3.

 ——それは、万葉の記憶に最も鮮明にこびりついている光景だった。


『……に、たくない』


 『死にたくない』。

 そう零す『彼女』は、泣く暇も怒る暇も与えられず、事切れた。

 口から血を溢し、胸に風穴が開いたかのようにそこを必死に握りしめる『彼女』。

 それは一瞬だった。起きたことを理解する前に、『彼女』は逝ったのだ。



♢  ♢


「そっか……もうすぐで、五月二十一日か」


 明朝、五時。

 カーテンの隙間から差し込む日差しを浴びながら、布団の中で万葉はボーっと呟いた。


 夢を見た。

 何と言えば良いのか分からない夢。其処に抱く感情をどう形容すれば良いのか、万葉自身にも分からないが、確実に笑える内容ではない。


 ――それは初めて『心臓』を見つけた時の記憶だった。

 誰もが醜く争い、命を掴もうとした初めての瞬間。そして、同時に一つの命が消えた瞬間だ。

 潰れた『心臓』を前に、一番絶望したのは誰だっただろうか。

 心臓を潰してしまった元人間か、潰された元人間か。それとも、当時その現場にいた全員か。


 別にそんなことを考えたって意味は無いのだが、この時期になると万葉は何となくそのことを考えてしまう。

 ……そう、名も知らぬ『彼女』の命日――五月二十一日に近づくに連れて。


(あの時には、既に何とも思わなくなってた気がする……)


 冷蔵庫の中から紙パックの野菜ジュースを取り出しながら、万葉は思考した。


 『心臓』を見つけるための最初の道程は、最悪なものだった。

 あの時ほど人間、或いは『女』の汚さをその身で思い知ったことは無い。

 お互いに貶し合い、殺し合い。そのくせ、『不可叉』という生き物はどれもこれも美しい容姿をしているものだから、より中身の醜悪さに磨きをかけていた気がする。

 全員がそうだったとは言わない。だが、確かにそういう輩はいたのだ。


(……あれも原因だよな)


 そういう輩に日々妨害され、付け狙われていた時期もあったからか、万葉は他人の死に対して段々と冷めた感情を持つようになった。

 今と比べれば江戸時代なんて、殺生などは日常茶飯事だったのだ。

 その上、妖に囲まれながら生活していれば慣れもする。


 初めて同胞が一人死んだ時、万葉は衝撃を受けた。

 死なないと思っていた同種が死に、呼吸をすることさえも忘れそうになった。

 それほど、衝撃的だったのだ。


 あの瞬間、自分を襲った感情は同胞が死んだことへの悲しみか、自分が死ぬかもしれないという可能性に対する恐れか、今でさえも分からない。

 あの時、感じた胸の苦しみは何だったのだろうか。


 個人的には保身のための恐怖の方がありえそうで、口から自嘲が漏れた。


(でも、まあ……よく知らない人だったし)


 ぷつりとストローを紙パックに挿し、ジュースを啜る。じんわりと甘酸っぱい旨みが咥内に広がった。

 『不可叉』という存在は食事をせずとも『時』が足りていれば死にはしない。だが時々、味が恋しくなる時があり、万葉はこうやって嗜好品として飲食を求めた。


(この先、誰かが死んだとして、悲しむことはあるのだろうか……)


 不意にそのような疑念を抱く。

 死に対する感覚が麻痺しているわけではない。だが、それでも昔と比べて自分が死に慣れてしまったことを万葉は自覚していた。

 だからこそ分かる。


(あの時みたいに、感情的になることは、もう無いんだろうな……)


 脳裏を過るのは、『彼女』とは別の『不可叉』。

 腕に抱える血塗れの彼女は最後まで泣いていた。


 ――それは、万葉にとって数少ない友人の一人だった。


 勘違いをしてはいけない。この世に堕とされても、『不可叉』と呼ばれる存在になっても、万葉にだって人の死を嘆くことは確かにあった。

 怒りと悲しみで思考を埋め尽くされ、部屋に閉じこもることもあれば、激情で誰かを襲うこともあった。

 たくさん泣いて、咆哮を上げたことだってある。

 顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになるほどに、喉が潰れるほどに、何度も何度も嗚咽を繰り返した。


 だけど、今はもうしない。もう出来ない。

 その理由は、きっと――。


「……なんか、疲れてきた」


 珍しくも雲で覆われた空を見上げて、万葉はけだるげにぼやいた。




♢  ♢


「……おかしいな」


 午後一時三〇分。小宮高校、図書館。

 倦怠感を覚えながらも、万葉は学校へと登校していた。


「誰か、持ってったかな」


 ガソゴソとカウンターの上や下、引き出しの中を探りながら万葉は首を傾げた。

 棚も一通り確認したし、館内の隅から隅まで周ってみたが探し物は見つからない。

 それに軽く眉を顰めながら、カウンター席に腰掛けていた本日の図書当番である後輩に「ごめんね」と頭を下げた。


「あの、佐々木先輩。良かったら、私も探しましょうか……? どんな本か教え、」

「ああ、良いの良いの。そんな大したものじゃないから。有難うね」


 親切にも手を差し伸べようとしてくれた後輩に苦笑しながら、他の場所へと足を進める。


(言えるわけがない……あんなタイトル)


 ――『SとMの禁断の蜜畑! 〜乙女は嗜好に目覚める〜』


 探していた本の題名を思い出して、改めて無理だと首を振る。

 言ったら社会から軽く抹殺されると、万葉は嘆息を吐いた。


 学校で読むには問題がありすぎる文庫本は昨日暇潰しにと万葉が見つけた物だ。


 どうやってソレが此処に紛れ込んだのかも、どういう用途であの本棚に並んでいたのかも万葉には分からない。

 別にどうしても読みたいわけではない。だが、いつの間にか消えていた本の行方は気になった。

 さすがにないとは思うがもしアレが図書館の物だったのならば、消息が分からないままにしておくわけにはいかないだろう。

 それにアレを家まで持ち帰った奴がいるなら、是非とも顔を拝んでみたい。


 ちょっとした意地悪な好奇心を抱きながら、万葉は図書館を後にしようとした。その時だった。


「佐々木先輩」

「……あら、片瀬くん」


 憔悴しきった顔の桐人に呼び止められた。


「あ、本。取り返せたのね」


 「良かった良かった」と笑いながら、お礼を言おうとする。だが、その鬱々とした雰囲気を見るにどうも違うらしい。


「いえ、それが、まだ……」


 気まずそうに視線を泳がせながら口籠る少年に、軽く眉を顰める。また何かあったのかと片眉を上げた。

 「とりあえず、話してみろ」と視線で促しながら彼の事情を聴くことにした。

 初めは言いづらそうに途切れ途切れに言葉を選ぶ桐人だったが、段々と諦めがついたのか、観念したように今朝起きたこと全てを吐いた。


「避けられてる?」

「……というか、無視されているというか……えーと、すいません。それで、まだ本を」


 話を聞くこと一分。

 どうやら、沢良宜花耶に何らかの理由で避けられているらしい。それもわざわざ教室まで迎えに行った桐人を、まるで透明人間かのように完全無視をするほどには。


 「喧嘩したの?」と思わず聞きそうになったが、他人の問題に首を突っ込む趣味はないので、あえて気にしないことにした。

 それよりもだ。問題は桐人が本を取り返せないことにある。


「パッととっ捕まえて、さっと本を出すよう脅すことは出来ないの?」

「……いや、それは」


 さりげなく物騒なことを言う万葉に冷汗を垂らしながら桐人は無理だと暗示する。

 それに対して「良いからやってこい」と無理難題を押し付けたいところだが、ちらりと桐人の頬を見て「まあ、そうだろうな」と納得した。


(殴られたのか……)


 赤く腫れている左頬を見て、少なからず桐人に同情する。

 同時に「何があったかは知らないが、流石にコレは理不尽だろう」と沢良宜花耶に呆れの念を抱いた。

 だが、何よりも呆れているのは彼女が未だに本を勝手に持ち出したことに気付いていないことだ。


(馬鹿じゃないの、あの子……)


 確か成績は学年でも上位に入る頭脳を持っていたはずだが、この状況を見るにやはり馬鹿なのだろう。

 一日も経てば、本を持ちだしてしまったことぐらい、普通気づくだろう。

 それを未だに気付かず、本を自分から返しに来ない彼女に万葉は苛立ちを覚えた。


(……でも、あれ? ちょっと待てよ)


 ふとある可能性に今更ながら気付いて、思考を走らせる。


 ――昨日、消えた文庫本に、本を二冊持ちだしてしまったとされる沢良宜。


(……まさか、ね)


 なんとも愉快で面白そうな想像に、思わず口角が上がりそうになった。


 もしも、だ。もしも本当に彼女があの本を持ちだしてしまったというのなら、説明はつく。きっと恥ずかしさのあまり、本を返せずに居るのだろう。

 或いは、初めて目にした『ジャンル』に興味をそそられた可能性もある。


(うわー……)


 もし本当にそうだとしたら、桐人を向かわせるのはあまりにも不憫だ。

 数秒の黙考の末、万葉は仕方がないと心を決めた。

 あの女とは関わりたくないが、流石にこれは可哀想だ。

 そうと決まればさっさと終わらせようと、足を一歩踏み出す。


「……わかったわ。じゃあ、ちょっと行って来る」

「え、行って来るって、どこに……?」


 沢良宜花耶の元へと再チャレンジしに行くところだったらしい桐人は、万葉の突然の行動に目を丸くした。


「どこって、沢良宜さんのところ」

「え゛……」


 まさかの事態に「いやいや」と桐人が高速で首を振る。

 どうやら以前、沢良宜花耶のことを「生理的に受け付けない」と暴露した万葉の言葉をしっかりと記憶していたらしい。

 「絶対にこの二人は会わせちゃいけない」と使命感にも似た何かを抱きながら、桐人は必死に事態を防ごうとした。

 だが、そんな少年の妨害など其処らの子妖怪にも劣る。


「じゃあね、片瀬くん。また後で」

「え、いや、ちょっ、先輩!?」


 少年の説得などなんのその、スタスタと歩み去る彼女に桐人はいよいよ本気で焦る。

 慌ててその後を追いかけようとしたが、其処は『事件ホイホイ』ならぬ『妖怪ホイホイ』。一歩足を踏み出した途端に、どしんと隣の窓を襲った衝撃に驚き、振り返った。


「げっ……!」


 廊下の窓に貼りつのは、いつぞやの『からかさ小僧』。

 どうやって二階の窓に貼りついているかなど、そんな原理は知りたくもないがこのままにしておくわけにはいかない。誰かに見られたら大騒ぎだ。


 幸い、人通りの少ない廊下だったので、まだ誰も気づいていないが、いつ人が通るか分からない。桐人は急いで窓を開けて奴を追い返そうとした。

 が、そうは問屋が卸さず。


「大変です、片瀬殿!」

「今度は何だ!? てか、人に見られるから後にしろ!」


 哀れ、桐人。本日もトラブル尽くしである。





♢  ♢


「確か、沢良宜花耶のクラスは……」


 二年の校舎を渡り歩きながら、目当ての教室を探していると、万葉はチラチラと周囲の生徒から好奇の目を向けられた。


(さすがに、二年の校舎でも三年は目立つか……)


 制服は色もデザインも一年から三年まで全て統一しているのだが、やはり外見で先輩だと分かってしまうらしい。たった一、二年の差だというのに可笑しなものだ。

 だが、そんなこと万葉の知ったことではない。目立つのは避けたいが既に土御門に自分の存在はバレているし、今更注目されたからと言って何かの問題が起きるわけでもあるまい。

 周囲の視線など気にしないことにして、そのまま沢良宜花耶のクラスを散策する。


「あった、あれか……」


 二年D組。沢良宜花耶のクラスだ。

 まだ昼休みの途中もあって、騒がしい声が教室から聞こえてくる。


 コンコンと開いたままの引き戸をノックすれば、手前の席の生徒がこちらへと振り返った。

 軽く目を見開く少年は万葉の登場に驚いているようで、思わず苦笑してしまう。


「突然ごめんなさい。沢良宜花耶さんは居るかしら?」

「え、えと……多分、まだ食堂に」


 きょどきょどと、だらけていた姿勢を直しながら少年が答える。

 花耶が教室に居ないことに対し、内心舌打ちをしながらも、万葉はにっこりと少年にお礼を言った。


(どこまでも、手を焼かせる……)


 とりあえず少年に伝言を頼んで、このまま探し続けるか、沢良宜花耶が自分から尋ねにくるのを待つか、悩む。


「どうするかな……なんか、もう面倒くさいからこのまま」


 「このまま、帰って後は少年に任せるか」と万葉が結論付けようとした時だった。


「沢良宜に、何か用かな?」


 最も聞きたくない声を耳にしてしまった。

 このまま敢えて奴を無視して立ち去りたい衝動を覚えながらも、万葉は大人しく声の主へと顔を向ける。


「ええ……勝手に持ち出された本のことで、少し」


 面倒くさそうに彼女が視線を投げかけた先には、土御門春一。

 今日も今日で、たいへん見目麗しいご尊顔を誇る男に、万葉の表情が歪みそうになった。だが、そこは大人だ。表情筋を力ませて耐える。


「本?」

「きのう、手違いで貸出手続きも済んでいない本を図書館から持ち出されてしまったのよ」

「沢良宜が?」

「……片瀬桐人と派手な喧嘩をして、怒りで我を忘れて図書館から出ていってしまったそうよ」


 かなり失礼な言い方をした万葉だったが、土御門は顔を顰めず合点がいったように頷いた。

 「ああ、なるほど」とさえも零す彼は、たったの一言二言で、どうやら事態を把握したらしい。

 それを半信半疑に思いながらも「これで分かっただろう」と万葉は会釈して、そのまま自分の教室へと戻ろうとした。だが、その試みは即座に断念される。


「ああ、そうだ。佐々木さん」

「何かしら?」

「ちょっと、良いかな?」


 ――うわぁ、来たか。


 危惧というよりは、警戒していた事態がついにやって来た。

 迫りくる『取り調べ』という名の時間に、万葉は逃げたくなるが必死に耐える。

 ……まあ、『取り調べ』と言っても、単に万葉が例の事件に関わっているか否かを確かめるための調査なのだけれども。


(学校、休めば良かったな……)


 悄然たる心情を抱えながらも、土御門春一の願いを承諾しようと、努めて明るい声色を万葉は意識した。


「ええ、もちろん……何かしら?」

「此処ではなんだし、外で話でもしようか」


 そう言って春一は周囲を横目に見た。

 気のせいか生徒の数が野次馬のように増えており、幾多の視線を隣の教室からも感じる。これは完全に聞き耳を立てられているなと、万葉にも分かった。


「そうね……場所を変えましょう」


 ――ああ、憂鬱だ。

 空は曇っているし湿気も多いしで万葉は嘆きたくなった。

 何故、よりにもよってこんな日に陰陽師と顔を突き合わせなければイケないのだろうか。面倒事の匂いしかプンプンしてこなくて、頭痛を覚えた。




♢  ♢



「それで、話って何かしら?」


 所変わって、体育館裏。

 校庭で遊ぶ生徒たちの声が聞こえてくるが、誰も近寄ってくる気配は無いので、万葉は安心してそのまま春一と対峙している。


 腰元で手を組みながら、万葉は相手の出方を待った。青年の一挙一動を捕えるようにねめつけて、ちろりとその肩の上に乗る妖へと視線を移す。


 ヤモリと蛙の中間と言えば良いのだろうか。ポッテリとした出で立ちに、長い尻尾を振るソレは万葉もよく知る妖種だ。


さとりか……)


 さとり。爬虫類のような容姿をしているそれは、人の心を見透かすことで有名な妖怪だ。


(嘘は吐けないなぁ)


 まだ幼いように見える覚は、心を見透かせると言っても一つ一つの思考を読めるわけではない。

 覚れるのは精々怒りや喜びの感情までだ。恐らく相手が嘘を吐いているか否かを判定するために、春一は『覚』を連れてきたのだろう。


「朽木さんの時のように、蟲による事件が多発していることを知っているな?」

「……まあね」


 淡々と感情の見えない眼で質問を重ねてゆく春一。

 とりあえず聞かれたことには素直に答えれば良いだろうと、万葉は正直に答えた。


「単刀直入に聞こう。お前は何を知っている?」

「本当に直球ね」


 遠慮も何もない。有無を言わせぬ問い方に万葉は失笑した。


「遠まわしに回りくどいことをしたって、意味は無いだろう」


 それもそうだ。別に回りくどいことをして万葉を誘導尋問しても、覚のせいで正直に全てを吐かざるをえないのだから、意味なんて無い。

 その事実に疲弊しながらも万葉は納得した。


「それに君は回りくどいのが嫌いだろう?」

「……なぜ、そう思うの?」

「人と会話する時、君はいつも直球だ。おまけに随分と口数が少ない」


 ――よく観ていらっしゃるようで。


 確かに万葉は遠回しな会話や言葉遊びが苦手だ。得意不得意の問題ではなく、単に億劫なだけであるのだが。

 そんなことに無駄な労力と時間とストレスを掛けるぐらいなら、誰が傷ついても良いから馬鹿正直に言葉を投げかけた方がいい、と万葉は常々思っている。


「それで、さっきの質問の答えは?」

「質問、ね……」


 ――『お前は何を知っている?』


 土御門春一の問いを黙って反復する。


(『事件に関わっているな』という断言ではなく、『何を知っている』か……)


 餓鬼のくせに良い質問の仕方をしてくれる。

 最初に万葉が事件に関わっている可能性を問わずに、まず何を知っているかという情報を引き出そうとする理念性。それは万葉から見ても利口な尋問の仕方だった。


 事件に関わっている可能性がある妖を刺激してはいけない。

 特に『蟲喰い』は下級の妖として見下されがちだけれども、油断は許されない妖種なのだ。アレはアレで特異性がある。

 もし、土御門春一が相手をしているのが『蟲喰い』だった場合、核心的な場所を突けば即座に牙を剥かれ、尋問どころではなくなっていただろう。


 ……それに、事件との関係性の有無を問いただすよりも、まず相手がどのような情報を握っているのかを確かめた方が後の尋問もスムーズに進む。


 『何を知っている?』と言う言葉は断言的であっても、とてもあやふやな質問だ。

 その意味合いは『関わっているのか?』という疑問か、ストレートに『何を知っている?』というまんまな問いとしても取れるし、逆に『関わっているな』とオブラートに包まれた断言にも取れる。その意味合いは対峙する相手によって多種多様に変われるのだ。――それこそ、万葉が思いつく限り五種類ほどには。


 おまけにコレで相手が小心者や下っ端の妖怪であれば、その質問を勝手に悪い方に解釈して、焦って要らないことまで暴露してくれる可能性だってある。


 もしこれで質問した相手が事件に関わっている子妖怪だったとすれば。『何を知っている?』と言う質問に、自分のことが既にバレていると勝手に誤解し必死に誤魔化そうとして逆にボロを出すか、見っともなくも「見逃しくれ」と追い縋りながら自分の罪を認めてくれるだろう。

 逆に慎重なタイプであれば、覚のことを考慮しながら言葉を選んで答える。


 質問に対する情報を得られずとも、このたった一つの質問で相手の情報は幾らでも引き出せるのだ。


(腐っても、陰察官か……やっぱり気は抜かない方が良いなわな)


 けどこの手法が通用するのは小者だけだし、探られても痛くない腹を持つ万葉に使っても意味はない。


(それとも単に私が事件に関わっているのかを確かめるために、この質問をしたのか……)


 万葉は肩を竦めながら素直に口を開いた。


「事件が百件ぐらい超えてるのと、それが新宿に集中してること。それと陰察庁が今それを討伐するために蟲喰いを借りだしていること。以上」

「……それだけか?」

「ええ」


 平然と返す万葉を見つめる覚に変化は無い。「どうやら、本当のことのようだ」と春一は肩を落とした。


「その情報はどこで?」

「知り合いの爺が噂してたわ」


 嘘は言っていない。大事な部分を抜粋しただけだ。


 図太い神経で事実を隠す万葉に、覚は未だに疑った様子を見せない。どうやら上手く騙せているようだと万葉は無心にも思った。

 今の彼女に焦りも、喜びも、目立つ感情はない。この状況を楽観視している心情が功を成しているのだろう。


「……そうか。結局、君も白か」

「残念だったわね。無関係で」


 嫌味ったらしく微笑む。

 それに対して春一は特に気を害した様子も見せず「時間を取らせてしまってすまなかった」と丁寧にも謝罪をしてきた。

 それに僅かに瞠目しながらも別に構わないと暗示するように手を振る。


「それでは、行こうか」

「……え?」


 これで取り調べもどきも終わったと安堵し、意気揚々と教室に戻ろうと万葉がした瞬間、訳の分からない発言を青年が口にした。

 困惑したように眉尻を下げる万葉に春一はパチクリと瞳を瞬かせた。


「沢良宜に、図書館の本を返してもらうんだろう?」

「……え、」




♢  ♢


「ここ……に、居るの?」

「……沢良宜に施しておいた呪が示しているのは此処だ」


 三階の資料室。

 恐らく教師に頼まれごとをされて此処に入ったのだろうが、もうすぐ昼休みも終わる時間帯だ。

 だというのに誰も出てくる様子がない。だが、微かにだが中からガタガタと暴れているような、騒がしい音が聞えてくる。


 ――何故だろう。もの凄く嫌な予感しかしないのだが。


 頭のどこか遠くから聞こえてくる警報音に、万葉の目元がヒクついた。

 密室に、少女が一人。いや、扉の向こうには二つの気配を感じる。恐らく、一鬼と一人。


 じりじりと後退しそうな万葉の横でガチャリと春一は拳銃、基、『呪銃』を取り出した。


(……おいおいおい)


 セーフティロックを外す物騒な青年にいよいよ万葉は逃亡を図りたくなる。

 だが、例の本を沢良宜から取り返さないとどうもスッキリしなくて、諦めてその場に留まることにした。そして春一に目配せをされ、嫌々ながらも潔く目の前の扉を開く。


 すると、聞き取りにくかった声が、鮮明に聞こえてきた。


「いい加減にしなさいよ……この、変態!!」

「別に怪我をしていないか、確認するだけだ。問題ない」

「大ありよ!? て、ちょっとどこ触って……!」


 入口近くの床に倒れる二人を前に、青年と女性は閉口した。


「……」「……」


 予想通りの光景を前にして、万葉は目を覆いたくなった。


 床に押し倒してくる鬼を必死に退けようと抗う少女。

 ブラウスの裾は見事に乱れ、なんとも可愛らしい水玉の下着が見え隠れしていた。

 頬はリンゴのように火照っており、息も荒く、胸が僅かに上下している。


 ――あーあーあー……


 事後に見えなくもない光景。見たくもないものを見せられて、今度こそ万葉は眉を顰めた。

 やっぱり来るんじゃなかったと自分の軽率さを恨みたくなる。

 「どう、割り込めば良いのだろう」と思うと同時に「そもそも割り込んでいいのか」と頭を悩ませた。


 あんまりな状況に逡巡する万葉。そんな彼女を尻目に春一は銃口を鳴らした。


「ひっ……!?」「……っち」


 射出された銃弾を咄嗟に躱す阿魂。

 奴の頭があった位置を丁度横切り、弾が床へと着弾する。


 三〇センチほど離れたところに減り込んだそれを目にした少女――花耶は肝を冷やし、阿魂は舌打ちした。どうやら鬼は邪魔されたことに対して不満を覚えているようだ。


「メガネ、テメぇ……」

「不純異性交遊は禁止だと言ったはずだぞ、酒呑童子」


 不純異性交遊……。

 今時、真顔でそのような言葉を使う青年に万葉は思わず、吹きそうになった。


「せ、先輩……」

「君もだよ沢良宜。もう少し周りに気をつけろと、以前忠告したはずだが?」

「すみません……」


 呆れたように溜息を漏らす春一に沢良宜はホッと安堵しながらも、申し訳なさそうに頭を下げた。

 どことなく罰が悪そうに、乱れた衣服を整えていく彼女。抵抗するには抵抗したのだろうが、相手は鬼。力で押し負けたのだろうな、と万葉は阿魂に白い目を向けた。


(ものほんの変態だな、この男……)


 「なんで、こんなのに惚れたのだ」と過去に戻って、奴に入れこんでいたあの頃の己を叱咤したくなった。


 だがこの少女も悪い。春一が言ったように彼女は鬼を前に気を抜きすぎだ。

 どういう理由があったのかは知らないが、「密室で年中発情期と思われる奴と二人きりなど、軽率にも程がある」と、万葉は呆れの念を覚えた。

 酒呑童子は昔から隠り世では名の知れた、女好きでもあったのだ。


「土御門くん……」


 早くもこの場から抜け出したくなって、万葉は小声で春一に呼びかける。

 すると器用にもその声を拾ったらしい花耶は驚いたように万葉を凝視した。どうやらやっと彼女の存在に気付いたらしい。


 「え、なんで?」と当惑する花耶に、万葉は「お前のせいだよ」と毒吐きたくなった。


「沢良宜。きのう図書館から本を間違えて持ちだしただろう?」

「本……? て、あ!」


 指摘されて初めて気づいたらしい花耶はハッとしたように声を上げた。


「そ、そうだ。私、本を返そうと思ってて」

「佐々木さんはその本を回収しに来てくれたんだよ」

「か、回収……?」


 戸惑ったように此方を見上げる彼女に、万葉はにこりと愛想笑いを浮かべた。


「図書委員ですから」

「それは……すみません」


 オタオタと頭を下げる彼女に「気にするな」という風に手を振って、目的の本を所望する。


「いえ、それで本の方は?」

「え、えと、教室の方に」


 お互いに敬語。なんとも不思議、というより微妙な気分だ。


 沢良宜も似たような心境なのだろう。どこか居心地が悪そうに身動ぎをしている。無理もない。ファーストコンタクトがアレで、最初で最後だったのだ。お互いに良い印象は抱いてないし、万葉に至っては『生理的に受け付けない』という領域まで達している。

 ぎこちない空気にもなるだろう。険悪な雰囲気にならなかっただけでもマシだ。


 そんな二人に動じた様子もなく春一は、花耶に本を取ってくるように命じる。それに従うように花耶は慌てたように教室へと向かい、そのあとを何故か万葉も一緒に追うことになった。


 ――変な感じだ。


 阿魂も春一も無言。お互いに興味のない二人と行動を共にする。

 話すことも無ければ関わり合うはずもない存在。万葉も似たような思考を抱いてるようで、なんでもないようにただ冷然と廊下を進んだ。

 そうして二年の教室へと辿りつくと、本を両手に花耶が既に待ち構えていた。


「どうぞ……」

「どうも……」


 受け取った二冊の本はなんてことはない唯の歴史書。


(……なんだ、『アレ』じゃなかったのか)


 予想とは違っていた書物に万葉は盛大に舌打ちをしたくなった。

 親切にも彼女のために気を配ってやったのに、結局の真相がコレ。おまけにあのような目のやり場に困る光景を見せられたのだ。まったくもって割に合わない仕事をした。

 「あのまま片瀬少年に頑張ってもらえば良かった」と、少しの落胆を覚える。


「改めて、借り出します? この本」

「いえ、結構です」

「そう」


 最後までどこか冷え冷えとした会話を繰り広げながら、万葉は本を抱えなおした。最後に会釈して、図書館の方向へと向き直る。


「それじゃあ、私はこれで」

「はい、有難うございました」


 感慨も何も感じない声色。

 さっさと仕事を終わらせてメロンソーダで一服したい思いで万葉は足早に進もうとする。だがその前に春一に呼び止められた。


「佐々木さん」

「何かしら?」


 用件があるなら後にしろ。「どうせ同じクラスなんだから、幾らでも好きな時に接触できるだろう」と万葉は口汚く吐き捨てたくなった。

 が、後が怖いというか、厄介なことになりそうなので抑える。


「協力、有難う。君がこれからも問題を起こさない事を祈ってるよ」


 ――この、糞餓鬼。


 とても爽やかな笑顔で口にされたソレに、万葉の口が引き攣りそうになった。

 「いいえ、それじゃあ」なんて努めて柔らかいトーンで返しながら今度こそ校舎を後にした。

 出来ることなら今すぐ学校をやめたい。そんな気持ちでいっぱいだ。


「あ、そうだ」


 不意に失くした文庫本のことを思い返して、万葉はふと立ち止まった。

 だが数秒の思考の果てに再び歩きだす。


「……ま、いっか」


 ――探しものは忘れた頃に出てくる。


 あのいかがわしい本のことなど忘れて、さっさと図書館へ戻ろうと足を進めた。

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