない。でも、私さ……」

「……」


 緊張が空間を満たす中。心してかかるような心境で、桐人は次の言葉を待った。が、


「おー、こんな所に居たか」

「へぶっ!!」


 あと少しのところで、誰かが桐人の背中を踏んづけた。


 顔面を床に殴打し、奇声が唇から零れ出る。突然の第三者の登場に、桐人たちは目を白黒させた。


 顔が痛い。主に額と鼻が。

 カーペット式の床に肌を擦ってしまい、ヒリヒリとした熱と痛みがこみ上げてきた。


 桐人は怪我の原因である第三者に、恨めし気な眼を向けた。


「阿魂、さっ……何を」

「悪い。見えなかった」


 さらりと悪びれも無く返す阿魂に、今季最大の怒りを桐人は抱く。


(糞野郎……)


 折角花耶から思い思いの言葉を聞けると思ったのに、この理不尽な扱いは何だと、床に拳を叩きつけたくなったが、阿魂の前でそれをやるのは憚れる。


 そんな二人に呆気に取られていた花耶は、ハッと我に返ると、焦ったように桐人へと駆け寄ろうとした。


「ちょっと、阿魂! ……て、あ」


 桐人が背中を踏みつけられた拍子に、足元に飛んできた本を蹴ってしまい、慌ててソレを拾い上げよう花耶は屈んだ。と、同時に硬直した。


「……花耶? どうした……て、あ」


 突然、黙り込んだ彼女が気になって桐人が呼びかけるが、あることに気がつき、こちらも固まってしまう。

 表情を削ぎ落した顔で、少女が凝視する先には、一冊の桃色の本。

 裏表紙に綴られた幾多のいかがわしい台詞は、彼女に衝撃を与えるには十分な威力を有していた。


「いや、まて。花耶、それはだな」

「……なに、これ」

「いや、だからっ」


 届くはずの無い距離で、待ったをかけるように手を伸ばす桐人の顔が徐々に青ざめてゆく。「弁解せねば」と口を忙しなく動かすが、その前に羞恥で震えるソプラノボイスによって断念される。


「こんな物、読んでたんだ。へー……」

「ちがっ」

「こっちは、ずっと落ち込んで、自分なりに考えて悩んで、碌に寝れなかったっていうのに……よくも、こんな」


 ゆらり。床についていた膝を上げ、花耶はすっと背筋を伸ばした。だが、その秀麗な顔は未だ俯いたままで、背中からは異様な怒気が立籠っていた。


「花耶、待て。俺の話を」

「――最っ低!!」

「っで!!」


 がつり。

 さきほど痛めたばかりの額に、投げつけられた本がクリーンヒットし、桐人はそのまま勢いよく後ろへと倒れ込んだ。

 痛みを耐えるように額を抑える少年を尻目に、花耶は走り去る。

 後ろで事を傍観していたはずの阿魂はいつの間にか移動しており、彼女の後を追うようにゆったりと足を進めていた。


「テメーの趣味にとやかく言うつもりはねーが、もう少しマシな、見つけろよ」


 呆れたような眼差しで余計な一言を落としてゆく奴に、桐人は先程の本を投げつけたくなった。


 ――だから、違うっつってるだろうが!


 どいつもこいつも人の話を聞け。

 というか、一体自分が何をしたと言うのだ。親切心で友人の図書当番を代わってやったというのに、この仕打ち。

 そりゃあ、確かにあの文庫本にほんの少しの喜色も覚えなかったと言えば嘘になるが、それでも理不尽である。


 手元に放り出された文庫本に顔を顰めながら、桐人は諸悪の根源を呪った。


「つか、どうすんだよ……これ」


 このまま公業の場所に放置するのは否めるし、だが、だからと言って他にどうすれば良いのか分からず頭を悩ませる。

 「そもそも、誰のだよ」と尤もな疑問で頭を掻きながら、再びカウンター席に腰掛けた。


「つーか、いっそ公開処刑として、そこの入口の棚に飾り付けてやろうか」


 そう言って立ちあがろうとした瞬間、食堂から万葉が戻ってきた。


「待たせてごめんなさい、A庫の本なんだけど……」


 がたり。彼女の声が聞えた瞬間、手持ちの文庫本を足元の鞄に突っ込む。


「……どうしたの?」

「いえ、喉が渇いてたんで、水筒取り出してました」


 へらりと弱弱しい笑顔を浮かべながら、相手に見えるように水筒を翳す。

 カウンターの内側から屈んだ体制でこちらを振り返る桐人に、万葉は怪しむように目を細めた。だが直ぐに疑念を払拭するように、何でもない顔でカウンターへと向かう。


「そう、今日暑いものね。片付け、有難う」

「いえ……」


 何処か後ろめたさを感じながら、次に指示された仕事を請け負ってゆく。

 だが何時本のことがバレるかとヒヤヒヤしてしまい、桐人は鞄から意識を外すことが出来ずにいた。


「……あ、」


 そうして黙々と仕事に励むこと数十分、ふとあることに気付いた桐人は声を上げた。


 ♢  ♢


「本を二冊ほど持ってかれた?」

「いや、あの。本人も多分気付いてないと思うんすけど……」


 さきほど花耶が桐人のことを誤解し例の本を投げつけた後、彼女は激情して歴史書を抱えたまま、図書館から出て行ってしまったのだ。

 あれから随分と時間は経っているが、本人が戻ってくる気配は無い。


「……もうそろそろ、閉館時間だし」


 ちらりと、困ったように万葉は壁時計を見上げた。

 恐らく本を持ちだしたことに気づかぬまま、彼女は帰宅してしまったのだろう。

 何処までも面倒事を起こしてくれる女だと、万葉は呆れにも似た感情で失笑した。


(司書の草薙さんには、事情をちゃんと説明すれば理解してくれるとして……)


 何にしても、今日できることは最早ない。

 「明日、直接会いに行くしかないか」とやるせない気持ちで、万葉は先の計画を立てた。


(センサーさえ、壊れていなければ……)


 図書館には本が勝手に持ち出されぬよう、入り口付近に防犯ブザーが設置されていたのだが、先の一件のせいで未だに故障したままなのである。


(陰察庁もさっさと直すなり、新しいものを寄越せばいいものを……)


 こういう時には役に立たないのだな、と思わず舌打ちしたくなる。

 だが、そんなことに一々目くじらを立てたって仕方がない。「金だけはあるくせに」と思わなくもないが、自分だってどうすることも出来ないのだから。


「とりあえず、今日は残りの貸出本の処理をして、本は明日直接返してもらいましょう。片瀬くん、頼めるわよね?」

「はい……」


 萎んだ風船のように侘しい空気を滲ませる桐人。

 随分と責任を感じているのだな、と万葉は苦笑しながら慰めるような言葉を探す。


「大丈夫よ。明日取り返せば、特に何の問題にもならないから」

「……はい、本当にすみませんでした」


 何はともあれ、今日の仕事はこれで終わる。

 持ちだされてしまった本の方は、桐人に任せれば良いだろう。



 ――そうやって事を楽観視していた万葉だったが、結局自分がその役目を負うことになることを、後に嘆くことになる。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る