27.
「――いや、だから本当に悪かったって」
六月十八日、午前十時五分。
新宿の路地裏に点在する『隠り世』入り口前にて。
薄暗い路地の奥の奥――入り組んだ道の一角に立つ、人の膝丈ほどもない色褪せた
しかし、傘は少年――桐人が許せないのか、つんと顔をそむけたままだ。
相当、怒っているらしい。
「悪かったで済むなら警察はいりません。あの屋敷に取り残された私が一体、どれだけ怖い思いをしたか……」
「――それならば、陰察官を呼びますかな。片瀬殿」
「それだけは、ご勘弁んんんんんん!!」
一向に好転しない二人の空気に水を差すように、額に鉢巻をまいた小人――土竜が携帯電話を取り出した。
「おまちください、土竜殿! 今のはあやです! 言葉のあやです! けけけけけけいさつは要りません!」
「――いや、つか陰察庁にも110番みたいなのがあったのか……」
ぼそりと桐人が最もな疑問を零してみたが、赤い傘ことからかさは土竜を止めることに必死なようで聞いていない。
ひょぃひょぃと器用にも路地裏の狭い壁を飛び交い、からかさの猛攻を避けながら、土竜は桐人の疑問に答えてやった。
「一応、祓魔師・呪術師がよく使うものがあるそうですよ」
「…………へぇ」
それを聞いて、陰察庁に『110番』をする陰陽師たちを、なんだか見たくなってしまった桐人であった。
♢♢♢
からかさと一悶着を終えた数分後。
盗まれた『椿の毒』や椿会の裏切りものについて調べようとしていた桐人は、路地裏からさほど遠くはない距離にあった『ゼニーズ』で、土竜とからかさの二人と顔を突き合わせていた。
窓際から最も離れた店内の左奥のテーブルでアイスコーヒーを啜りながら、黙々とパフェを髭で覆われた口へ運ぶ老人と、懸命に「傘」ではなく「変なぬいぐるみ」を装うとするからかさを桐人は胡乱な目で観察した。
――一体なんなのだ、この光景は。
非常に奇妙かつ、異質である。
偶に桐人へ向けられる、好奇心で輝く子供の無邪気な瞳と、敢えて視線すら寄こそうとしない店内の客に、桐人の心は疲弊しはじめていた。
この光景をクラスメイトに見られていたらと思うと心中おだやかではいられない。
しかしソレを気にしている余裕もないと、先ほど無事を確認したからかさへ、桐人はひそりと声をかけた。
「――で、さっき言ってた『志戸』が、俺たちを襲った鬼だってのは、」
「あ、はい。椿会の連中が話してたので、間違いないかと……」
――あの『薬』を服用したのか。
昨日、自分を追いかけまわした鬼の姿を思い出して、桐人は眉をひそめた。
「なんで、薬を飲んだんだ? 蟲の卵だってことはそいつも分かってたんだろ?」
「売人というものは、依存症の方々にとって天職ですからね。志戸がそのうちの一人だったという可能性もあります」
そう答えたのは土竜だった。
なぜ彼がこの場に居るのかというと、からかさを心配して探そうと思った桐人が『入口』へ赴こうとした際に、通りかかった路地の端で酒瓶を抱えながら寝転がる姿を見つけたからだ。
土竜が万葉と懇意にしている万事屋であることを、桐人は知っていた。だから依頼をしてみたのだ――今回の事件について調べられないか、と。
すると、土竜は既に万葉からの依頼で椿会や『椿の毒』について探りを入れていたようで、すぐに答えは返ってきた。
どうやら桐人と万葉がある種の協力関係にあることと、万葉が今置かれている状況は伝わっていたらしく、それなりの報酬――ゼニーズパフェを50杯おごることで、桐人は情報提供の約束を取り付けることができた。
と言っても、土竜曰くあまり大した情報はないらしいが。
それでも無いよりはマシだと、桐人は自身の財布を空にしたのだ。
「ちなみに土竜さん。志戸と岸松の顔って、わかります?」
「ああ、それなら此方に」
そう言って、差し出されたのは二枚の写真だった。
赤黒い肌をした一本角の鬼と、あどけない面差しの少年。見事に対照的な二人だと、桐人はじっとその顔を見つめた。
――
一本角の赤い肌の鬼は、昨日たしかに見た。形相はかなり変わり、その巨躯も随分と膨張していたが、写真の顔と確かに重なる。
では、この『岸松』は?
桐人は何故、この顔に見覚えがあると感じたのだろう。
この顔をどこで見たのか――。
「片瀬殿?」
ぬいぐるみのふりをしながら、こっそりとジュースを啜っていたからかさが桐人に呼び掛けた。
だが桐人は聞こえていないのか、じっと黙って写真の少年を注視しながら、頭に引っかかる『何か』の正体を懸命に暴こうとしていた。そして、
「――あ、」
わかった。
小麦色の髪。首元でさらさらと靡く傷んだ髪。
赤い帽子をかぶった小さな頭が、桐人の脳裏に蘇った。
思い出した――桐人は、昨日この少年と
(――忘れてた、)
そっと、カーゴパンツのポケットに触れる。
そこには何も無い。空っぽだ。
だが、確かに昨日はいていた制服のズボンには少年と接触した証拠が残っている。
(
顔を見たのは一瞬だ。だが、おそらく写真に写っている少年は――彼だ。
万葉も「人間ではない」と桐人とぶつかった彼のことをそう断言していた。
――マジか。
桐人は昨日、たったの一日で椿会から逃亡した裏切り者の二人と接触していたのだ。
つ、と桐人の頬を冷や汗が伝った。
――あの、
それの中身を桐人は確認していない。
あれの中身は何だ? パラダイスシフトか? ただの薬か? それとも、別の何かか?
分からない。後で交番にでも届けようと思い、ズボンのポケットに仕舞ってそのままだからだ。
確認など、してもいない。それどころか無責任にもその存在を完全に忘れ、ポケットに仕舞ったまま洗濯籠に放ったままだ。
(洗濯――!!)
がたっと、桐人は立ち上がった。
しまった。箱を取り出さないでそのまま洗濯籠に投げ入れてしまった。もし、母がそのままズボンを確認せずに洗濯してしまったら、あの箱の中身は――。
気づいた自らの愚行に桐人の顔が青ざめた。
からかさと土竜が不思議そうに立ち竦む少年を見上げる。
「片瀬殿?」
「――おれ、」
焦る内心を押さえながら桐人はモグラたちに事情を説明しようとして――口を閉じた。
『――それって、あの監視と何か関係があるの?』
花耶の言葉を思い出したからだ。
桐人が訝しんでいたとおり、監視はついていた。花耶がそう言ったのだから間違いない。
(もし、俺がここで動けば――)
十中八九、土御門にこの話は伝わるだろう。
それが果たして良いことなのか、桐人にはわからない。
だが、きっと、桐人が拾ったあの箱の中身がどうであれ――事実を知れば土御門は『それ』を渡せと命令してくるだろう。
まだ、あの箱の中身が岸松たちに繋がる重要な手がかりと決まったわけではない。
中身は空っぽかもしれないし、見た目どおりの唯の風薬かもしれない。
――けど、もし、それが重要な『何か』だったら。
少なくとも桐人は良い予感を覚えなかった。
別に陰察庁を信用できないと言っているわけではない。
陰察庁は、『人』のために動き、現つ世が正常であるよう発足された特務機関だ。――そう、『妖』ではなく、あくまで『現つ世』のために。
桐人は土御門がこの事実を知ることにある種の危険性を感じた。
見つけて、彼はどうするのか。確実に椿会に教える真似はしないだろう。
知られないように、静かに、内密に動き岸松たちを見つけ、事件の鍵である『椿の毒』を手に入れる。
手に入れたその先は――椿会に渡すのか。
そもそも椿の毒とは何だ? 搗山は毒を最初、「瓶」と呼んでいたが、それが何であるのか正確には説明をしていない。
椿の毒とは何なのか。それを手に入れたとして、どのような事態をもたらすのか、桐人は知らない。
(いや、違う。今はこんなことを考えている場合じゃない……!)
とにかく、今は一刻も早く自宅に戻り、あの箱を回収するべきだ。
だが、突然立ち上がって自宅へ引き返すなんてことをすれば、桐人についている監視が一体どう思うか――。
(さりげなく、いや――嘘と本当を織り交ぜて動くか……)
洗濯物に大事なものを入れっぱなしにしてしまったと言い、慌てて帰っても怪しむ人間はいないか考えてみる。
わからない。分からないが、下手に誤魔化そうとするより良いのかもしれない。
そう結論づけて桐人は動き出そうとした。刹那――。
「――片瀬殿」
自身を呼んだ声にふっと視線をあげれば、土竜が桐人を見つめていた――いや、ふさふさの眉毛で目元も隠れてしまっているので分からないが、おそらく見つめているのだろう。
「慌てていらっしゃるようですが、何かありましたか?」
「あ、ああ。えと、せ、千円札をポケットに入れっぱなしにしていたズボン。洗濯機に投げ入れちゃったの思い出して……洗濯機回される前に、回収しなきゃ」
「それはいけませんな。パフェをあと10杯おごっていただかなければ、私が困ります。お金は大事です。取りに参りましょう」
「え、で、でも」
「
「え、」
「近道」と言った土竜に、桐人は目を瞬かせた。
万事屋である土竜は桐人の自宅の住所さえも知っているのだろうか。
不信感にも似た感情を抱いて目の前の老人を凝視すれば、にっこりと彼が笑う気配がした。
「ご安心なされ。
そう言って、小さな手が自身の青い携帯を握った。
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